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モドル 1-04 * 02
遠景涙恋
第二章 雪紅花
01
ところで、あなたの方は何も辛いことはありませんか?
妹の無事を確認してほっとしていた耳にふいに聞こえた声に、リーフィウは思わずはっとした。
この人も、知っているのか―――。
知らないはずがない。国王が毎夜来ているのだ。最近は抱かれていないにしろ、抱かれたことは事実であり、夜毎の訪問が意味するところは、それ以外に想像するのが難しい。現に、リーフィウ自身が、何もしない国王の意図が全くわからないのだ。
だが、言ってどうなるのだろう。
国王のやることに、さすがのラシッドだって口は出せまい。それに、もうされてしまったことの事実は消えないのだ。
「いえ……何も」
リーフィウがそう言うと、ラシッドはそれ以上は何も聞いてこようとはしなかった。イーザの淹れてくれたお茶を、優雅に飲む。
この人は、もしかしたら王族の一人なのだろうか。
その洗練された仕草に嫌というほど見覚えのあるリーフィウは、ふとそう思った。カハラム現王に兄弟がいると言う話は聞いていないが、従兄弟だとしてもおかしくはないだろう。いや、顔立ちが違いすぎる―――。
だが、それならば少しは納得が出来るとリーフィウは思った。こうして、ここに来ることが出来ることも。
「ラシッド様は、どうしてわたくしなどに優しくしてくださるのです?」
ふいにリーフィウの口から出た質問に、ラシッドは少し驚いたような顔をした。それから、ふっと破顔する。精悍な顔立ちだが、キーファよりずっと優しい雰囲気があるのがラシッドだ。その顔が笑うと、途端に温かみが感じられ、リーフィウはどこかほっとする。
「優しいですか?私が?」
「ええ」
リーフィウの頷きに、ラシッドは笑みを深くした。
「優しいわけではありません。ただ、私にも妹が一人いました。ですから、あなたたちご兄妹が、気になっているのは確かです」
いました、とラシッドが過去形で話したことにリーフィウは気付いたが、何も言わなかった。開け放った窓から、南風が入ってきて、テーブルの上に飾られた花を揺らした。
ラシッドはふとその窓から外を眺め、どこか遠くを見つめた。
「私は、ここの国の人間ではありません。事情があって、少しばかり旅をしている身です。優雅な旅行というわけではないので、日々の糧は労働をもってして得なければならないわけですが……そのために、傭兵まがいのことをしています」
先刻まで考えていた、ラシッドの正体は全く見当違いだったのだとリーフィウは驚いて目の前の青年を見た。傭兵には、とても見えない。
「ここの国でも同じように最初は傭兵としてもぐりこんだのですが、なぜか国王と懇意になりましてね。今では、国王軍の副官を任されています」
ふいっと視線が戻ってきて、リーフィウを見た。まっすぐ、揺るがない瞳だった。その目に見つめられて、ああ、とリーフィウは思った。
この人は、自分の国を陥落させた一人なのだ。
そのことに罪悪感があって、リーフィウたち兄妹を気に掛けているのかはわからない。だが、その真っ直ぐな瞳からはそれについては言い訳も何もしないと、言っているように思えた。
仕方がなかったのだ、というにはリーフィウは辛い思い出が多かった。それは未だリーフィウを苦しめ苛むものであり、父や母、ルクの明るく朗らかな人々の命を奪ったことを、仕方がないという言葉で片付けることなどできない。
だが、再三の投降の薦めを断ったのは、自分たちなのだ。そして、火種はカハラムから飛んできたわけではない。
考えるたびに、一体誰を責めて良いのかわからず、その怒りの矛先を誰にも向けられないことが、リーフィウをさらに苦しめていた。
誰かというのなら、自分だと思う。捕らえられ、何も出来ないまま敵地で生きている、自分自身だと。少なくとも、目の前の優しげな青年ではない。
リーフィウは思い詰めたような目をして、じっと温かささえ感じる白い茶器を見た。触るとしっとりと手に吸い付くような感触のある、乳白色の陶器はカハラムの知られざる名産品であった。
「では、今後はカハラムに留まるおつもりですか?」
リーフィウは、荒れる心を宥めながら、必死に冷静さを保った。
本当なら、なんてことをしてくれたのだと責めて詰りたい。泣き喚いて、しまいたい。
「いえ……しばらくはここにいると思いますが、いつかは帰ろうと決めています。キーファ王さえ、目醒めれば」
「目醒める?」
ええ、とラシッドは頷いた。
「あの人は不器用だ。だが、国王の器ではある。それが埋もれているのが、もったいない。この国のためにも、あの人は目醒めなければならない」
「しかし、カハラム現王はキーファ王、その人では……」
「ええ、そうなのですが」
ラシッドはそう苦笑したが、リーフィウには分らなかった。あの享楽的で残忍なキーファに国王の器があるというのも、そう言って苦笑する、優しい青年の言葉の意味も。
