モドル * 02




遠景涙恋 番外――水鏡


01

「お輿入れ?」
 街には麗らかな日の光が注がれていた。もうすぐ白の季節になろうというのに、薄い長袖でも十分なほど暖かい。リーフィウも、街を歩いている途中で一枚脱いだほどだった。その上着を椅子にかけながら、リーフィウは首を傾げた。
「そう! すごい豪華だったでしょう? だから、王宮に入る準備に違いないってみんな言ってるわ。いいなあ。私も見たかったなあ」
 茶屋の娘、イーナが夢見るような目で遠くを見ている。盆を胸に抱える姿は、いつもの元気で豪傑な姿からは想像できない。
「王宮に?」
 暖かい日の光が、分厚い硝子窓を通り、柔らかな光となって店のテーブルの上に落ちていた。その光を求めるように、リーフィウは席につくと、先程買ったばかりの本を置き、指先を天面に伸ばした。
「そうよ。王様はまだお嫁さん貰ってないじゃない? とうとうご結婚だって話よ!」
 イーナは両指を胸の前で組んで、うっとりと微笑んだ。リーフィウは顔を強張らせて、寒いはずがないのに腕をさすった。
 ――お輿入れ。
 リーフィウは先刻見かけた豪華絢爛な行列を思い出した。確かに、何事かと思った。見物している街の人たちの口からは、キーファの名前が漏れ聞こえてきていて、気になった。だから、イーナにその行列のことを訊いてみたのだ。茶屋の娘だけあって、世間の噂を良く知っている。
 行列は十台はあると思われる馬車と、その前後を守る騎馬隊からなっていた。行列の主が乗っていると思われる馬車はこの辺りでは見かけない幌馬車で、車体部分には細かい装飾が彫られていた。その繊細な模様には鮮やかな色が塗られていて、異国情緒を感じさせた。リーフィウは、その装飾に見覚えがあった。ルクの港に良く泊まっていたカハラム船が、同じように色鮮やかな船体をしていた。その装飾と幌馬車は、カハラムの中でも南を拠点とする、サラフ族に特徴的なものだった。
「ねえ、ご結婚の儀はいつになるのかしらね。私、その日だけは父さんがなんと言おうと、お店は閉めて見に行くわ!」
 イーナは現在この茶屋を一人で切り盛りしているが、本当は父親の店なのだという。その父親が病で倒れてから、彼女が事実上この店の店主となっている。だが、長らく店をやってきた父親の威光はなかなか消えないようだ。と言っても、リーフィウはその「名物親父」には会ったことがない。
「ご結婚の話は、巷に流れる根も葉もない噂話です。どうか、お聞きにならぬよう」
 すっとリーフィウの坐る席の横に立ったのは、ハリーファだった。リーフィウが街に出るときには必ずついてくる、守護者であり、監視者である。だが、この茶屋の娘も、リーフィウが街に出てくる目的である隣の古本屋の主人も、リーフィウは王立歴史学院の史学科の学生で、ハリーファは御付きの者と思っている。その方が都合がいいと、二人ともあえて訂正はしていない。
 見上げた先には、厳しい顔があった。その隣のイーナは、少し青ざめた顔をしている。リーフィウは、彼女が気の毒になった。
 先週、この少女はリーフィウにこっそりと手紙を渡してきた。ハリーファ宛ての、恋文で、リーフィウに伝書鳩役を頼んできたのだった。その後、何があったのかはわからないが、どうやらイーナの想いは通じなかったらしい、ということだけはリーフィウにもわかっていた。
「イーナ殿も、事実と異なる話を吹聴なさらぬよう」
 硬い声に、イーナが息を飲む。リーフィウは思わず「ハリーファ」と咎めるような声を上げた。
 だが、一瞬後に、それをひどく後悔することになった。ハリーファの厳しい視線は変わらない。最初はリーフィウを気遣ったのかと思ったが、それは思い違いというものだった。
 ハリーファは、自分の主であるキーファ王が噂されていることに憤っているのだ。それも彼曰く「根も葉もない噂」だ。
「あの、はい。ごめんなさい」
 イーナはしゅんと頭を垂れた。ハリーファは厳しい目をしたまま、軽く頭を下げて、リーフィウの後ろの席に坐った。
「せっかくのところをお邪魔しちゃあ悪いが、お勘定をお願いできるかね」
 どことなく気まずい雰囲気を破ったのは、他の客の声だった。リーフィウも何度か見かけた常連で、こちらを見てにやにやしていた。
「やだ、ベルガおじさん。そんなんじゃないって言ったでしょ。はいはい、お勘定ね。今行きます」
 イーナは笑顔を取り戻して、その客に答えた。それから、リーフィウに、困ったように微笑みかけた。
