home モドル

 

 

 

* 02

微かな旋律

01

 その部屋に入るのは、少々の勇気が要った。ただ邪魔をしたくない、それだけなのに、神聖な場所を汚すようで、ドアノブに触れることさえ躊躇われた。
 鍵は渡されている。
 今日はどうしても抜けられない仕事があると、心底申し訳なさそうな伊織の声が蘇る。
 それよりも、渡された鍵の方ばかりに、自分の注意は寄っていた。
 今まで、部屋に呼ばれたことはなかったのだ。最初はどこに住んでいるのかさえ、教えてくれなかった。
 少しずつ、受け入れられていると実感できる。それが伊織の諦めからくるのか、腹を括ったからなのかは分からなかったが、和音にとっては喜ばしいことだった。
 ドアノブは、あっけなく回った。
 …いる?
 遅くなると言っていたのに。
 和音はほんの少し眉根を寄せて、それから部屋の中に呼びかけてみる。
「こんばんはー」
 少し掠れたようなその声に、和音は恥ずかしさを感じながら、答えを待った。伊織は現われることなく、入ってくるようにと、声だけが促す。和音は中の様子を気にしながらも、小さく「お邪魔します」と呟いて、部屋へと上がった。
「ごめん。ちょっと手が離せなくて…」
「ううん……伊織くん?」
「ん?」
「この子…は?」
 伊織はキッチンに立っていた。そして、そこに続くダイニングに、小さな男の子が座っていた。大人しく、ウサギのぬいぐるみの耳を開いたり閉じたりしている。
「ややこしいから後で説明する。飯、まだだろう?」
「あ、手伝う」
「もうちょいだから大丈夫。悪いけど、そいつ見ててくれない?」
「うん」
 とは言ったものの、和音はどう相手にしたら良いのか分からない。取り敢えず荷物を置いて近くに座ってみたが、彼はまったく反応しなかった。じっと、ウサギのぬいぐるみを見つめて、その耳を飽きることなく開閉している。戸惑いながらも声をかけるが、それにも何も答えなかった。どうしようもなくて、和音はずりっと近寄った。俯いた顔は、表情が見えないからだ。
 そのときになってやっと、少年は顔を上げた。
 ……?
 微かな、違和感。
 それが目の所為と気付くまで、そう時間は要らなかった。
 彼の目は、焦点が合っていなかった。
 ―――この子は…
「出来たよ。食べよう」
 伊織が手際良くテーブルに料理を並べながら、そう声をかけてきた。ふわりと甘い匂いが漂って、伊織は少年を抱き上げた。そしてそのまま、椅子に座らせる。
「伊織くん、その子…」
「うん」
 伊織は返事をしながらも、少年にフォークを握らせ、手を導いている。少年の前にある皿にのっているオムレツだけは、小さく切られていた。
「俺達もこの子に付き合って、お子様セットな」
 そう苦笑した伊織の顔は、少し悲しげに歪んでいた。

「よし。寝た」
 伊織は寝室から出てくると、そう言うなり和音を抱きしめた。
「え?ちょっ…伊織くん??」
 突然のことに、和音は対応しきれない。でもその抱擁が、縋りつくような抱擁と気づいて、和音はそっとその背中を叩いた。抱きしめてくる力が、弱々しい。堪えるような吐息が辛くて、和音は唇を噛んだ。
 しばらくそうしてから、伊織は身を離した。
「コーヒー、淹れるな」
「僕やろうか?」
「…ん、ありがとう」
 和音がコーヒーを持って行くと、伊織はソファーに座ってじっと目の前のテーブルを睨むように見ていた。和音がコーヒーを置いて向かい合って座ると、手招きされた。
「さて、話そうか」
 隣り合って座って、和音が寄りかかるようにと引き寄せてから、伊織は穏やかな声でそう言った。体を預けているのは和音だが、本当に寄りかかっているのは、伊織の方だった。傍らで、温もりを感じていたい。
 何か、温かいものを感じていたい。
 その欲求があまりにも強くて、今日、和音が来ることを拒めなかった。
「あの子、目が見えない?」
「―――うん。それに、耳も聞こえない、喋れない」
「え…」
 思わず身を離して、和音は伊織を見た。
「ごめんな…」
「なんで謝るの」
 そう答えた和音に、伊織は苦笑いを返した。和音がそっと、腕に触れる。それを振り解くことなどできなくて、伊織は目を閉じて長い吐息を吐いた。
 今まで自分が、どうやってこんな温もりをなしで過ごしてきたのか、伊織にはもう、わからなかった。
「事情があって、しばらく預かることになったんだ」
「名前は?」
「…要(かなめ)」
「要くんかぁ。いくつなの?8才ぐらい?」
「…―――12」
「え?」
「その年にしては小柄だな」
 伊織の声には苦々しさが滲み出ていて、和音はそれ以上、何も言えなかった。
 細い腕だった。服の上からも分かるくらい。背も小さくて、大きな瞳。食事も、ほとんど食べていなかった。
 伊織が抱き上げた時、とても軽そうだった。

