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遠景涙恋
第一章 落日


03
 シエンレン・シュエ・ライは、緩やかな旋律で始まる。腕から垂れる布の先についた小さな鈴が立てる音もまた、旋律の一つだった。
 しゃらりしゃらりと、音が鳴る。鳴る度に、布はくるりと腕から外れる。それを再び手で捕らえなければならず、リヤムシャレンという踊りは、高級娼婦のみが踊れると言われる、難易度の高い踊りだった。
 リーフィウは伝統芸術の保護に力を入れていた一人であり、舞踊も一通り自分で踊ることが出来た。リヤムシャレンは踊ったことがないが、見たことはあった。そして、シエンレン・シュエ・ライの歌は知っていた。
 次第に激しくなる音にあわせるように、布が舞う。首からその布が外れると滑らかな肩が露わになり、ため息と唾を呑み込む声が広間に漣だった。くるり、と布を腕に捲きつける。手にしていなければ、布ははらはらと落ちていってしまう。
 リーフィウは何も考えずに踊っていた。音楽だけを聴き、それに合わせて身体を動かす。くるりと舞うと、合わされただけの布の隙間から、細い足が覗いた。

 遠き影が視界で滲む。
 柔らかな雨が降り、全てを流す。
 どうしたら、その影に触れられるのか。
 ああ遠き、影よ。

 舞踊のときは詩はついていないが、巷で流行ったときはそんな歌詞がついていた。シエンレン―――遠き、影よ―――、と何度も出てくるその言葉に、自分の故郷や恋人の名前を当てはめて歌うのが、街で流行った理由の一つでもあった。
 しゃらん、しゃらん、と鈴が鳴る。
 広間に響くのはその鈴の音と音楽のみで、誰もが息を呑むようにリーフィウを見ていた。
 着飾ったリーフィウも美しければ、踊る姿もまた、美しかった。だが、その美しさゆえに、シャリーアは哀しくてならなかった。
 くるりくるりと布が舞う。白く露わな肩に、男たちの、そして女たちの、いやらしい目が注がれる。
 兄が、リヤムシャレンを踊っている。
 まるで、蝶をおびき寄せる花のように。
 堪えていたはずの涙が、知らずぽろりと頬に落ちた。だが、シャリーアはそれに気付かなかった。
 目を、逸らしてはならないのだと思った。兄が、踊っているのだから。
 しゅっと、首越しに布が投げ出される。一瞬手から離れるそれをまた掴んで引き寄せるこの場面は、リヤムシャレンの見せ場だった。客達の、失敗に対する期待と、上手くやりおおせたときに対する感嘆が混じり合うときだ。
 布の放たれた音と一緒に、ひゅんっと音がして、シャリーアは思わず音のした隣を見た。キーファ王が、にやりと笑いを浮かべている。だが、目は真剣で、何かを見定めるようでもあった。
 ふわりと浮いた布を掴んで引っ張ろうとして、リーフィウははっとした。片方の布の先に、短剣が刺さっていたのだ。無理に引いたら、布が裂ける。そのときには布の先にある錘が零れるだろう。それがなければ布を操るのはとても出来ることではなかった。それに、飾りの宝石たちの間に刺さったその剣が、遠いこの位置から引っ張って、抜けるかもわからなかった。
 リーフィウはそのまま、とんっと飛び上がって、身体を一回転させた。首からさらに布がはらりと落ちて、見ている者たちがはっと息を呑んだ。リーフィウはくるりと余裕ができた分の布を腕に巻き、剣を見た。そこには、カハラム王家の紋章が、確かに刻まれていた。
 そのまま、両手を広げて礼をする。同時に音楽が鳴り止み、ほうっとため息が広間を満たした。
「見事だ。こんな見事なものなら、戦などせずに、踊りを見ていればよかった」
 キーファ王の声が響いた。
 リーフィウは、ただぐっと、唇を噛み締めた。顔を上げることが出来なかった。この屈辱に、目の前が真っ赤になっていた。
 頭が、がんがんと鳴っていた。極度の緊張と見た目よりずっと重労働な踊りを踊った後で、呼吸が上手くできなかった。まして、三週間近い地下の船室での生活の後だ。体力など、ないに等しかった。
「褒美をやろう、リーフィウ王子」
 キーファの声が遠い。
「今宵は、そなたを買うことにしよう」
 何しろ、リヤムシャレンの褒美なのだから。そう言った、キーファの声が最後だった。リーフィウは、頭の中が真っ白になって、その場に倒れこんだ。