「先週、リーフィウさんに手紙を渡していたところを、常連さんたちに見られていたらしいの。それで、私たちのこと誤解したみたいで……。前から怪しいと思ってた、なんて言って」
「誤解?」
「まったく、早とちりというか想像力豊かなおじ様たちと言うか。私がね、リーフィウさんに好意を持っていると思っていたらしいの。もちろん、好意はあるわ。でも、それはあくまでも友達としてよ。それでね、先週、リーフィウさんにとうとう私が気持ちを打ち明けたんじゃないか、って噂してたらしいの」
 ところどころ当たってはいるが、リーフィウが手紙の相手だというのは大きな誤解だ。リーフィウは目を丸くした。
「あのとき、私、最後にリーフィウさんに訊いたでしょ?」
 イーナはリーフィウの耳元に口を寄せ、囁くように声を落とした。
「好きな人いる? って。リーフィウさん、それに答えたとき、すごく幸せそうな顔をしてたの、知ってる?」
 リーフィウはそのときのことを思い出して、顔を赤くした。あのとき、初めて「自分には好きな人がいる」と他人にはっきりと告げたのだ。もちろん、キーファの名前は言っていない。どこの誰とも言わなかった。だが、リーフィウの正体を知らない彼女になら、「好きな人」の存在を認めてもいいのではないかと思ったのだ。
 王宮には、二人の関係を知るものはいる。だが、純粋に恋人同志なのだと言うには、二人の立場があまりに隔たっていた。それに、イーザもザッハ達隊長も、キーファに仕える身だ。その彼らに、その王が自分の恋人なのだと、リーフィウ自らの口で言えるはずがなかった。
「あれを見てね、リーフィウさんと私が目出度く恋人同士になった、なんて思っちゃったみたい。あ、もちろん、違うってちゃんと言っておいたわよ?」
 だが、そのイーナの言葉を、「おじ様」たちがどこまで信じたのか怪しい。
「まったく困ったものよ。そう言えば、リーフィウさんの後を尾けていたこともあったみたい。失礼よね。ごめんなさい」
 イーナは丁寧に頭を下げた。
「おいおい、あれはおまえさんは何も悪くないさ」
 そう言いながら、先刻の客がどしどしと大股で二人に近づいてきた。イーナの肩を叩いて、顔をあげるようにと促した。
「あれは、俺たちが勝手にしたことだ。確かにちぃとばかしやり過ぎだったな。まあこの子は、俺たちにとっては娘同然。親馬鹿が過ぎたと思って、許してくんな」
 今度は男が勢い良く頭を下げたので、リーフィウは慌てて「気になさらないでください」と手を振った。
「まあ、あんたが立派な人だって言うのは間違いないようだ。この子はこんな風で口煩いし、おしとやかとは言えねえが、優しい良い娘だ。どうかよろしくお願いしますよ」
 手を握らんばかりの勢いで言われて、リーフィウは思わず頷きそうになった。やはり、イーナが誤解を解こうと必死になってした弁明は、少しも聞いてもらえなかったらしい。
「もう、だから違うって言ってるのに」
 イーナは呆れたように首を横に振りながら、カウンターへ向かって行った。客の男も後を追いかけようとしたが、ふいにくるりとリーフィウの方を振り返って、内緒話をするように耳元に顔を寄せてきた。
「あんたが良い人だっていうのはわかってるよ。でも、ぼやぼやしてると、横から掻っ攫われちまうぞ。俺、見たんだ。ほらこの間、イーナがあんたに手紙を渡したとき。男があんた達をじっと睨むように見てたんだ。あれはきっと恋敵だぞ」
「男が?」
「そう。ちらっとしか見られなかったけど、かなり良い男だった。ま、坊主も頑張れよ」
 今度はイーナが客を呼んでいる。男はにっこりと笑って、リーフィウの肩をバンバンと叩いてから、歩きだした。その去り際に「イーナのこと頼んだぞ」と言われ、リーフィウは誤解を解くのは難しそうだ、と溜息を吐いた。だが今は、それより気になることがあった。心配で後ろを振り返ると、ハリーファが小さく頷いた。
「後をつけられたときは、歴史学院に寄りましたから、大丈夫でしょう。でも、男は気になりますね。調べてみます」
 ハリーファの言葉に、リーフィウは頷き、ほっと胸を撫で下ろした。確かに、王立歴史学院へ寄り道をしたことがある。ハリーファに言われてのことで、彼はちゃんと尾行されていることをわかっていたのだ。
 心配事が一つ減ると、リーフィウは先ほどの話を思い出した。
 根も葉もない噂――。
 そうなのかもしれない。いや、そうなのだろう。
