奏でられない音 03 |
手紙は、相変わらず届いていた。 封のされていないのは、自分で持って来ているからなのか。でも、それらしき人物を見たことはなかった。 和音は、あんな食べ方でも栄養にはなっているようで、やせ細るのは止めることが出来た。 止められないのは、病んで行く精神だ。 ヴァイオリンは、相変わらず弾くことが出来ないでいた。あの、二度目の侵入から、二週間が経とうとしていた。 Je t'aime. 繰り返される、その言葉。最近は、店に買い物に行ったり、散歩をしたりして部屋を開けると、必ずといっていいほど鍵が開いていた。 すぐ帰って来ることを分かっているのか、前のようなことはない。でも、必ず何か後を残して行く。大概が和音の衣類で、ただ散らかすだけだったり、ひどい時は、血が垂れていた。その血で、いつものメッセージが、テーブルに記されていた。 「ホテルに移ろう」 その日、血のついた衣類を見て、伊織は何度も言おうと思って言えなかった言葉を口にした。この件で、和音は伊織に依頼は取り下げたいと言った。だから、伊織は何も言わずにいたのだ。でも、ひどい。エスカレートしているのが分かるのに、放っておけない。 それなのに、血の気の引いた、ひどく顔色の悪い、そんな顔をしているのに、和音は首を横に振った。始めは小さく、でも、次第に大きく。 伊織は、唇を噛み締めた。じっと、その顔を見つめる。でも、何が和音にそうさせるのか、わからなかった。 「真藤さん」 伊織の声に、和音が顔を上げた。でも、視線を合わせない。そっと、手を引いて、ソファーに座らせた。伊織はその正面の床に、あぐらをかいて、俯いた和音を、見上げる。 「どうして、ここを移りたくない?」 和音は、視線を合わせないままだ。伊織は、その膝にそっと触れる。 「何を、考えてる?」 ゆっくりと、和音が視線を自分に移すのを待った。瞳が、揺れている。 苦しそうに、喘いだ。 「伊織くん、窓を…窓を、開けてくれる?」 囁くような声に、伊織は無言で頷いて、立ちあがる。その瞬間、和音が大きく息を吐いたのが分かる。 ソファーのすぐ後ろの窓を開けると、暖かい風が入ってきた。今日は空が青い。日の光の好きなパリジャンたちは、きっとカフェのテラスを占用していることだろう。 伊織が元の位置に戻ると、和音が口を開きかけて、また閉じた。視線が泳いで、瞳が揺れる。伊織は何も言わずに、待つことにした。 和音の後ろの窓から見える空が、眩しいくらいだった。その中に、和音が透けていってしまいそうな錯覚を、伊織は見た。 自分の存在を、拒否しているようだった。消えていってしまおうと、しているようだった。 それを、伊織は止められるのか、わからない。止めていいのか、わからない。 やがて和音が、大きく息を吸った。 「この人は、僕なんだ」 やっと言えて、目を閉じる。それをまた開いて、今度は伊織をじっと見つめた。 「苦しいんだよ。どうして、こんなに好きなのか分からなくて、」 「この人は、僕なんだ」 そう、もう一度、和音は言った。 伊織はやっと和音が何を思っているのか分かって、大きく息をついた。 同調している。 この、異常な相手に、同調しているのだ。 思うこととすることは違うのに、和音にはそれがわからない。壊れかけた心では、そんなことは分からなかったのだ。 真摯に自分自身を見つめる和音は、その全てがヴァイオリンの音となることを恐れた。始めは、伊織を好きだという思いが溢れることを恐れていたのかもしれない。でも、毎日手紙を送ってくる相手に、その思いの強さに、和音は引っ張られたのだ。 こんな相手だから、電話では卑猥な言葉を言っていたのかもしれない。その一方で熱烈に愛を囁く相手に、和音は自分を重ねてしまったのだ。 「壊れちゃうよ」 和音が呟いた。何処だか分からない、伊織には見えない何処かを、見つめている。 「僕、きっと壊れちゃうね…」 それから伊織は、嫌がる和音を、無理やり部屋から出した。志筑に連絡を取って、知り合いを紹介してもらう。とにかく、あの状況から抜けでなくては。和音はもう、耐え切れなくなっている。狂ってしまえるなら、狂ってしまおうとしている。 手遅れになる前に、どうしても和音を取り戻したかった。 初めて出会ったあのとき。 自分の全てを許すように笑った、あの顔を思い出して。 強い、憧れるほど強い、あの瞳を思い出して。 雨の中、震える声で自分を呼んだ、あの声を思い出して。 なくしたくないと、ただ、それだけを思った。 灯りを消した和音の部屋に、伊織はそっと忍び込んだ。古い鍵で音を立てずにドアを開けるのは至難の業だと思ったが、それは杞憂に終わった。 