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モドル 01 * 03
遠景涙恋
第一章 落日
02
着きましたよ、と言われて、リーフィウは目の前の男を見た。柔らかく、微笑んでいる。先刻から、この男は他の兵達と違って、リーフィウのことを好奇の目で見ることもなければ蔑むことも、値踏みするようなこともしない。一応はと取り繕ったような慇懃な態度もなく、リーフィウはかえって反応に困っていた。
男の身分はわからない。カハラムの戦闘服のことなど知らないし、身分ごとの服装があるのかもわからなかった。隣国のことだというのに、自分は何も知らないのだと思うと、悔しくてならなかった。だが、男は船から馬車に乗り移るときに腰紐を外してくれ、今も歩きづらいだろうからと足枷の錘を取るように命じていた。他の二人の兵はいい顔をしなかったが反論もしなかったので、かなりの身分なのかもしれない。
手枷と足首の枷は外せない、申し訳ない、と男は言った。リーフィウはじっとその男を見ただけで、何も言わなかった。
目の前に現れたのは、大きな宮殿だった。山のある国ならではの、木造立ての宮殿に、リーフィウはさすがに少しばかり目を見開いた。ルクはほんの小高い丘のような山があるだけの、いわば平地だ。家々は海岸沿いの崖から切り取られた石でできていて、白く眩しい街並みだった。だが、目の前の宮殿は深い茶色に輝いている。大きな階段を登ると、同じ茶色に輝く重厚な扉が音もなく開かれた。色はないが、付けられた金具は細工に凝っていて、贅沢なものだ。
扉の先は、長く広い廊下だった。それが中庭を囲うようになっていて、更に奥に王室があるようだった。その広い廊下を、庭を横目に見ながらぐるりと回る。
庭は不思議な空間だった。いくつか大きな甕にでも湛えられているかのような池があり、そこに白い花が浮いていた。辺りは一面白い石が敷き詰められ、とても静かな庭だった。この静謐な空間は、残酷で享楽主義と言われるカハラム王とは不釣合いだ。
かなり長いこと廊下を歩き、その後もどんどん奥に入ってようやく辿り着いた扉の前で、リーフィウは手枷と足枷を外された。だが、前にも後ろにも、そして両脇にも兵がいた。前にいるのは、馬車でも前に坐っていた男だ。扉には彩り鮮やかな布が掛けられており、やはり音もなく開けられたとき、ふわりと揺れた。
扉の中は、饗宴だった。先刻見た中庭の静謐さが嘘のように、色に溢れ、熱気と嬌声と甘い香りに満ちていた。だが、すっと男が中に入ると、宴は一旦の休憩となったようだった。肌も露わに踊っていた女も、瓶ごと酒を飲んでいた男も動きを止め、道を開けた。嬌声がやんで初めて、リーフィウは緩やかな音楽が奏でられていることに気付いた。
ぐいっと肩を押されて、リーフィウは男の後を歩き始めた。囁きが聞こえたが、リーフィウは耳を傾ける気にはならなかった。
「おう、やっと着いたか」
少し呂律の妖しい声が、頭上から響いた。はっと顔を上げる前に、リーフィウは無理やり跪かされた。
「遅くなりまして……やはり陛下の馬には敵わぬと思われます」
「馬鹿な世辞も挨拶もいい。何度言ってもおまえは止めぬな。それほど頭が悪いわけではないだろう?」
「けじめというものがございます」
「ふんっ。そんなもの、俺にあると思っているのか」
「少なくとも、私めには」
もういい、と男は言って、どさりと大きな椅子に坐った。カハラムではテーブルを用いない。椅子と言っても布団のようなもので、後ろに大きな綿詰の四角い布がいくつも置かれていた。その周りには何人もの女がおり、男が坐ったと同時にその身体にしなだれかかった。
「それで?それが花の島の王子か」
すっと目の前から男が退き、リーフィウは顔を上げるように言われた。
むっとする甘い香りと酒の匂い。好奇の視線。それらに晒されながら、リーフィウはすっと顔をあげた。
カハラムの主、キーファ王。
獰猛で残忍、享楽で知られた王の顔を、リーフィウは知っていたわけではなかった。だが、リーフィウはそれがキーファ王だとすぐにわかった。
酔った目は定まっておらず、身体もふらりふらりと揺れている。口元にはにやりとした笑いを浮かべていた。だが、目が合った途端、その姿態に嫌悪を覚えるよりも、ぞくりとした恐怖を、リーフィウは感じた。
暗い目だった。感情などないような、人の命など、どうとも思っていないような。
「ふん……ルクの宮廷は美形で知られたが、噂というのもたまには当てになるものだな」
キーファは手にしていた杯をぐっと煽った。赤い液体が、すっと顎を伝って胸元に落ちる。その上半身は何も身につけておらず、鍛えられた身体を誇示するかのようだった。女の一人が、すっとその零れた液体を舐める。
「そう言えば、ルクといえば舞踊も知られていたな。どうだ、踊れるか」
にやりとした笑いは消えず、頭もふらふらと揺れている。リーフィウはじっとそれを見たまま、答えなかった。だが、それも気にしていないのか、キーファ王はそうだ、と声を上げた。
「あれがいい。ルクに行った男は一度は見るべきだと言われているのだろう?俺は今回、残念ながら見てる間がなかったからな。なんと言ったか……ん?ああ、そうそう、リヤムシャレン。あれがいい」
リヤムシャレン。
リーフィウは微かに眉根を寄せた。確かに、ルクは舞踊でも有名で、観光国として国としてもその伝統芸術を保護して優遇していた。美しく、少し切ないその踊りを見に来る人間は、後を立たなかった。