 リーフィウは買ったばかりの「大陸記附記第八巻」を開いた。ずっと探していたものだ。だから、古本屋の主人から見つけたと連絡が入った、とハリーファに言われたとき、飛び上がらんばかりに喜んだ。そして、先週街に出たばかりなのに、また今日も出かけることにしたのだった。それなのに、少しも内容が頭に入ってこない。
 煌びやかな行列、美しい幌馬車、それを見つめる人々のきらきらした瞳。これからおめでたいことがあるのではないかと、期待する浮き足立った街の雰囲気。文字を目で追っていても、そんなことばかりが思い浮かんでくる。
 ――お輿入れ。
 あれは確かに、そう語るに相応しい光景だった。


 王宮の片隅に、季節はずれのクィナスの花を咲かせている木がある。
 キーファがそう教えてくれたことを思い出して、リーフィウは読みかけの本を閉じると、部屋を出た。朝から読んでいると言うのに、数ページしか進んでいなかった。原因はわかっている。昨日の光景が頭から離れないからだ。
 リーフィウは王宮内、政務を行う中央部には入れないが、南側の一部分など、自由に歩ける場所は増えた。王宮にいるときには、特にハリーファが見守ることも少なくなった。それは王宮の人間に認められたというよりは、彼らがリーフィウを見えないものとして扱うことに慣れた、ということだった。ザッハ達部隊長やキーファ付きの侍女たちはにこやかに接してくれる。だがそれはほんの一握りの人間なだけで、大部分は、リーフィウを空気のように扱うのだった。
 小さな庭に面した、ひんやりと冷たい外廊下を歩いていると、ひっそりとクィナスの花の甘い匂いが漂ってきて、リーフィウは立ち止まった。そこからでは、まだ花は見えない。目を閉じて、香りを感じることに集中する。だが、やがて空気の冷たさが勝ってしまい、リーフィウは目を開けると一歩庭へ踏み出した。
 花を咲かせているのは、一本だけだ。そもそも、そこには鳥が運んできたかのように、ぽつりと一本の木だけが生えていた。ここは王宮内でも使われていない部屋がある一角で、人々に忘れられてしまったような場所だった。
 リーフィウは木に近づくと、そっとその細い幹を触った。まだ若い木なのだ。だが花は大きく立派に咲いている。そのほとんどは、花びらが落ちて、赤い雌しべだけが残っていた。
「ルク王子、リーフィウ様でいらっしゃいますか」
 ふいに、凛とした、少し高圧的にも思える声がした。振り向くと、侍女を一人引き連れた、髪の長い女がいた。漆黒に近い黒髪に、目鼻立ちのしっかりした顔は南国を思わせる。リーフィウが「はい」と頷くと、女は微笑みながら近づいてきた。外廊下は庭より一段高い。その上女は背が高く、リーフィウは彼女を大きく見上げなければならなかった。
「あの、何か」
「サラフ族族長が娘、サミアと申します」
「サミア姫……。失礼いたしました」
 リーフィウが片膝をついて頭を下げると、サミアは満足そうに頷いた。
 サラフ族は、カハラムの南部を支配し、その航海術でも名高いカハラム第二の民族である。キーファ王が属する、首都カラムを中心に国の中央部から東部を支配するカラム族にとっては、彼らと良好な関係でありながら優位を保ち、その支配下に置いておくことが最重要だった。そのサラフ族族長の娘となれば、慎重に、そして丁寧に接しなければならない。
「お会いしたいと思っていたのですが、鉄壁のガードで守られてますのね。あなたのお部屋にお伺いいたしましたら、王の許可なしにはと、追い返されました」
 まるで私の末の妹のよう、とサミアは笑った。サラフ族長の末娘は、深窓の姫君で有名だ。父親のサライードの可愛がり方は尋常ではないらしい、と侍女たちがときどき噂している。
「サラフ族の姫君が私のような者にどんなご用がおありなのでしょう?」
「まあ、ご謙遜を、ルク王子。世が世なら、私などお目にかかれることもなかったでしょう」
 のんびりとした口調だが、声はとげとげしい。リーフィウは、ぐっと唇を噛んだ。口ではそう言いながら、未だ顔を上げるようには言わないサミア姫の強い敵意を感じる。
 リーフィウは地面を見つめながら一瞬目を閉じ、気を落ち着けた。
「サミア姫、ご用件を」
「リーフィウ様はせっかちですのね。私とのんびりお話するのはお嫌?」
 この姫君は、一体何をしたいのだろう。リーフィウは溜息を隠して、顔をあげた。どうやら、待っていても顔を上げるお許しは出ないらしい。だが、顔も見ないで出来る話ではない、とじっとサミアの目を見詰めると、僅かにその目がたじろいだ。それから何か言いたげに口を開いたが、結局閉じて、ふいっと目を逸らした。
