sine qua non
裏庭の桜の大木を、湊は気に入っていた。吹く風も暖かさが増してきたこの頃、その桜の樹もうっすらとピンクに染まってきている。蕾はまだ見えないと言うのに、全体にその色を感じさせていた。
自分の部屋の窓からその桜を見ていた湊は、ドアをノックする音に顔を上げた。
「何?」
そのノックの調子に、誰がいるかなどすぐにわかる。いつも、変わらない。湊を決して恐れるのではなく、でも邪魔はしない様に、響く、その音。
湊は窓辺から離れない。ドアが開く音がしても、振り向くことはしなかった。でも、意識ははっきりとその人に向いている。気配を感じ取ろうと、集中している。
「少し、出かけてまいります。御用は、ありますか」
低い、落着いた声がする。湊が見ていない今でも、その背がピンと伸ばされているのがわかる。
「ないよ。行ってくれば」
湊がどうでも良いことのように、投げやりにそう言ったのに、各務は頭を下げた。
「一時間ほどで戻ってまいります。何かありましたらご連絡下さい」
「そんな野暮なことはしないよ」
くくっと、湊が笑う声がして、各務はほんの少し、視線を泳がせた。
最近、各務が出かけるのはお見合い相手と会うためだと湊は知っていた。週に一度、あるかないかのその逢瀬。それも、一時間か二時間。それをデートと言うのだろうか。
相手を思って、湊は可哀相にと、笑った。
この男の、何処が良いというのだろう?
湊は一度、その相手に会ってみたかった。そして、聞いてみたかった。
この男の、何処がいいのだ、と。
でも、その時の顔が嫉妬にまみれることを、湊は恐れた。その、醜い顔を。
「行ってまいります」
そう言った各務の声は、業務報告をしている時のように、なんの感情も、聞こえてこなかった。
背中で、ぱたりとドアの閉まる音がする。湊は、意識をまた桜に戻した。
ぼんやりと、薄い桜色をしたその樹を、飽く無く見つめる。
早く咲けばいい。
そして、散ってしまえばいい…
散り行く桜の中に身を置くのが、湊はなにより好きだった。そこでなら、そのときなら、狂ってもいいかと思う。
そしてそのまま、その花びらに埋もれて行けたら。
そう想像して、湊は目を閉じ、そしてすぐに開いた。
狂ってしまえたら、いいのに。
ただ、散るその花びらにだけ、心奪われたら、どれだけいいか。
湊はゆっくりと窓を閉めた。
その向こうの世界が、まるで夢であるかのように。
そして何かを求めるように、大きく息を吸い込んだ。
今日もまた、湊は出かけると言って、香苗を困らせた。止めることも、非難することもないが、その目が、困ったように、悲しそうに自分に向けられていることに湊は気付かない振りをする。
最近湊は一人で出かけることが多い。いつもなら各務が一緒なのに、各務がいないと決まって、外に出ると言う。それも、ほんの少し待てば、帰って来るというときに。その湊は、いつもひどく不安定だ。
そして各務が迎えに行き、夜中になって戻ってくる。その、繰り返し。
止めたいと、何度思ったか。でも、できなかった。きっとそれで湊はバランスを取っている。そしてその均衡を保つには、自分では駄目なのだ。
古くから成宮に仕えている執事の守屋でも、女中頭で香苗の手本の綾乃でも、駄目なのだ。
「夕食はいらない。今日は早く帰って来るから」
いつも、いつも。香苗がそう信じるしかない言葉を、言っていく。はい、と頷くしかない言葉で。何もかも隠した、あの笑顔と共に。
笑った湊の後ろの空が、赤く、燃えている。
くるりと振り返って、歩き出す湊の背を、香苗はじっと見つめた。真っ赤な、赤い空に向かって行く。辿りつく先が、そこが、何処なのかわかっているように。
香苗は怖くなって、頭を軽く振った。それから、逃げるように屋敷に駈けこんだ。
「湊様は今日も?」
帰って来るなり、一息入れることもせず、香苗を捕まえて聞いてくる各務に、香苗は視線を合わせられずに頷く。
「迎えに行ってくる。夕食はいらないよ。出来てしまっていたら申し訳ないのだが」
いつものセリフを、やさしい声で言う。心配するなと、言外に滲ませて。
そしてそのまま、出かけて行く。
もうこれで、何度目だろう。もう習慣のようになっている。
始まりは、見合いをしたその日だった。命が狙われて、やっとその犯人が捕まって日が浅かったから、各務は湊を放っておけなかった。成宮グループの次期総裁。それだけでも敵が多いのだ。加えてその美貌。人を惹きつけてやまない、その佇まい。夜の街に出たら、巻き込まれるだろう危険は、そこいら中に転がっている。