だが、ラシッドはそれについては何も言わず、のんびりしすぎました、と慌てて帰っていってしまった。
不器用なのです、と言った、その慈愛に満ちたような目だけを、リーフィウの脳裏に残して。
キーファは相変わらず、毎日のようにリーフィウと夜を過ごしていた。だが、寝つきがいいと思っていたキーファは、それほど深くは眠っていないとリーフィウが気付いたのは、一ヶ月ほどしてからのことだった。
なんとなく眠れぬままいたリーフィウは、そっとベッドを抜け出した。キーファもすっかり眠った頃で、月も天高く上っていた。
窓際に寄って、その月を眺めた。満月かと思ったが、良く見ると少しばかり欠けている。満ち始めているのか、欠け始めているのか、わからなかった。日にちを数えることさえ、リーフィウには苦痛だったのだから、月の満ち欠けを気にかける余裕などなかった。じっとその不完全な月を見ていたら、まるで泣き出しそうな気持ちになって、リーフィウはぐっと唇を噛み締めた。
幽閉生活も一ヶ月だ。まだ一ヶ月と言い聞かせるが、これから先のことが全く見えない生活は、苦しく不安だった。ただ、あの部屋で飼い殺されるのだろうか。
リーフィウはふるふると頭を振って、窓際から離れた。ふと視線を感じた気がして振り返ると、キーファがじっと、半身を起こしてリーフィウを見ていた。
「起こしてしまいましたか。申し訳ありません」
リーフィウがそう言うと、キーファは「眠れないのか」と聞いてきた。
「いえ……」
説得力も何もなく、リーフィウはそう呟いた。キーファはしばらく黙っていたがすっと立ち上がって、隣の部屋に入った。リーフィウは所在無く立っていたが、キーファはすぐに手に壜と杯を持って帰ってきた。
とくとくと、その杯に酒を注ぎ、ぐっと煽ぐ。一息にそれを飲んだキーファは、再び酒を注ぎ、今度はその杯をリーフィウに差し出した。飲めというのだろう。
リーフィウは少し躊躇してから、それを受け取った。甘い芳香が漂って、かなり強い酒だと思ったが、舐めるようにしてみると案外美味しく、そのままこくりと何度かに分けて結局全て飲み干した。酒に弱い方ではないが、強くもない。しばらくぶりのその酒は、ゆっくりと身体に染み込み、ふわりとリーフィウのどこかを軽くした。
その間、キーファは布団に潜って寝息を立てていて、リーフィウはその寝つきの良さに驚いた。すーっと静かな息を吐いている。
このまま、殺してしまえるのではないか。
リーフィウはふとそんなことを考えて、ごくりと唾を飲み込んだ。少なくとも、自分がそうする可能性を、この男は考えていないのだろうか。
しばらくじっとその顔を見ていたリーフィウは、ふるふると頭を振ると、キーファの隣にもぐりこんだ。と、ぴくりと筋肉が動いて、目が開いた。一瞬、剣呑な目が見えたが、それがリーフィウとわかったからなのか、ふっと息を吐いて再び眠りに落ちていった。
この男を殺して、どうなるというのだろう。
カハラムが混乱し、ルクは取り戻せるか。
いや、そうはならない、と今のリーフィウにはわかる。
そして、自分にはその力はないと。
キーファが部屋を訪れたときに本などを読んでいると、キーファはそのままで構わないといって、ベッドにもぐりこむ。リーフィウはその後区切りのいいところで寝に入るのだが、その夜の一件以来気をつけていると、キーファはリーフィウがベッドにもぐりこんだときには必ず、起きているのだとわかった。
もとから寝ている振りをしているのだろうか、と思ったが、そんなことに意味はなく、ちらりと本から顔を上げて見ると、どう見ても寝ているようにしか見えない。眠りがひどく浅いのだろうと、リーフィウは結論付けた。それならば、他人と寝るなど窮屈だろうに、と思うが、キーファの真意は少しもわからなかった。
二人の間に、相変わらず言葉はなかった。ただ、あの夜以来、キーファはリーフィウにも酒を勧めるようになり、リーフィウも飲みたいときは遠慮なく貰うことにしていた。そうやって飲んでいる間も、二人に会話はない。リーフィウは本を読みながら飲み、キーファはただぼんやりと飲む。中でも出窓に腰掛けて、外を見ていることが一番多かった。
ときどき、リーフィウは視線を感じた。それに顔を上げると、大概キーファがじっと自分を見ていた。その真っ直ぐな視線に困惑して目を逸らすのはなぜかリーフィウであり、一度は思い切って「何か」と聞いてみたのだが、いや、と小さく呟かれ、そのときはふいっと視線を外された。それからは、リーフィウは視線のこともあまり気にしないようにした。外を眺めるのに飽きたら、唯一動くものを見つめているだけなのだろうと、思うことにしたのだ。
それ以外はこれといって何もない、穏やかで静かな、不思議な時間だった。
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