 起きたときには、一瞬、何もかもが夢だったのかと思った。
 リーフィウはぼんやりと定まらないままの視線で、ぐるりと辺りを見回した。
 違う。ここは、自分の部屋ではない。
 見回したといっても、薄い生成りの布越しだった。自分はどうやら天蓋つきのベッドに寝ているらしいと思って、リーフィウはため息をついた。
 想像していた捕虜の部屋とは、かけ離れている。部屋はとても広いと言うほどでもないが狭くもない。どこか香のようなものまで香っていて、リーフィウの頭を混乱させた。
「あ、起きられました?」
 布を少しばかり開けて見たら、近くで声がした。それから、その布がふわりと開けられる。眩しさに思わず目を細めると、小さな笑い声が聞こえた。
「ああ、申し訳ありません。灯りを弱めましょう」
 簡素だが清潔な白い服を着た女が、ぱたぱたと動いていた。年は自分より上だろうが、母というより姉という位の年齢だった。二十歳を越えたかどうかというところか。後で何かの折に年齢を知ることになるのだが、実際は、もう三十近いのだと聞いて、リーフィウは驚くことになる。
 しばらく女をぼんやりと見て、それから今は一体何時なのだろうと辺りを見回してみたが、時計は見つからず、だが、窓からは漆黒の闇が見えていた。
「今は丁度九時ごろでしょうか。すぐにお食事の用意をしますね」
 きょろきょろとしたリーフィウに気付いたのか、女はにこやかに笑って言った。リーフィウは状況が掴めなかった。
 自分は捕虜として捕らえられ、船で運ばれ、カハラムに来た。そして、着いた途端に踊りを踊らされ―――ふるふると、リーフィウは頭を振った。あの屈辱は、忘れられそうにない。
 女はてきぱきと食事の用意をし、リーフィウの着替えも手伝った。着替えにと出された服はカハラムの民族衣装で、多少は抵抗があったが、ここで裸でいるわけにもいかず、しぶしぶと着替えた。しっとりとした手触りの落ち着いた黒い色の衣装だったが、左肩の鎖骨辺りで止める組紐は紅く、複雑な形になっていた。その布の手触りからも作りからも、高級なものだとわかる。膝丈の一枚布を捲きつける形のその上着に、同じ色のゆったりとしたズボンを穿く。足首できゅっと萎んでいるのは、ルクの民族衣装と同じだった。
 それから食卓についたが、食欲はなかった。それでも食べなければ駄目です、という女に、無理やり食べさせられたようなものだった。
 女は、イーザと名乗り、リーフィウ付きの侍女だと言った。
 侍女までつけて、一体カハラム王は自分をどうしたいのか。
 あの宴での様子からも、自分は決して敬れていないとわかっていた。捕虜なのだからそれは当たり前のことだと、自分に言い聞かせた。だが、これが捕虜に対するものなのだろうか。
 そもそも、自分を捕虜にしてどんな得があるのか、リーフィウにはわからなかった。それは、多分にリーフィウが外交などに疎い所為であって、カハラム側からしてみれば、計画どおりのことであった。
 ルク国は、国民の団結力の強さと民族の誇りの高さでは、他国の群を抜いた存在だ。カハラムなど多民族も集まって出来ている国とは違って、国王に対する忠誠心も篤い。外交にばかり目を向けていられたのは、内政はそれほど苦労しなかったからだ。
 その国を手に入れた場合、他国の指導者が民衆を率いると言うのは困難だった。だからこそ、王子と言う存在は有用なカードになりうると、どの国も考えていた。その上、その王子はどうやら政治に弱いと聞いていれば、尚更都合が良かった。
 王子を傀儡にして、国を治める。それが最も、理想の形のルク国統治だった。
 そのために、リーフィウ王子が生きて捕らえられたことを民衆に見せ、それを楯に統治を始めようとしていた。
 イーザは明るく、裏表のない性格のようで、リーフィウのことをまるで弟かさもすれば息子かのように扱った。それもまたリーフィウを戸惑わせるものであり、食事の間中、どことなく落ち着かない思いだった。母と乳母は食事時のマナーにうるさく、いつも二人の前では緊張していたからだ。
 乳母のシャナは、どうしただろう。
 最後の混乱のさなか、シャナは逃げろと何度も言われてなお、そこに居続けた。民衆に混じって逃げれば、殺されないかもしれない。カハラム群は抵抗さえしなければ危害を加えないことは、何度かの争いでわかっていた。だから、はやくこの宮殿から出るべきだと。
 あの血の海の中、シャナは居ただろうか。それとも、逃げてくれたのだろうか。
 リーフィウの手は完全に止まってしまった。もういらないと示すために、手にしていたナイフもフォークも置く。もともと食欲などないリーフィウだ。イーザは今日はここで許しましょう、とでも言いたげな顔をして片づけを始めた。
 その後は、入浴をさせられた。部屋付きのバスルームは案外に広く、甘く香るクィナスの花が湯に浮かんでいた。
 イーザは甲斐甲斐しく世話をしてくれる。着替えにと渡されたのはまたもカハラムの民族衣装だったが、今度は目も覚めるような青い衣装だった。別にどこに行くわけでもないのに、と一瞬笑いそうになったリーフィウの顔は、次の瞬間強張った。
 踊りを踊った後、確かキーファは言っていた。
 その踊りに相応しい、報酬をやると。
 リヤムシャレンの踊りの報酬とは、もちろん一晩中その娼婦を買うことだった。泊まり料金は高いし、娼婦は一人を相手にすればいいのだからいい話だ。
 だがもちろん、それは娼婦の話だった。リーフィウは娼婦でもなければ、まして女でもない。男娼がいることはリーフィウも知っていたが、キーファにその趣味があるとは思えなかった。宴の間中侍らせていたのは女ばかりだった。
 その中にシャリーアの姿もあったことを思い出して、リーフィウは表情を暗くした。まだ幼いが、シャリーアは美しい。キーファに手を出されてもおかしくはない。いや、もしかしたらもう―――。
 考えると恐ろしく悔しく、リーフィウは頭を軽く振った。今宵はとにかく、自分が行く。自分が居る間はきっと、シャリーアに手を出すことはないだろう。
 たった一晩のそれが、どんな慰めになるのかとリーフィウは苦笑した。そんな風にしかシャリーアを守れない―――いや、守れもしない―――兄を持ったシャリーアが、不憫でならなかった。
 やがて、迎えが来た。イーザはこのときばかりは笑わず、ただ、いってらしゃいませと頭を下げた。
 そんな風に、主に仕えるような態度はして欲しくなかった。
 もう、自分は王子などではなければ、貴族でもない。
 リヤムシャレンを踊って褒美を得た、娼婦だ。
 暗く光る廊下を歩きながら、リーフィウはただ、神に誓った。
 シャリーアを守るために、自分は何でもしよう。
 踊り子でも、娼婦でも、なんでもいい。
 それがシャリーアを守るなら、それでいいと。


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