それをわかって、湊は出て行くのだ。
そして、浴びるように酒を飲み、ふざけてまわる。ときどき自分を賭けて、勝負をしたりする。そして見知らぬ男と寝て、それからやっと、帰るのだ。
各務はその湊をじっと見ている。見守るだけで、何も言わない。湊に危険が及ばない限り、ただ黙って後をついてくる。
忠実な、実に職務に忠実なその姿勢を、湊は笑うしかない。
ドアの外に各務がいる。
それを思って、湊は抱かれる。分厚い壁に隔てられたその先の、腕を、目を、思いながら。目を閉じて、受け入れるのだ。
掴んでいる腕も、触れてくる唇も、手も、決して各務のものではない。全てがあまりに違うのに、それでも湊はそこに各務を探す。
もう決して触れてくることのない手を、唇を、探し続ける。
でも、決して満たされない。
だから、湊は探し続けるのだ。
今日もまた、違う。湊を抱いて満足した相手は、隣で眠り込んでいる。湊はその顔を、無表情に眺めた。
違う。
湊は目を逸らし、吐き気がしてくるのを懸命に堪えた。よろよろと立ちあがって、ドアへと向かう。鍵は、掛かっていない。必要ないからだ。
カチャリと開けて、そのドアに寄り掛かるようにして廊下に目を走らせる。
「大丈夫ですか。真っ青ですよ」
定まらない視線より早く、各務の声がして、湊はほっと息を吐いた。途端に崩れ落ちそうになる湊を、各務がすばやく抱きとめる。
こんなときしか触れられないその温もりを、湊は払いのけようとする。でも、力が入らずに、そのまま、気を失った。
暖かい。
ふわふわと、幸福感が湊を包む。その温もりがあまりに気持ちよくて、湊はそれをぎゅっと抱きしめた。まるで子供が母親にするように。
でも、何も返ってこない。
必死で掴んでいなければ、それは瞬く間に消えてしまう。それに怯えたように、湊はその力を、強くした。
ふと目を覚ますと、ぼんやりとした光りが視界の隅に見えた。その方向に顔を向けると、本を読んでいた各務が顔を上げた。それから立ちあがって、寝ている湊の傍に来る。
「ご気分はいかがですか」
眠っていないのだろうに、眠気も疲労も感じさせない声で聞く。
「夢を見てたよ」
その各務から目を逸らして、湊は天井に目を向けた。
「どんな夢です?」
「暖かい、気持ちのいい夢だよ」
湊の顔が綻んだのがわかる。その儚さに、各務は視線をずらした。
「醒めなければよかったのに」
小さく、呟く。各務は、答えない。
湊の手が、ゆっくりと伸びてくるのを、各務は避けられなかった。そこから動くことが、できなかった。
そっと、髪に手が触れる。そのまま力なく、滑るように頬を伝わるその指の冷たさに、各務はその手を握り締めたい衝動にかられる。
その手は、力無くベッドの上に落ちて行った。
湊がうつろな瞳で、各務を見ている。
「各務」
掠れるような、声で呼ぶ。
「はい」
はっきりと聞こえてくるその声に、湊は安心したように微笑んだ。
「あぁ、いるんだね」
呟くようにそう言って、湊は再び、目を閉じた。
各務は湊に布団を掛け直と、その顔を、じっと見つめた。
少し、痩せただろうか。
それを触れて確かめたい衝動に、各務はため息をついた。ぐっと手を握って、唇を噛み締めて、阻止する。
ただずっと、そばにいようと思っていた。
それだけでいいと、思っていた。
「連れておいでよ」
出掛けると各務が言ったら、湊はこう答えた。
「各務の奥さんになる人でしょう?紹介してよ」
湊が、くすくすと笑っている。各務は眉をひそめた。
「もう抱いたの?」
「湊様」
「どう?お嬢様は。何?まだなの?」
くすくすと、笑いを止めない。各務が近づいてくるのが分かる。それでも、止めない。
「各務ってそんなに奥手だったんだ。向こうはきっと待ってる…」
途中で、遮られる。唇に、各務の手が触れていた。
瞬間、湊はかっと赤くなって、横を向いた。その動きに、各務の手がついていかなくて、一瞬首筋に指先が触れた。ひんやりとした、ほんの一瞬の、感触。
湊はきつく目を閉じた。
切ない。
どうしてこんなに切ないのか、憎らしくなるくらい、切ない。
「どうして僕を抱いたの。」
震える声を、隠せない。落ちそうになる涙を、堪えるのに必死で。
「責任、とって」
馬鹿なことを言っていると、湊にだって分かっている。でも、どうしたらいいのか分からない。湊には、こんな方法しかわからない。
