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遠景涙恋
第三章 水月


01
 カハラム第二の都市、キャスカは半島の中心都市でもあり、一年中穏やかな気候に恵まれているとしても、僅かながらの季節の変化は、気をつけてさえいれば感じ取ることができた。海の男達は、潮風の暖かさにその変化を感じ、クィナスの生産者達は、その香の濃度に季節を感じる。
 それは、潮風が僅かながらひんやりとしたものを含むようになり、クィナスの香が少しばかり弱まった頃のことだった。ルクの陥落から、ふた月が経っていた。
 キーファは変わらず、リーフィウの元で眠っていた。二人の間に会話はなく、ただ穏やかで静かな時間があった。どちらも、それに慣れ、今では心地よいとさえ感じているような気がしている。
 キーファが決して、リーフィウに触れないことも変わらなかった。ときどき、女のきつい香りを漂わせ、酒に酔っていることもあるが、あの夜のようなことは起こっていない。
 いつものように、リーフィウは本を読んでいた。キーファは少し外に出っ張っている窓に腰掛けて、月を肴に飲んでいた。開けた窓からの風が、ひんやりと気持ちが良かった。
「近く、ルクに行く」
 夜気に沈むような、呟きだった。キーファの声はよく響く。だが、それは空気に溶け込むことも出来る、不思議な声だった。
 リーフィウはびくりと身体を震わせた。キーファから、ルクの名を聞くのは、陥落以来これが初めてだった。ずっと気にはなっていたが、聞く勇気などなかったのだ。
 キーファは月を眺めたままだった。片足はだらりと垂れ下がり、もう片方の足は膝を立てていて、その膝の上にグラスを持った手があった。月明かりはそこまで届いていない。
「行くか?」
 リーフィウは、顔を上げた。キーファは、振り向かない。
 もう一度、行くか、と聞かれた。
 リーフィウは、掠れるような声で、はい、と頷いた。


 二ヶ月ぶりの外だった。思ったより眩しい太陽に、くらりと頭がゆれる。元からさしてなかった体力が、見事になくなっていた。
「大丈夫ですか?ご気分が優れないときは、おしゃって下さい」
 リーフィウは馬車に乗っていた。今度は、手枷も足枷もないが、やはりラシッドが一緒だった。
 これは、何のための旅なのだろう。
 キーファはその点について、一切何も言わなかった。もとより会話がないのだから、リーフィウから聞くことも出来ずにいた。ただ、自分が故郷に帰れるのだとは、思っていなかった。
 キーファの声色が、どこか心配そうな、声だったからだ。
 そう思って、馬鹿みたいだと思い直す。キーファが自分を心配するはずがない。心配だとしたら、捕虜である自分が逃げることだろう。だが、それならばリーフィウを同行させなければいいだけの話だ。
 わからない。キーファに関しては、いつもわからないことばかりだ。
「やはり、ご気分が優れないのでは?少し休みましょうか?」
 小さく吐息を吐いたリーフィウに、ラシッドが心配そうな目をする。リーフィウは慌てて首を振った。
「いえ、大丈夫です」
 この人といると、自分が囚われているのだと言うことを忘れそうになる。
「では、何か心配事でも……?ああ、妹君でしたら、ご心配なく。自分も行きたいと最後まで粘られましたが、お土産を買ってくるということで、妥協されましたので」
「お土産……?」
「ええ、あれやこれやと、色々と」
 すっと差し出された紙には、細々と色々な食べ物や化粧品の名前が書いてある。リーフィウは、くらりとそれこそ眩暈を起こしそうだった。
「あれがこんなものを……申し訳ございません」
 一体、シャリーアは自分の立場をわかっているのだろうか、と今更ながら不安になった。
「ああ、どうぞお気になさらずに。私から言い出したことですし、美味しそうな食べ物のお話は色々聞かされましたので、それが味見できるのを私も楽しみにしているのです」
 ラシッドの目は優しく、リーフィウは思わずその顔をじっと見つめてしまった。気付いたラシッドが、心なしか赤くなった気がした。
「あの、ラシッド様……」
「リーフィウ殿」