 その夜、和音は客室で、伊織と要は伊織のベッドで眠った。名残惜しそうにキスをされ、申し訳なさそうに微笑まれ、和音は気にしていない振りをするしかなかった。
 小さなアパートなのに客室があるのは、伊織が二部屋を繋げたからだ。大家とはどうやら知り合いらしく、伊織は好きに改装していた。
 ゆっくりと白んでくる朝を、和音はじっと眺めていた。開け放した生成りのカーテンが、朝陽に染まる。
 その朝を淋しいと思うのがたまらなくて、和音は起き上がって着替えて、そっと部屋を出た。殺風景な伊織の部屋は、それが伊織らしくて、逆に和音を和ませた。殺風景なのに温かいのは、少ないもののほとんどが木で出来ているからかもしれない。テーブルも椅子も、小ぶりな食器棚も、全てが木製だった。
 ダイニングキッチンに入ると、伊織はもう起きていて、窓を開けてコーヒーを飲んでいた。Tシャツにジーンズというラフな格好で、片足を窓枠にのせている。そこから湯気ではない白い煙が見えて、和音は息を飲んだ。今まで、知らなかったのだ。
「…こら、未成年」
 近寄って苦笑すると、伊織はバツが悪そうに煙草を消した。
「コーヒー飲む?」
「自分でいれる」
 和音はやっと、そう微笑んだ。
 見ていられなかった。
 伊織の表情が、あまりに辛そうで。そして、そこに立ち入ることを許されない自分を感じて。滅多に吸わない煙草を吸うのも、吸わずにはいられないからだろう。
「いつから起きていたの」
「ん?…さっき」
「…―――伊織くん、コーヒー冷めてるよ」
 にっこりと笑われて、伊織は苦笑した。差し出されたカップを手に取って、そのまま、軽く口付ける。
「要くんは?」
「まだ起きない」
 要が寝入るのは、いつも夜明けになってからだった。食事をした後、数時間は意識を失うように眠る。でもそれも2、3時間のことで、あとはじっと目を開けて天井を見ている。見えていないのに、じっと。
 寝息のように安らかな呼吸だが、眠ってはいない。
 伊織はその気配に、眠れない。でも、何もできない。ただじっと、傍らにいることしか。
「ちょっ…伊織くんっ」
 抱きしめられたまま首筋に唇が落ちてきて、和音は身を離そうとする。こんな朝の明るい中では、気恥ずかしい。
「大丈夫。抱かせてよ」
「何が大丈夫…」
 背筋を伝わる手が、意思を持って動いている。知っているその感覚に、和音は慌てた。
「だめだって。要くんが…」
 言ってから、和音ははっとしたように口を噤んだ。その口に、伊織が口付ける。
 彼は、気付きようがない。目も見えず、耳も聞こえないのなら。
「そんな顔されたら、抱けないじゃん」
「ねぇ、伊織くん」
「何?」
「僕、今日も泊まるね」
 和音のその言葉に、伊織が一瞬動きを止める。その隙に和音はその腕の中からするりと抜けて、自分のバッグの中から鍵を取り出した。伊織に渡された、鍵だ。
「…忘れてた。返すね」
 これは、もらったものではない。伊織はこの鍵を渡すとき、確かに「貸すからこれで入ってきて」と言ったのだ。和音はそれを聞かない振りには出来なかったし、それを分かって伊織も鍵を渡したのだ。
「和音、悪いけど」
「泊まるよ。それぐらい、許してよ」
 鍵は返した。聞かない振りなどせずに、確かに。
 こんなに伊織が参っているときに、近くにいることぐらい許して欲しかった。
 伊織はため息をついて、困ったように和音を見た。和音の意思は強固で、悪いのは自分だと言うこともわかっていた。
 最初から、要が部屋に来ることが分かった時点で、和音との約束は諦めれば良かったのだ。
「和音から誘うなんて、俺、我慢できないよ」
 伊織がわざとそう言って和音を引き寄せると、和音は怒りながらも赤くなって、伊織の手を軽く叩いた。
 そんな伊織の軽口が、和音には切なかった。




 

02