sine qua non
最初の記憶は、指先が少し冷たい、大きな手の感触だ。強く握られたその確かな感触を、湊ははっきりと覚えている。相手の顔も、何も覚えていない。ただ、その感触だけ。
底冷えのする冬の朝、起きてそのままベランダに出た湊は、その手すりの冷たさに、ふとそんな昔の記憶を思い出した。吐き出す白い息が、宙に漂う一瞬を眺める。その息に、自分が生きていることを実感できるこんな冬の朝が、湊は好きだった。
「そんな格好で外にいらしたら、風邪を召されますよ」
低い、穏やかな声がして、湊の肩にガウンがかけられた。振りかえると、あきれたような顔をした各務がいた。
「寒くないのですか」
喋る各務の息が白い。湊はそれが宙に流れるのを楽しげに眺めている。
「中に」
入りましょう、と言いかけた各務に、湊は腕を伸ばした。各務はそれを受け止めて、抱きしめる。
「寒いよ。だから各務が暖めて」
湊がそう、いたずらな子供のように言うのに、各務は隠れて小さくため息をついた。でも、白い息が舞って、それを湊は見逃さない。
「お食事ができています。でもこんなに冷えてしまっては、シャワーを浴びた方がいいかもしれないですね」
そう言いながら、各務は湊を部屋に連れて行った。
「各務」
少し強い口調で、湊が呼ぶ。その自嘲の混じったような、切なさまで聞こえてきそうなその声が、各務は嫌いだった。そんな声を、出させたくはないのに。
「今日は、これから出かけなくてはなりません。申し訳ありませんが、お食事はお一人でなさってください。必要でしたら、香苗を呼んでください」
そう言って、湊をベッドにおろす。湊は何も言わない。カップに注がれた紅茶を手渡されて、その暖かさにしばし和んだ。手が、冷たかった。
「午後には戻れると思いますので」
紅茶を飲んだ湊を見て、各務は少し安心したようにそう言って退出した。パタンと、小さな音がして、各務が出ていく。その小さな音に、湊の心臓が悲鳴を上げる。
抱きしめてと、何故言えないのだろう。
行かないでと、何故言えないのだろう。
手にした紅茶が、急激に冷たくなっていく気がした。寒さが、突然ぶりかえる。
庭に面した大きな窓からは、朝の光が差し込んでいる。その光に包まれても、湊は寒さをぬぐえなかった。
寒いのに。
こんなに、寒いのに。
自分を暖めてくれるものは、何もない。
湊は、各務に抱かれたその腕を、無意識に掴んでいた。
「各務、各務っ」
いつもなら一度呼べば来る各務が、何度呼んでも返事さえない。湊は次第にイライラしてきていた。ドアを乱暴に開ける。その音が廊下にこだまして、奥から住み込みで働いている香苗が走り出てきた。
「どうかなさいました?」
「各務は?」
湊は香苗を見て、少し落ち着いたようため息をついた。湊の容姿と家柄の良さに、やたらと湊に接触してくる今までの家政婦と違って、香苗は湊のことについては各務に任せればいいと、余計なことはしない、できた娘だった。湊と一つしか違わないはずなのに、とても年上の、姉のような気を起こさせる、明るく朗らかで気の付くこの香苗を、もう何十年と成宮に勤めている執事の守屋も女中頭の綾乃も、かわいがっていた。綾乃などは、自分の目が黒いうちにこの娘を育て上げると、張り切っている。
「まだお戻りではありませんけど」
「午後には戻るって言ってたのに」
湊は各務に容赦ない。香苗など始めの頃に失敗しても決して怒らない、あの湊の優しい微笑があったから頑張ってこれたと思っている。香苗だけではない。自身の仕事を、限りなく努力してこなしている人間には、たとえそれがうまくいかなくても、湊は優しかった。それが、各務にだけは厳しいのを知ったとき、香苗には俄かに信じがたかった。各務は、香苗から見れば完璧と言っていいほどの仕事をしている。それがどうして……。
その答えが、最近になってやっと少し、分かってきた気がする。
湊は、各務に絶対的信頼を持っている。他人が、入り込む余地などないくらいの。そして各務は、それに確実に答えている。それを、湊はひたすら確認している。各務の、忠誠心を。
女友達も多いこの成宮のお坊ちゃまが、こと各務に関しては、不器用なほどうまく接することができていない。端から見れば、各務の一番大切なものなど、分かるというのに。
ほほえましいと思う。でも、それよりも切なく思う。湊のことも、各務のことも良く知り始めた、最近では。
「まだ正午ですもの。もう少しかかるのではございませんか?」
その言い方に、湊は香苗を見た。
「各務、どこ行ったか知ってるの?」