「サラフ族の姫君とお話できること、光栄に思っております。ただ――」
「ただ?」
「お互いの立場を考えれば、私的に話をすることに慎重になるべきではありませんか。いらぬ詮索をされては、お互い煩わしいでしょう」
 リーフィウが目を逸らすことなく、殊更きっぱりと言うと、サミアは甲高い笑い声を上げた。思わぬ反応に、リーフィウは僅かに眉根を寄せた。
「リーフィウ様からそのようなことをご忠告いただけるとは、思いませんでしたわ」
 サミアの笑い声は耳障りな上に悪意がたっぷりこもっていた。彼女はただ、落ちぶれたルク王子をいたぶりたいだけなのだろう。
「リーフィウ様は、ご自分とキーファ様の噂はご存知?」
「噂……?」
「得てして、本人には届かないものですわね、噂というものは」
 ねぇ、と侍女に同意を求めたサミアは、すっかりまた、最初の高圧的な態度に戻っている。それからふいにリーフィウを見据えると、そのまま庭に下りてきた。地面につかないようにと両手でスカートを持ち上げ、顔をリーフィウにゆっくりと近づけた。
「ルク王子はカハラム王を篭絡し、ルク独立――どころか、カハラム乗っ取りを狙っている」
「何を馬鹿なこと!」
 囁かれた言葉に驚いて、リーフィウは悲鳴に近い声を上げた。
「ただの噂ですわ、リーフィウ様」
 サミアはすっと体を起こすと、にっこりと笑った。それから、ふと真剣な顔をして声を低くして呟いた。
「カハラムを乗っ取る、と言うのは大げさだしても、ルク国独立と言うのは、悲願ですわね……」
「――ルクは、独立を果たしております」
 言いながらも、リーフィウは目を伏せた。「独立」とは言うものの、カハラム軍が駐屯、治外法権を認め、関税などもカハラムに決定権があると言っていい。女王を立て、独立国としての体裁は整えているものの、事実上のカハラムの属国だった。
「まあ、ルク王子は、あれを独立だと仰る。でも、ルクの民たちはどう思っているのでしょう。先の条約で軍の駐屯は二年としていたはずが、伸ばされたことはご存知?」
 リーフィウは小さく頷いた。その話は、キーファから聞いていた。いまだヤーミンの脅威は衰えず、ルクからカハラム軍が引き上げるのは、ルクを放棄したと思われても仕方がない。それが、多くの大臣達の見解だった。言下に、キーファもその意見を支持していることは感じられた。感情を廃すれば、リーフィウも理解できた。ルクがどれほどの復興を遂げたのか確かめる術はないが、まだ二年。ヤーミンに対抗できるほどの力をつけたとは思えない。実際、シャリーアが延長を受け入れたと言うことは、同じ判断があったと言うことなのだろう。
「ルク民は、不満をつのらせているでしょうねえ」
 それには、リーフィウは答えなかった。
 自明のことだ。
 あの誇り高きルク民が、カハラムに従属している今の状況を憂いていないはずがなかった。しかし、今は先の戦で崩壊した国を建て直すことが最優先だ。今は我慢をして、国力を上げ、それから昔からルクが得意としてきた交渉術で完全な独立を目指すしかない。それには、長い年月が必要だ。リーフィウは、自分の目でルクの独立を見られることはないだろう、と思っていた。
 サミアはリーフィウの目の前に立っていた。頭上から、その艶やかでありながら背筋がぞっとする声が降ってくる。
「王を篭絡するのが妹姫ではなく、男のあなただと言うのが驚きでしたけれど、妙案ですわね。男だからこそ、王にそう言った危険が及ぶとは考えませんもの」
「サミア姫。根も葉もない噂です。私は……」
「あら、根も葉もないとおっしゃるの? 毎晩王の寝室で寝ている方が? どれだけ王が遅くなろうとも、お部屋に召されるのでしょう? 兵たちが心配するのもわかりますわ。その上、王妃を娶るつもりはないとか。思い通りといったところかしら、リーフィウ様?」
 サミアの悪意の出所が、ようやくわかった、とリーフィウは思った。昨日、「お輿入れ」と騒がれていたのは、このサミアである。
「サミア姫、私はただの人質でございます。それ以上のことはありません」
 サミアはリーフィウをしばらく睨むように見ていたが、「それなら」と外廊下に上がりながら言った。
「それならば、今晩は王の部屋へ行くのは、遠慮していただけないかしら。大切な話がありますの」
 リーフィウは、頷くしかなかった。


モドル * 02