触れるだけでこんなに切ないのに、どうしてそれを手放せるだろう。
探し続けても、きっと見つからない。
代わるものなどない。
それを、どうして手放せるだろう。
「こんなことなら、抱かれなければ良かった」
嘘だ。
あのとき抱かれなければ、湊はきっとここにいない。何もかも捨てて、全てに負けていたに違いない。それを、湊は耐えられない。耐えられずに、母と同じ道を辿っただろう。
その全てを承知して、各務は湊を抱いた。
それがどれだけ自分の身を危険にさらすか、わかっていたはずなのに。
「どうして、抱いたんだ」
各務は、答えない。何も言わない優しさが、湊をもっと切なくさせる。
答えなんて、わかっている。
始めから、恋も、愛も、求められないと分かっていた。
各務はただのボディーガードで。
湊は雇い主の孫で。
二人の間には、そんな脆い繋がりしかない。
それ以上の、何もない。
各務がここにいるのは、ただそれだけの理由。
そんなこと、わかっていたのに。
そばにいるだけで、いいと思っていた。
いてくれるだけで、それだけで、いいと思っていた。
「お呼びでしょうか」
あの日、結局各務は相手の女性を連れては来なかった。湊も本気で言っていたわけではない。それから、一週間が過ぎようとしていた。
「各務、おまえ結婚、断ったんだって?」
もうすぐ、桜が咲く。湊は毎日のようにその木を眺めていた。
「はい」
「なんで」
開かれた窓から、風が入ってくる。窓の桟に手をついて外を見ている湊の髪を、その風がふわりと揺らした。
「僕が、あんなこと言ったから?」
各務から、湊の顔は見えない。
「僕の言うことなんか聞くなよ。甘やかさないほうが良い」
最初から、突き放してくれれば良かったのだ。どれだけ縋っても、あんな、錯覚するような愛を、注がないでいてくれれば。
湊が、空を見る。ふわりと髪が揺れて、一瞬その横顔が見えた。
泣いている。
涙は、見えないけれど、確かに。
これ以上ないと言うくらい、優しい顔で微笑んで、泣いている。
何よりも、たいせつなもの。
絶対に、必要なもの。
空気のように、水のように、この、大地のように。
各務はそっと、その湊に手を伸ばした。
無意識だった。
水を求める、魚のように、抗えない。
この欲求に、逆らえない。
水の中で、空気を求めるように。苦しくて、苦しくて、ただもがいて水面を目指すように。
手が、伸びていた。
驚いた湊が、一瞬体を固くする。でも、確かなその力に、自らの体を預けた。
欲しかった、腕。
何よりも、この腕で抱きしめられたかった。
そっと、その腕に触れる。恐る恐る触れたその手で、各務の腕をぎゅっと掴む。
確かにある。
錯覚でもいい。そんな気持ちでも。それでも、いい。
湊は今、確かにこの腕の中にいる。
それだけで。
「んっ…あ」
ここ数ヶ月、決して満足しなかった自分の体が、ひどく満たされているのが、湊にはわかる。どうしようもないくらい敏感に、反応している。
口付けられるたびに、触れられるたびに、各務を締めつけているのが、わかる。
各務がため息をついた。
「な…に?」
そのため息に、湊が掠れた声で問いかける。
「毎晩のようにこんな姿を見せてたんですか」
他の男に。ほんのり全身を紅く染めて、その声を、聞かせていたのか。
「妬いて、る、の」
見つめてくる目が、嬉しそうに、でもはにかんだ様に細められる。その淵が紅いのを見て、各務はそっとそこに口付ける。ふと各務が動いたから、湊が声をあげる。
「各務っ…動いて、もう」
前にも、触れてくれない。ゆっくりと、ときどき動かれて、湊は耐えられない。
「もう、誰にもこんな姿は見せないでください」
囁かれて、必死で頷く。
「はや、くっ」
おかしくなる。聞いた事もない、各務の欲情した声に。嫉妬を隠さない、声に。
「いつから、こんなに…」
「おまえが、抱かないからっ」
一度も、毎晩のように抱かれても、一度も満足なんてしなかった。無理やり引き出される快楽で、ごまかしていた。
「ひっ…あ、あ、ひぁ」
最奥を突かれて、湊が悲鳴をあげる。各務も、ぎゅっと締めつけてくる湊に、理性を保てなくなる。
湊が背を大きく反らせて、各務も低くうめいた。
大きく肩を上下させて息をしている湊に、各務がそっと口付ける。
瞼に、頬に、唇に。
何度も、熱いキスを繰り返す。
大切なものを、確かめるように。
空気のように、水のように、そして、大地のように―――