「あら、まあ、お話しなかったんですのね」
香苗は、ちょっと困ったような顔をする。各務が話さなかったのなら、自分が話すべきではない。
「何?」
湊のまっすぐな視線に、香苗は少し躊躇する。
「香苗」
促される声に不安が混じって、香苗は心動かされる。話してしまった方が、いいのかもしれない。
「お見合い……ですわ」
なるべく、さらりと言ってしまいたくて、香苗はぎこちなく微笑んだ。でも、香苗の思いとは反対に、湊の表情はさして変わらなかった。ほんの少し、瞳が揺れたような気がした。でも、それも錯覚だったかもしれない。
「ふーん。誰と?」
「さあ……私も詳しくは……」
香苗のその表情は、知っていて言葉を濁しているわけではない。本当に知らないのだろう。
成宮グループの、秘蔵の御曹司である湊のボディーガード各務のことだ。見合い相手もそれ相応の娘だろう。それはわかる。でも、何故各務は見合いなんてしているのだ。
「ありがとう、香苗。いないならいい」
湊はそう言って、部屋に戻ろうとする。
「あの、湊様。ご昼食、お部屋で宜しいですか?」
香苗のその問いに、湊は極上の笑みを浮かべて頷いた。その笑みを見て、香苗は胸を衝かれる。
どうして、いつもこうなのだろう。
あの笑みで、全てを隠してしまう。他人にも、そして多分、自分自身にさえも。その閉じ込めたものが、各務と居ることで解消されているのかどうか、香苗にはそこまで分からない。でも、そうであることを祈っている。
香苗は何より、各務といる湊が好きだった。二人で居るときの、あの綺麗な湊に、憧れていた。時々無防備に、笑っている湊に。
香苗は、その後姿を見ながら、本当の姉のように、ため息をついた。
その日、各務は結局夕食時にならないと帰って来なかった。運悪く、と香苗なら思う。運悪く、帰ってきたその各務と湊は廊下で会ってしまったのだ。
いつもと、ほとんど変わらない格好だった。きっと、他の人が見れば。でも、少し上等なスーツ。いつもは邪魔だからと上げている前髪をおろしたその顔。そして、近寄ると匂う、かすかな香り。
全てが、湊の神経を逆撫でした。
「遅くなりました」
湊をみとめて、ゆっくりと頭を下げる。その瞬間に、さらりと落ちた髪から、湊は思わず目を逸らした。
「早く着替えて来い」
やっと、それだけ言う。各務はもう一度頭を下げて、無言でそこを立ち去った。
「湊様?」
コンコンと、扉を叩くが返事がない。いつもの姿に戻った各務は、湊の部屋へと向かったが、何度呼んでも、答えがない。
「各務さん」
おずおずと、遠慮がちな声に振り返ると、香苗がいた。
「湊様なら、先ほどお出かけになりました」
「何処に?」
「さあ、それは……でも、今夜はお帰りにならないようなことをおっしゃってましたけど」
香苗はきっと、各務も一緒に行ったのだと思っていたのだろう。不安そうな瞳をしている。湊が命を狙われた事件からまだ一ヶ月ほどしか経っていない。犯人は捕まったといっても、香苗などはまだ心配で仕方が無いようだった。
「あの……」
香苗が一瞬口篭もる。その柔らかい容姿とは裏腹に、結構はっきりとものを言う香苗には珍しい。
「どうかしたか?」
各務の声のトーンが微妙に優しく変わる。最初の内はそれに気付かず、いつでも怖い人だと香苗は思っていた。でも、瞳も優しくなる。香苗は顔を上げて、話す覚悟を見せた。
「私、お話してしまったんです。今日の、各務さんのご用事のこと……」
すみません、と頭を下げる香苗に、各務はゆっくり微笑んだ。本当に微かな、笑みだ。
「いや。私が自分で話さなかったのが悪い。逆に言ってもらえて、助かったよ」
顔を上げた香苗の目に映ったのは、困ったような顔の各務というよりも、悲しそうな顔の各務だった。
そんな顔をするなら、始めからお見合いなどすべきではないのに。
香苗はふとそう思って、悲しくなる。
できるなら、そうしただろう。それができないから、悲しいのだ。
「会長にまだ一人にするなと言われているから、湊様を探しに行って来る。食事はいらないよ。できてしまっていたら申し訳ないのだが」
香苗は、こくりと頷いた。
優しいのに。二人はこんなに優しいのに。
どうして、うまくいかないのだろう。
湊が何処にいるのか。それを探し出すことは各務にはたやすい。湊の行動範囲の全てを、各務は把握しているからだ。
でも、少しばかり気が重かった。
こんな時に行くのはここだろう、と言う場所の何ヶ所かを検討する。その三軒目で、湊を見つけることに成功した。連れ戻す必要はない。ただその身を、守ればいい。