鍵は、開いていた。 月明りに、和音のベッドが白く浮き上がっている。その上に、座り込んでいる人影があった。自分の足の間に手を入れて、その手を必死に上下に動かしている。荒い、息遣いが聞こえる。その口で、和音の名を呟いている。少し体格の良い、マロン色の髪の毛をした男だった。顔は見えないが、それほど年もいっていないだろう。 男の息遣いに耳を澄ます。男が絶頂を迎えようとしたその時、伊織は電気のスイッチを押した。 突然のことに、男が驚いて振り向いた。でも男が伊織を認識するより早く、伊織は男の鳩尾にパンチを入れた。かわいそうな男は、達することなく、気絶した。 その男の胸倉を掴んで、引き上げる。その顔を殴りつけようとして、手を振り上げた。その衝動を、伊織は必死で堪えた。 殴るなら、意識のある時に殴りたい。そう思うことを分かっていて、気絶させたのだ。これ以上、厄介ごとを作ってはいけない。 振り上げた手を下ろして、男を無造作に床に投げ捨てると、伊織は大きく深呼吸して、警察に連絡をした。 男は和音と同じアパルトマンに住む、家庭もある、会社員だった。 街で和音を見かけて、同じアパルトマンと知って、何度か声をかけたことはあるようだった。でも、初めはにこやかに答えていた和音が、最近になって冷たくなった。だから、手紙を書き始めたのだという。 和音は冷たくなったわけではないだろう。多分ちょうど、ヴァイオリンが弾けなくなった頃だったのだろう。 男は何度か手紙を出すうちに、ほとんど部屋に篭りきりになり、一向に答えてくれない和音に、妻子もあるのに自分をゲイにしたのは和音だと、逆恨みをし始める。 もともと、その妻である女性とも上手くいってはいなかったようだ、と警察は言っていた。それを、順序を違えて、和音の所為にしたのかもしれないと。 そもそもの原因は、まだわからない。でも、和音でなくてはいけない理由は、なかったのだろう。ただ、男の歯車が狂い始めた頃、和音と出会ったというだけで。 警察に引き取られる時、その男は、伊織に向かって叫んだ。 「Il est a moi!」 彼は、私のものだ、と。 確信に満ち溢れたその声に、伊織は何も言わなかった。 朝が、訪れようとしていた。その日の出の早さに、確実に夏に向かって行っているのが分かる。 色々な雑用が終わって、警察を解放されたのが、もう午前3時近かった。 捨てたといった精液のついた衣服も、血のついたそれも、毎日届く手紙も、伊織は全部持っていた。それを全て預けて、それから和音のアパルトマンに戻って、ベッドカバーを取り替えた。 その頃にはもう、朝の光りが、部屋に満ちようとしていた。 窓を開けて、外の空気を大きく吸い込む。その光りに目を細めた伊織のその目に、見慣れた人影が映った。 アパルトマンの階段を駆け下りた。ドアをばたんと開け放して外に出た瞬間、その光りの眩しさに思わず目を瞑った。 ゆっくりと目を開けると、伊織の目の前に、和音がいた。ぼんやりと、不思議なものを見るように、伊織を見ている。 ゆっくりと、和音の手が伸びてくる。それをそっと握って、伊織は和音を引き寄せた。 出会わなかったことになど、できるはずがない。 あの微笑を知らないと、言うことなんてできない。 この思いを、ないことになど、できない。 「俺としたいと思ったの?」 伊織はホテルを引き払った。本当は、和音のアパルトマンだって変えた方が良い。でも、まだ何も終わっていない和音は、引っ越すことに首を縦に振らない。 男が捕まって、一週間が過ぎようとしていた。 和音の様子は、変わらない。それでも男が捕まったと聞いたとき、ほっとした表情をした。 それが、自分に危害がなくなるという安堵感ではなくて、悪い人は捕まるべきだという、そんな思いからだと言うのは、伊織にはすぐに分かった。 彼が捕まったのだから、自分も伊織に何か危害を与えるようなことがあったら、捕まえてくれるだろうと言う安堵感。 少しづつ、和音と話して行くしかない。 逃げ回っていたつけが、回ってきたのだ。 和音が首をかしげた。 「俺と、セックスしたいと思ったの?」 今度ははっきりと単語を言って、伊織は微笑んだ。ソファーの上の和音が、身じろぐ。目を逸らそうとするのを、手を握って引きとめる。 俯いたまま、和音の首が小さく縦に振れた。 「俺を思ってした?」 そう聞いた瞬間、和音ははじかれた様に顔を上げて、泣きそうな顔で首を横に振った。 「そんなことっ」 その和音の髪を、その足元から手を伸ばして、ゆっくりと撫でる。 「なんで?別に悪いことじゃない」 和音の顔が、うっすらと青ざめたようになっている。したいと、思ったのだろう。