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モドル 1-04 01 * 03
遠景涙恋
第二章 雪紅花
02
磨き上げられた美しい一枚板の長卓に、まるで彫刻のような無表情の顔が七つ、映っていた。いや、一つはときどき揺れて、かさついた唇が片側だけ上がっていた。笑っていると言えるが、決して楽しい笑いではない。歪んだ顔、と言った方がよほど適切だった。六人の、中年から壮年と言った年齢の男達の前には、美しい乳白色の器に黄金色の茶が入っていたが、一人だらしなく姿勢を崩した男は、分厚いながら透明な大ぶりのガラスの器を持っていた。中に入っているのは琥珀色をした、とろりとした濃度の高い液体だった。
「ルク島の通行料は今までどおり、ただし貨物によって料金は変えたいと考えております。停泊料は一日100リー。通行証はわが国の印で再発行をし、期限は一年が適当かと思われます」
「只今のルク島には北東と南西に主要港がありますが、南西のセリア港はカハラム船以外には閉鎖をお勧め致します。また、北東のリーア港には新しく要塞を建設、ヤーミンに備える準備が必要かと」
「その際の財務官としてタファ、ルク島総督としてイーシュが適任と思われます」
次々と発せられる言葉に、キーファは何も言わずに手にしていたガラスの器の中身を飲み干した。ふらりと横に空の杯を掲げると、すぐそばに控えていた少年が、それに琥珀色の液体を注ぐ。花茶の良い香りが漂っていたはずの室内に、甘く濃い香りが混ざった。
すぐ右隣に坐っている壮年の男が、目を眇めたのが見えたが、キーファは歪んだ唇を更に歪めただけだった。まるで、どこに不満があるのだと言うように。
タシュラルは静かに坐っていた。報告をするのは―――これはあくまでも提案のはずだったが、キーファにとっては報告以外の何ものでもなかった―――いつも他の大臣達であり、その間、タシュラルはほとんど言葉を発しない。
「要塞建設時には、王家付きのシダル殿に総監督としてご尽力いただきたいと……」
キーファは手の中の杯を揺らした。通行料の詳細、通行証の再発行の際の手数料、その他もろもろ、本来ならば提出すべき事柄について、全く触れないのは意図的なものだろう。それは、財務官としてタファが着任することからもよく分った。彼はとても優秀だ。裏金作りにおいては、天才的な能力を発揮する。総督のイーシュは女と博打に目のない人物で、タシュラルはルクを賭博場にでもするつもりかと思った。もちろん、そこにつきものの売春宿も作って―――。好きなものがはっきりしている人物というのは、扱いやすい。海洋の重要拠点となるはずが、歓楽街に成り下がった場合の危険はどれほどのものだろう。
「王、どうかご決断を」
ずっと静かに坐っていたタシュラルが、すっと数枚の紙を差し出してきた。先刻まで杯に酒を満たしていた少年が、恭しくインクと筆を卓上に置いた。
決断という言葉の意味を、キーファはしばらく誤解していたことがある。タシュラルのこの言葉は昔から変わらず、自分の判断を求めるものとは思いもしなかったのだ。
もちろん、今でもそんなことは思っていない。
整えなくともいいだろう体裁を整えているだけの話なのだ。
通行料の取り決め、財務官や総督の任命、セリア港の他国への閉鎖―――こまごまとした書類の内容は、いつでも彼らによって変更可能なものばかりだ。いったい、そこに自分の署名をすることが、どんな役に立つのか、キーファはいつもわからない。
かなりの酒に酔いながら、キーファは筆を手にした。傍らで見ていた少年の心配に反して、王は手を震わせることも揺らすこともなく、美しい筆跡で署名を次々としていった。タシュラルが、冷ややかにそれを見ている。少年は、これは一体、何の儀式なのだろうと思った。
地元の人間が「湖宮」と呼ぶキーファ王の宮殿は、いつも濡れたような耀とした黒石の屋根と、しっとりと輝く濃茶の木々の様子から、まるで湖の中にあるようだ、とその名を貰った。その静謐な存在もまた、揺れない湖面のようだった。
キーファ王の寝室は、その中でも最も奥、第三宮殿の三階にあった。そこに行くことができるものは、王の許可を得たものだけで、宮殿の中でもほんの数人だった。東西両脇には中庭を挟んで後宮があったが、そこに長く暮らした者は今までに居ない。戯れに遊び、享楽に耽るときだけに使われる、売春宿の奥座敷のようなものだった。
リーフィウとシャリーアが幽閉されているのはその後宮のさらに端、元々は後宮付き侍女たちのために用意されていた部屋だった。
