微かな旋律 02 |
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「和音?ごめん、ちょっと遅くなりそうなんだ。先に寝てて」 「うん、わかった」 「要はさ、そのまま寝せていいから。風呂とか着替えとか、させなくて」 「え?」 「その服のままな」 伊織は口早にそう言うと、ごめんと言いながら電話は切られた。 要が顔を和音に向けている。動く気配でわかるのか、ときどきそうして顔で追ってくる。和音はにっこりと笑って、要に近づいた。そっと頭を撫でてやる。そうすると、要は小さく頭を傾けた。 「伊織お兄ちゃんはまだ帰って来ないんだって。だから、先に寝ちゃおうね」 そう言って手を取ると、要は促されるままに立ちあがった。小さな手だ。和音は少し迷って、自分の泊まっている部屋のドアを開いた。 「伊織くんはそのままって言ったけど…暑くない?」 要は何故か、長袖を着ている。季節はすっかり夏で、半袖でも暑いと言うのに。 「ちょっと待ってて」 和音はそう言って、要の髪をそっと撫でる。それから伊織の部屋に行くと、要のパジャマを持ってきた。そのパジャマも、長袖だった。伊織は不必要に冷房をかけない。それほど冷えるようにはなっていないはずだ。 「さて、やっぱり着替えようね」 そういいながら、着ていたシャツのボタンをはずす。伊織がそのボタンをしてやっていることを考えると、なんだか可愛らしくて、微笑が洩れた。 ふと、その手が止まる。 微笑みも血の気が引くように消えてなくなり、手が細かく震え出した。要の体を凝視する目は、それを見ることを拒んでいるのに、逸らすことが出来ない。 震える手で、そっとシャツを肩から落とした。そして今度こそは、その目の前の要から、目を逸らした。 心臓が、ドキドキ言っている。ともすれば吐きそうになるのを堪えて、和音は大きく息を吸った。その息にむせて、ごほごほと咳をする。 倒れるかと、思った。 留まれたのは、彼を伊織から預かっていると言う気持ちのおかげだった。 もう一度大きく息を吸って、要の方へと顔を向けた。 夥しい数の、傷と火傷の跡。傷は規則性なくつけられていたが、火傷は――― 丸い煙草の跡だろうと思われる火傷は、全身に綺麗に並べてつけられていた。 手にも、脇から下あたりの胸にも、酷いくらいに綺麗に並べられている。整いすぎて、 ―――残酷だった。 和音はそっとパジャマを着せた。ベッドに横たえ、おやすみと呟く。 その声が震えて、要には聞こえていないのに、和音は唇を噛んでそれを後悔した。 長袖の理由。 電話の言伝の理由。 伊織の、辛さの理由――― 一時に全てがわかって、和音は眠ることなど出来なかった。かちゃりと微かな音がして、伊織の帰宅を告げる。その音がなにより待ち遠しかった和音は、思わずソファーから飛び上がるようにして伊織に抱きついた。 「和音…?」 ぎゅっと、強く抱きしめる。それから懸命に、涙を堪えた。 その和音を、伊織は柔らかく抱き返す。 「だから、そのままって言ったのに」 「…ごめん」 「明日は、帰んな」 「やだ…」 「和音」 強い声に、和音が身を離して伊織を見つめる。そして、強く首を左右に振った。 「帰らない」 「…巻き込むんじゃ、なかったよ」 「巻き込んでない」 「同じだろっ?!頼むから」 伊織が声を荒げたのに、和音はそれでも首を横に振りつづける。 帰ることなど、出来なかった。見てしまったから、二人の傍らにいたかった。伊織と、要と。 「今日みたいな日はどうするの?要くんを一人にしておくの?」 「誰かに頼むさ。もともと警察からの預かり人だ。そっちで保護してもらっていてもいい」 伊織は伊織で、和音をこれ以上事件に関わらせるつもりはなかった。今だってこんなに真っ青な顔をしているのに、要を深く知れば知るほど、また恐ろしく残酷なことを知らなければならない。 「そんなっ。僕がいる。パリに戻るまで一ヶ月あるから」 「和音。練習もあるだろう?」 「何言ってるの。ここは防音効いてるでしょ。駄目だよ。譲らない。わかっていて、こうなることをわかっていて僕を呼んだんじゃないの?―――呼んだのは、君だよ伊織」 決意を込めた声は冷たい。見つめてくる視線も強くて、あまりに強くて、伊織は息を止めた。最初に、好きになったころを思い出した。そうだった。あの目が印象的で、捉えられたのだ。伊織はその眼に負けを認めて、小さくため息をついた。 「約束して。要と二人で外に出ないこと。要がいることを誰にも話さないこと。俺を呼び捨てにすること」 「うん。わかった…――え?」 「さっき、呼び捨てただろ?あれが甘い囁きなんかだったら、嬉しい」 にやりと、伊織の唇が笑った。 実際には、和音の方が年上だった。ただその口調のせいで、今みたいな呼び方になったけれども。 「そんなの条件にすることが変な気がするけど…わかった」 和音は伊織が笑うためにそんな言葉を言ったことを察して、呟いた。何度もフラッシュバックしてくる要の身体を、伊織は毎日見ているのだろう。その肌を、洗ってあげさえしている。 和音は、触れるのが怖かった。人間の皮膚の様相を呈していない、あの肌を。 でも、伊織はそれを引き受けていた。 「要のあれは、精神障害なんだ」 「精神障害…」 「見たくない、聞きたくない、話したくない。それで見えない、聞けない、話せない」 和音は絶句した。どれほど酷いことをされたか、想像も出来ない。後に残っている傷は、ほんの一部分なのだろう。幼い子が、そうまでなるどんな行為を受け、どんな言葉を受けたのだろう。 「和音、やっぱり帰りなよ」 しばらくの沈黙の後、伊織はため息をつきながらそう言った。和音はちらりと伊織を見て、手に持っていたコーヒーを飲んだ。 日の光は明るく、昨日見た光景は夢のようだった。悪夢は醒めて、何もなかったように。 夏の光は強烈で、そんな悪夢もその光に覆い尽くされそうだった。 でも、そんな強烈な光りのもとだからこそ、闇ははっきりとその暗さを主張した。 居たたまれなくなる。 「それは昨日話したでしょう」 和音はその暗さがひたひたと自分に侵入してくるのを感じながら、少し投げやりな口調で伊織に答えた。 「言えないことがたくさんあるんだ、和音。だから、これしか言えない。危険なんだ」 「あのね、伊織くん。僕はもう要くんを知ってるんだ。見なかったことにも、会わなかったことにもできない」 同じことなのだ。今ではもう、和音がここにいても、いなくても。 「頑固だなぁ」 「どっちが?」 「……」 「今日はいるんでしょう?僕、バイオリン取りに一回帰るね」 差し出された手に、伊織は仕方なさそうに鍵をのせる。それは音も出ないほど、ゆっくりと置かれた。 |
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