でも和音は、自分ではどうにも出来ない。多分、その気持ちが何なのか、それすらわからなかったのかもしれない。 最初は、触れたいとか、抱きしめられたいとか、そんなものだった。でも、あるときあの男から電話があって、和音は愕然とした。 電話の向こうで自慰行為をしていた男は、卑猥な言葉を言いながら、和音にこう言ったのだ。 あんたも、して欲しいんだろう? 心臓が、鷲づかみにされたと思った。目の前が真っ暗になって、和音は呆然と立ち尽くした。 汚い。 男の声も、息遣いも。そう思った。自分が汚されていると、分かった。 それなのに。 もやもやとした自分の気持ちが何であるかを知った和音は、その時その場で、嘔吐した。 恐ろしさに身が震えて、その後どうしたのか覚えていない。 その電話の声を思い出して、反射的に耳を塞いだ和音の髪を、伊織はそっと梳く。 ヴァイオリンが全てを担っていると言うのなら、もしかしたら、性的な快感もそれで済んでしまっていたのかもしれない。 バランスをとっていたと言う志筑の言葉が、蘇る。 今までは、それをそうと知らずに発散していたのが、今回は発散する前に、思いが生まれてしまった。そのことで伊織を汚す気がして、和音は怖くて音を出せなかった。 音を出せば、自分の汚れた思いも分かってしまう。 でも、ヴァイオリンでしか発散方法を知らない和音は、抱え込むしかなくなっていた。 スタートが、間違っているのだ。 何も恥ずかしいことでも、いけないことでもない。 「俺も、するよ。好きな人となら、したいと思うし、離れてしまえば、その人を思いながらする」 伊織はゆっくりと立ち上がって、和音の後ろの、ソファーの背もたれに手をついた。それから口を和音の耳元に寄せて、囁いた。 「今は、和音としたい」 反射的に和音が顔を上げる。その唇に、ゆっくりと自分の唇を落とす。 和音はわけがわからなくなって、目を見開いたままだった。 ぎゅっと、そのまま抱かれる。 少し強いその力が、自分を少しづつ元に戻して行く気がした。 暖かくて、心地がいい。この腕の中なら、何も怖くない。 和音はひどくほっとして、そのまま、意識を手放した。 やっと、眠れる。 もう朝も、明日も、怖くない。 意識が落ちて行く最中に、「愛してる」と囁かれて、和音は無垢な子供の様に、微笑んだ。 夜中になって起きた和音は、傍らに伊織がいるのを確認して、ほっと息をついた。 そっと、その前髪に触れる。 ずっと満足に眠っていなかったのは、伊織も同じだろう。眠れない和音の髪を、一晩中撫でていてくれたこともある。少し疲れの見える顔を、和音は見つめた。 そっと、唇に触れる。和音は先刻の口付けを思い出して、微笑んだ。 ずっと、ひた隠しに隠していた。自分のこの思いが、伊織の邪魔になることは分かっていたから。 あの夜。 降りしきる雨の中で、この気持ちを確かめられれば良かった。初めてのこの気持ちを、捕まえられれば良かったはずだった。 あの掴んだ腕の温かさと、呟くようなあの声と、真っ直ぐな視線と。 その全てを覚えていれば、それでいいと思ったのだ。 でも。 雨が降るたびに思い出す。その雨に濡れると、切なくなる。 思い出など、ないほうが良かったのだ。縋りつけるものなど、ないほうが。 突然、その指先を舐められて、和音は驚いて声を上げた。伊織の肩が、震えている。 「起きてたの」 少し恥ずかしくて、怒ったような声になる。伊織が体の向きを、和音の方へ向ける。顔が、笑っている。 すっと手が伸びてきて、和音の頭を引き寄せた。笑顔のまま、そっと、触れるだけのキスをする。 「ヴァイオリン、聴きたいな」 「うん。僕も弾きたい」 「スタジオ、近いの?」 「歩いて五分ぐらい。行く?」 「聴かせてくれる?」 「うん、聴いて」 誰よりも、最初に聴いて欲しい。今なら、新しい音が生まれる。それを、誰よりも伊織に。 二人は手早く着替えて、早朝の街を行く。時計は午前四時を回ろうとしていた。もうすぐ、夜も明ける。新しい、朝が来る。 久しぶりのスタジオに、久しぶりのヴァイオリン。開け放したい窓はさすがに早朝だからと遠慮して、カーテンだけを開いた。 何もないスタジオの床に、伊織は腰を下ろした。和音が愛しそうに、ヴァイオリンをケースから出す。 しばらくじっと、準備が出来るのを待った。それからおもむろに、和音が構えた。 ゆっくりと、広いスタジオに、澄んだ音色が響く。それに呼応するように、和音の後ろの窓から、朝陽がゆっくりと射し込んだ。 その輝かしさに、伊織は目を細めた。 この至福のときを、伊織はきっと忘れない。 誰にもきっと奪えない、この、幸せを。 きっと、忘れは、しない。 了 |