シャリーアの部屋からリーフィウの部屋にと伝書鳥よろしく急いでいたラシッドは、その後宮の一部屋から聞こえてきた嬌声に足を止めた。キーファがまた、遊んでいるのだろう。
確かルク島に関する会議があったのではなかったか、と思い出したラシッドは、リーフィウの部屋に行く前にキーファに会うことにした。ラシッドは王付きの軍隊の副官だったが、会議などには一切出ることはない。ラシッド自身がカハラム国民ではないと思っていることもあるが、副官として認識されているのは、その軍隊の中だけだと言うこともあった。会議に出ている主要大臣達は、ラシッドのことは認めていない。
重厚な扉は開け放たれ、嬌声は広い廊下に響いていた。色とりどりの布が部屋に溢れ、ラシッドは一瞬、故郷を思い出した。
美しい彩りの布で知られた、草原の中の国―――。
光の季節には、そのあまりに強い日の光を避けるために、家々の前にそれこそ様々な色の布が張られたものだった。
まあ、ラシッド様、とするりと腕を取られて、ラシッドははっと我に返った。胸が今にも零れそうな女が一人、ラシッドを見上げていた。
ラシッドはそっと笑いながらその腕を外すと、王の下へ向かった。キーファ王は会議から着替えていないのか、珍しく正装をしていた。だが、上着のあわせ紐は取れ、だらしなく布が前に垂れていた。さらには目隠しをし、女を追い回していた。手には強い、パナ酒の壜を持っている。
ラシッドは小さくため息を吐いて、ふらふらと女を追いかけているキーファの傍まで行った。どんっとぶつかって、おやっとキーファが目隠しのまま顔を上げた。
「王に捕まると、何をもらえるんだ?それとも―――何かをやらなきゃならないんだろうか」
ラシッドがそう言うと、キーファはふんっと笑って持っていた壜を煽った。上体を逸らせた勢いで、そのまま倒れる。だが、床にはいくつもの綿の入った座布団が置かれており、そこにぽすりと埋まっただけだった。女たちが、慌てて起こしにかかる。
「両方だ、ラシッド」
女たちに支えられて、よろよろと起き上がった王はぐいっと目隠しを取ると、にやりと笑った。
「両方?」
「おまえも欲しいか?」
言い終わらないうちにくくくっと笑い出したキーファの手の中で、壜の中のパナ酒がちゃぽんと揺れた。女たちは、また倒れやしないかと、傍らでおろおろしている。
「いい。遠慮しておく」
「おまえはいつも慎み深いなあ。欲がない」
笑いを止めないキーファは、本当に楽しそうだった。冗談だとわかっていても、ラシッドは肩を竦めた。
キーファが機嫌が良ければ良いほど、会議は相当面白くないものだったのだろうとわかる。そもそも、会議自体がキーファには面白くない。
杯をもってこい、とキーファが叫んで、近くに居た侍女が慌てて大ぶりのガラスの杯を掲げた。そこに、自分が飲んでいたパナ酒を惜しみなく注ぐ。淵から溢れたところで、キーファはそれをラシッドに差し出した。その勢いで、再び酒はキーファの手を濡らした。
「ありがたく」
ラシッドがそう言って押し頂くと、キーファはふっと笑った。濡れた手は侍女が拭くに任せ、残ったパナ酒をぐいっと煽った。
騒がしかった室内は静かになり、微かな音楽だけが漂った。キーファはどさりと近くの布団に腰をおろすと、周りの女達を手で追い払った。乱れた着衣のまま、女達は優雅な礼をして、すうっと後ろに下がっていく。ラシッドはその場にすっと坐って、濃いパナ酒をぐいっと呑んだ。
「ルク島総督はイーシュ、財務官はタファだそうだ。どうやら、奴らはあそこを第二の……いや、新たなザバ地区にしようとでも思っているみたいだな」
カハラムの首都、カラムの享楽街の名を上げて、キーファは笑った。最近になって、目に余る内紛のあった地区で、金の卵を産みつづけたその場所も、いまやタシュラルたちの目の上のこぶ、となっていた。タシュラルたちが際限を知らずに金を求めるように、かれらもまた、際限など知るはずがなかった。庇護があると思い、実際ほぼ野放しだったザバ地区は、何をしても自分たちは平気だという思いがあった。人の命を、左右することさえも。
「あそこなら、おまえの目は届かないからな」
「ザバだって届いちゃいないさ。どこだって」
薄っすらと笑ったままのキーファを、ラシッドはじっと見つめた。その視線を感じているだろうに、キーファは知らぬ振りをして、ゆらゆらと身体を揺らしている。
「ルクの住民は、それに従うか?」
「彼等の意思など関係ない。従わせるんだ。わかってるだろう」
それを己の名のもとになされるのだと、それはわかっているのかと、ラシッドは問い詰めたい気分になった。だが、聞かなくともわかっている。キーファはだから、こんなところで呑んだくれている。