だが、リヤムシャレンは違う。伝統と言えばそうなのかもしれないが、保護対象ではなかった。なぜならそれは、娼婦たちの踊りだったからだ。
にやにやと笑うキーファ王は、そのことを知っている。知っているからこそ、リーフィウに踊れと言ったのだろう。
唇が、震えた。怒りと羞恥に、かあっと血が昇ったのが分った。断れば、命はないだろう。でも、それでもいいと思った。
断る、と言おうと思って口を開きかけたリーフィウは、だが、言葉を発することはなかった。キーファ王の隣に、蒼白な顔をして立っている、少女が見えたからだ。
シャリーア……。
無事だったのか、と思った。思った途端、これは決して断れないとわかった。自分がいなくなったら、シャリーアはどうするのだ。この役がシャリーアに回ることだってあるかもしれないし、もう目の前で家族が殺されるのを見せたくはなかった。
「リヤムシャレンも色々あるんだったな。何にしようか……そうだな、あれがいい。シエンレン・シュエ・ライ」
カハラムの王は、見事なリ語の発音をした。リ語はルクの国語であり、他の国では使われていない、独特な言語だった。カハラムは、この大陸で最も使われているサムフ言語の方言的なカハラム・サムフ語が国語となっていた。
シエンレン・シュエ・ライ―――遠き影を想いて泣く。
遠い故郷に置いてきた恋人の影を想って踊る、切なくも情熱的な踊りで、元は詩はついていなかったが、港町でもあったルクの街で、故郷を想う歌として一時流行したものだった。その際、誰がつけたのか、切なく遠い影を想う詩がついた。あまりに流行したので、宮廷にも噂は流れてきて、音楽家に頼んで演奏させたこともあってリーフィウもシャリーアもその歌は知っていた。美しい旋律の歌だった。
その内容を知って、この男は言っているのだろうか。
シャリーアは真っ青な顔のまま、跪いている兄を見た。そんな兄の姿を見たことはない。兄が頭を下げるのは、唯一、父王の前だけだった。あれほどに輝いていた兄が、やつれて小さくなっていた。
「用意をさせろ」
キーファ王は上機嫌で笑っていた。リーフィウが兵たちに引き摺られるように連れて行かれる。楽団が小さくしていた音を張り上げ始め、再び饗宴が始まった。シャリーアはずっと、こうして王の隣に立っているだけだった。
キーファ王はまるで水のように酒を飲んでいる。周りにいる女たちの身体を触り、嬌声を上げさせては笑っている。女たちの胸ははだけ、太腿も露わな格好をしているものも少なくなかった。一段低くなっている広間でも、大して変わらない饗宴が繰り広げられていた。中には既に重なり合っている者もいて、シャリーアは自分が倒れずにいることが不思議だった。
自分が生まれた国の宴は、もっと優雅なものだった。楽しく豪華なものであったが、こんなに醜悪なものではなかった。それはどれだけ宴が進んでも同じ事だった。もちろん、そこで大人の駆け引きが行われていたことは、シャリーアも知っている。貴族仲間に「小さな姫君たち」と呼ばれる自分と同じ年代の娘達は耳年増で耳ざとい。どこぞの伯爵が公爵夫人を口説いていたとか、あの二人はお似合いだとか、そう言う話でいつも盛り上がっていたものだ。
きゃあっと一際高い嬌声が上がって、シャリーアはすぐ横を見た。キーファ王が女の一人の服を引きちぎるようにして、追いかけている。ふらふらとおぼつかない足での追いかけっこは続かず、どさりと女たちの間に倒れ、再び嬌声と笑い声が上がった。
なんて、ところだろう。
あれが王の姿なのか。この王が治める国に、自分たちの国は敗れたのか。
そう思うと、悔しくてならなかった。
ここはまるで地獄だ。人間が堕ちた、果ての世界だ。
そして、その世界で―――
どおんっと低く響く音がして、人々がさあっと広間の中央を開けた。王も女たちに支えられながら、元の席に戻った。どさりと坐った口から、大量のアルコールを含んだ息が吐き出され、シャリーアの元にまで漂ってきた。
「用意ができました」
乱れた群集の中で、召使の女の質素ながら整えられた姿が返って目立った。すっと一斉に膝を折って挨拶をした女たちが両脇に下がっていく。一人残されたのは、娼婦がリヤムシャレンを踊るときの衣装に着替えたリーフィウだった。ルクの貴族は髪を伸ばす。リーフィウの美しい金髪は先刻とは打って変わって綺麗に整えられており、さらりと流れていた。その髪には、ルクの国花であるレアの花が刺さっていた。白いその花に合わせたのか、それとも白い衣装にその花を合わせたのか、リーフィウは真っ白な衣装を着ていた。衣装は一枚布で作られており、腰から巻き上げて何度か上半身を巻き、首に回されて、その後は腕にくるくると捲かれている。端にはいくつもの宝石が縫い付けられており、それが錘代わりとなっていた。
リヤムシャレンは娼婦の踊りだ。観客に、それなりの楽しみと、その後の誘いをかけなければ意味がない。衣装はそのためのもので、失敗すれば衣装がはだけることもある。
しゃらん、と音がして、リーフィウが顔を上げた。
顔には化粧が施され、広間中が息を呑むほど、美しかった。白い衣装と肌に、ほんのりと塗られた瞼の赤と、艶やかな唇の赤が映えていた。
シャリーアはぐっと震える唇を噛んだ。
この、狂った世界で。
この美しい兄は、汚されるのだ。
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