各務が入ってきてすぐに、湊はその姿を確認する。とにかく体格のいい、長身のその男は、端正な顔もあいまって目立つのだ。常連ならば声をかけても無駄だと知っている。それでも、諦めずに声をかける輩もいるくらいだった。女も、男さえも。
湊がまだその店を出る気がないと分かって、各務はカウンターの隅を陣取って、軽い食事を頼んだ。湊の周りには、いつもより人が集まって騒いでいる。何か、賭け事でもしているらしい。
「賭けられているのは、湊くん、彼ですよ」
なじみのバーテンが、水を置きながらそっと呟いた。でも、それ以上は何も言わない。各務の表情も、変わらない。
各務が軽い食事が終わって、珈琲を飲んでいるときに、勝負は決まった様だった。湊と、こんがりと日に焼けたサーファー風の男が立ち上がった。皆の羨望の的になっているその男が、勝利者なのだろう。
各務も支払いを済ませると、口笛やら、やっかみやらの嵐に見送られて店を出て行く二人の後を、そっとついて行った。
ネオン街から離れたその店の外に出ると、星が瞬いているのがぼんやりと見える。冬空は、何処か透き通っている感覚を起こさせた。月の光が、真っ直ぐに届いているような気がしてくる。うっすらとしたその月明りに、湊の自嘲的な笑顔が浮かび上がる。隣の男が、待ちきれないとでも言うように肩に手を回すのを、うっとうしそうに払いのける。
しばらく歩いて二人が入ったのは、ラブホテルではなく、ビジネスホテルというには立派なホテルだった。多分、湊の希望だろう。各務は二人が部屋に入るのを見届けて、廊下に立って煙草を一本取り出した。でもそこに灰皿がないことに気が付いて、あきらめる。
防音のきいたその部屋の音は、ほとんど聞こえてこない。各務も悪趣味ではないから、聞耳を立てるようなことはしない。ただ、待てばいい。何か合ったときに、助けられれば、それでいい。
コートのポケットに手を入れて、各務は壁に寄りかかった。
各務と湊が出会ったのは、各務十五歳、湊が三歳のときだった。両親のいない各務を育て、色々と援助してくれたのが、湊の祖父、現成宮グループ会長だった。
なぜそんないきさつになったのか、各務自身、あまり詳しいことは知らない。ただ、各務の両親と、成宮家がかなり親しい親交があったと、聞いている。
それからずっと、各務は湊と一緒にいる。まるで、兄弟の様に。
いつからその関係が、崩れたのだろう。
初めて抱き合ったのは、各務が湊と出会った、十五に湊がなった年のことだった。
湊の父親が事故死をしてから、一年ほどが経っていた。その、一周忌の時。
その一年の間、親族間の争いが絶えることはなく、湊は何度も、命を狙われた。傷つけられた。祖父である会長が、頑として湊を社長にすることを譲らず、それに反発した父親の兄弟や姉妹、その旦那の嫌がらせだった。
半年もしないうちに、神経の細い湊の母親は、発狂してしまう。いつも優しい瞳で湊を見つめていたその目は、どこか遠い所を見ていて、二度と湊を見ることはないだろう。
結局、湊の父親をずっと補佐してきた専務が、湊が成人するまでの社長となることに落着いた。落ち着いたというより、会長の独断だった。だから、そうと決まってもずっと、嫌がらせはやむことがない。今でさえも。湊が社交界に出たがらないのは、それも大きな原因だろうと各務は思っている。
今回の命が狙われた事件も、身内ではないかと、最初に疑った。
一周忌のとき。
湊が縋りつくように求めてきたのを、各務はどうしても拒むことができなかった。
どうなって行くかは、わかっていた。
でも、壊れて行く湊を助ける方法が、他になかった。各務にできることでは、他になかったのだ。
ただ純粋に、湊は求めただけなのだ。
人の温もりを、愛されると言うことを。
そして各務はそれに、答えただけだったのだ。精一杯に。
「抱け」と、無表情で言った湊のその瞳が、必死に助けを求めていた。
一瞬の、錯覚でもいい。愛されるということがどんなことか、確かめたいと。
忘れて、しまわないうちに。
全てに押しつぶされて、しまわないうちに。
かちゃりと音がして、湊がシャツ一枚の、しどけない姿で現れた。他には何も着けていないのだろう。大きく開いたシャツの襟元に、いくつもの赤い斑点が見えている。すらりと伸びた、足にも。白い湊のその肌に、くっきりと、浮かび上がっている。
情事の後の、けだるそうな顔でドアを半開きにして、壁に寄りかかって各務をじっと見ていた。
「お車を」