「ひどいことになるだろうな……」
「まあ、ザバよりは自由なのは確かだ。色々溜まってた鬱憤を晴らすだろうよ」
内容は、聞くだにおぞましい、とラシッドは聞かなかった。ザバの内紛の原因が、公開処刑の見世物を巡る利権の奪い合いだというのだから、その先を想像したくもなかった。それは見事に露見し、さすがに王の名で罰が下されたが、それを支持していた金の出所は、知られなかった。
「だが、ヤーミンは?まだ諦めはしないだろう?」
「少しは考えたんだろ。セリア港はカハラム以外の国には閉鎖、リーアには要塞を作るらしい。それに、ヤーミンの元首は案外、ルクに遊びに来るかもしれないぞ?」
タシュラルがどこまで押さえているのかわからないが、ヤーミンの元首には幼児性愛の趣味がある。キーファが言っているのは、そのことだろう。
「もったいないな。そう思わないか?」
「何がだ」
「ルク島の立地から、あそこはかなり重要な航海基地となる。それをあいつらは分ってないというのか?」
「わかってるさ。欲張りな爺さんどもは、いつでももっと多くの金を、多くの土地を手に入れようとする。カハラム周辺海域を拡大し、ルクを落とし、その海域を拡大し……さらに先まで進もうって魂胆だ」
「狙いはパオ港だと?」
パオ港は、ヤーミンの主要港の一つである。かなり出っ張った土地は、あまり広くない道路で大陸と地続きになっていて、手に入れられればそれこそ、ヤーミンの近くに要塞を築けるだろう、良好な立地条件を持っていた。周りの海から包囲されてしまったら困りそうなものだが、パオ港は西の船の接岸域以外は断崖となっており、守るのは容易だった。また、潮と風の関係で、南からは船を近付けるのは難しく、北からは多量の船を出せるような港がなかった。長い断崖絶壁が、続いているのである。
そのパオ港に最も近い大きな島が、ルク島だった。だからこそ、ヤーミンも喉から手が出るほど、その島を欲しがっていた。そして、他国に渡ることを懸念していた。ヤーミンのかなり強引な契約失効は、そう言った事情を知っていた、カハラムの誘導だった、とも言える。情報操作はタシュラル配下の得意項目であり、その気はなくともヤーミンにルク島への危機感を与えることは出来ただろう。だが、ヤーミンの暴挙はカハラムにルクへの軍隊派遣の正当な口実を与え、結局は、カハラムがルク島を支配下に置いた。
その辺りのことを、キーファは独自の情報収集網で知ったのであり、実際はルク国との相互条約の多少の湾曲的解釈と、国交国であることを楯に、「救済」を掲げた軍隊派遣をタシュラルたちに薦められただけだった。
「さあ、どこで止まるのか、俺にはわからん」
「キーファ。おまえは……」
仮にも一国の王なのだ、と言おうとして、ラシッドはその言葉を飲み込んだ。わかっている。そんなことは、本人が一番よく知っているだろう。
「軍事要塞を作ったら、それこそこれからすることを宣伝するようなもんだ。享楽街にするのはあながち馬鹿なことじゃない。ああいった街は、色々なことを隠しやすいし、あいつらの趣味と実益も兼ねている」
「……それで?おまえはそれでいいと?」
キーファは真っ直ぐに、ラシッドを見つめた。まるで酔っている風には見えない目だった。
「言っただろう?意思など、関係ない」
ラシッドは手にしていた杯をぐいっと煽った。強い酒が、胃まで流れ込む。
出会ってすぐ、ここは檻なのだ、と言ったキーファの言葉に、最初は眉を顰めていたラシッドも、事情を知るにつれその意味するところが十分にわかった。キーファは、ここで飼われているようなものなのだ。王という、衣を着せられて。
ラシッドが立ち上がると、キーファはゆっくりと下からその大柄な男を見た。
「……ヤーミンは、たぶんもう一度ぐらいは攻め入るだろう。色々始まる前にな。兵たちには、鍛錬を忘れるなと言っておけ」
キーファの凛とした声が響いた。見上げられていながら、背筋を伸ばしたくなるような視線と、口調だった。
ラシッドは軽く頷くと、部屋を後にした。緩やかに、静かに流れていた音楽がだんだんと大きくなり、再び嬌声が廊下にまで響いた。
わかっているのだろうか、とラシッドは思う。
キーファは、自分のその言葉が、口調が、視線が、どれほどの人間を従わせているのか、わかっているのだろうか、と。
ふと静けさに、ラシッドは立ち止まった。すぐに、微かな雨音が聞こえてきた。随分と、久しぶりの雨だと思った。
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