各務はその湊から目をそらすこともなく、冷たい声でそう言った。湊が、腕を伸ばしてくる。抱きついて、全身を各務に預ける。各務は湊を抱き上げて、部屋へと入っていった。
「こいつしつこくて。こっちはもう腰もがくがくで、勃ちもしないっていうのにつっこんでくる。たいして上手くもないくせに。参ったよ」
耳元で、くすくすと湊が笑う。その男は、ベッドで満足そうにすやすやと寝息を立てていた。各務がその男を一瞥する。その一瞬、体温が上がったような気がして、湊はそれに縋りつくと満足そうに、笑った。
「一人で満足して。悪いのに当たったよ。こっちは感じてもいないっていうのに」
楽しそうにしゃべりつづける湊を椅子に座らせて、各務は回りを見渡して湊の服を集め始めた。
それを着せて、シャツのボタンを留めようと伸ばした各務の手を、湊が止める。そのままその首に手を絡ませて、口付けようとした湊を、各務はやんわりと避けた。手を外して、シャツのボタンを留める。
「帰れ」
機械的に伸びてくる各務の手を、湊は払う。
「言っただろ。満足してないんだ。他の奴でも呼ぶ。こいつを連れて行け」
無表情で、きつい口調で命令する。各務は諦めたように、服をテーブルにばさりと置いた。そして眠っている男を、起こそうとした。
「各務」
ふと名を呼ばれて、各務はその手を止めた。
「祖父にでも頼まれたか?」
湊はどうでも良いことだとでも言うように、体をいすに投げ出していた。
「会長は心配しております。まだ、一人では出歩かせるなと」
「それで追ってきたのか」
くつくつと、嫌な笑い声が部屋に響く。各務は湊の前に膝をついて、目線を合わせた。
「香苗も、心配しております。だいぶ酔っているようですし、今日はお帰りになりませんか」
そう言って、真っ直ぐに自分を見詰める各務に、湊は笑いを押さえられない。 酔えるなら、その方が良かった。酔えなくて、こんなことになっているのだ。
欲しい言葉は、そんな言葉ではない。
「抱け」
ふと笑いを止めて、湊が呟いたその言葉を、各務は無視する。再び着替えさせようと、手を伸ばしてくる。その手を、湊は思いきり跳ね除けた。
「抱けと言っているだろう?!」
叫んで、肩で息をする。睨むようなその目から、各務は逃げることはしなかった。
「もう二度と、あなたを抱くことはしません」
冷たく、無表情な顔。抑揚のない、そして、迷いのない口調。
欲しいのは、そんな言葉ではないのに。
そんな言葉では、ないというのに。
冬が、終わろうとしていた。朝起きて、外に出ても白い息を見ることはなくなってきていた。湊は薄っすらと冷たい、ベランダの手すりにそっと手を伸ばした。
朝が早くなって、もう日が当たっている。日の当たるその手の甲は、暖かい。
肌を重ねなくなって、もうどれほど経つのだろう。
この暖かさは、ひんやりとした感触は、各務を思い出させる。服を脱ぎ、素肌に重ねられるその手は、いつも少し、ひんやりとしている。その手で頬を撫でられるのが、湊は好きだった。
各務のお見合い相手は、成宮の抱える銀行の頭取の娘だった。各務を実子のようにかわいがってきた祖父が、そろそろと強く勧めたらしい。
今までも、何度かお見合い話はあったはずだ。でもそれを、各務はずっと断りつづけていた。湊はそのことを知っている。
もう、自由にさせなくてはいけないのかもしれない。
頭ではそう思う。でも、そんなことが出来る筈がないと、湊にはわかっている。
父を亡くし、母が発狂して、湊はもう、何も失うものはないと思っていた。もう何も、大切なものはいらないと思っていた。
でも、そう思ったその瞬間から、湊には大切なものがあったのだと思う。
それを、認めたくなかった。もう、失いたくなかったから。
ずっと、そう思ってきた。もう何も、失うものはないと。
でも湊は各務を、本能で欲している。
食事や、空気や、睡眠と、同じ。その中に、各務がいる。当然のように、いるのだ。
それを、手放せるのか。
湊には分からない。そうなったとき、自分がどうなってしまうのか、わからない。
死んでしまうのだろうか。
消えて、無くなっていくのなら、それが一番良かった。
自分がこんなにも弱い人間だと、湊は知らなかった。知りたくもなかった。
少しづつ、壊れていく感触を、湊は確かに感じている。
壊れてしまうなら、それが一番、幸せなのだろうか。
最初の記憶は、誰かの手の感触だった。
暖かいあの感触が、一番幸せな記憶だ。
それだけを忘れずにいたら、何もかも忘れてもいい。
それだけを残して、すべてを忘れてしまいたい。
出来ることなら、今、すぐにでも。