 急に大きな声で呼ばれて、リーフィウは「はい」と思わず背筋を伸ばした。
「どうか、これは王には内緒に願いたいのですが。知られたら……笑われてしまう」
 もちろん、と頷きかけて、笑うとはどう言うことだと思った。怒られると言うのならまだわかる気がするのだが。
「あの、そもそも、このルクへの旅は、何が目的なのでしょう?」
 かたり、と馬車が揺れた。いつしか外は一面に広がるクィナス畑となっており、微かにその芳香が香った。
「え……王は、何も言ってないのですか?」
 ラシッドの意外そうな声に、こくりと頷く。ラシッドはそれに、大げさなほどのため息を吐いた。あいつめ……と呆れたように呟く。
「一体、何と言われたのです」
「あの、ただ、ルクに行くから行くか、と」
 あまりに目の前のラシッドが呆れた顔をしているので、リーフィウは自分のことのように恥ずかしくなってきてしまった。
 きちんと話せと言ったのに、何をやってるんだあいつは、とラシッドがぶつぶつ言っている。それからまたため息を吐いて、仕方がないと言うように口を開いた。
「今回のルク行きは、ヤーミンの徹底排除が目的です」
「徹底排除……」
「はい。ヤーミンはこのほどのことに、納得していません。まあ、踊らされたと言うか騙されたと言うか、そんなものでしたから、仕方がありませんが」
 そう、ラシッドはリーフィウには少しばかり理解不能なことを言った。
「それで、今までも何度か小さな小競り合い程度の戦闘があったのですが、今回とうとうかなりの数で攻めてきそうだということで……」
 カハラム軍の正式派遣、となったのだ。だが、リーフィウはそこに自分が連れて行かれる理由が、いまいちわからなかった。
「相変わらず、お二人は意思の疎通というものを全くなさってないのですね。まあ、第一の目的は、ルクの民衆を味方にするためです。これは、非常に申し上げにくいことなのですが……今、ルク島は歓楽街に様相を変えようとしています」
 歓楽街、とリーフィウは口の中で呟いた。あまり馴染みがない言葉に、すぐにわからなかったのだ。
「ルク島にも、港近くには存在していたと思いますが……」
 言われて、ああ、とようやくリーフィウはそれが何を指しているのかわかった。ルク島では、花街と呼ばれていた。そう言うと、ああそうとも言いますね、とラシッドは言った。
「既存の建物を壊すことはなんとか押し留めましたが……どうか、少しばかり覚悟はしていただきたい」
 美しい、古代からの遺跡の残る古の花の島、ルク。それが、リーフィウの育ったルク国だった。あの戦いの後、既にその美しさは失われ、街は残骸となれ果てていた。そして、それがまた、変わっていく―――。
 覚悟は、していたはずだった。だが、どこかそれは遠い、光景だった。
「そのために、ルクの民ともあまり上手く言っておりません。今回のヤーミンとの戦いも、ルクの民衆が手引きしたと言われています」
「そんな!」
「考えてみてください。決して、可笑しなことではありません。ルクの民たちは、今は指導者を失っている。新しい統治者は信用に値しない。それならば、その統治者を排除してくれる人間を歓迎するのもわかります。そうして変わった新たな統治者が、優れているかどうかは、わからないとしても」
 がたりと馬車が揺れ、リーフィウは顔を両手で覆って俯いた。
 ルクの、優しく賢い民たちよ―――。
「ルクの民の忠誠心は固い。晒された王たちの首が、いつの間にか無くなっていたということからも、想像できます」
 え、とリーフィウは顔を上げた。ラシッドは優しい目で、じっとリーフィウを見ていた。
「見つかったら、重罪です。ですが、何ものかがその首を持ち去り、手厚く葬った……その墓の場所を、ルクの民たちは知っていると言われています。ただ、その場所が知られないように、何百と言う墓を島に作っているようですが……」
 ああ、とリーフィウは込み上げてくるものを堪えることに必死になった。
 なんと、言うことだろう。自分はこうして、何も出来ずにいると言うのに。
「ヤーミンがどんな約束をしたのか、わかりません。しかし、決してその通りにはならないと、私も―――王も、思っています。ヤーミンにとって、カハラムにとってもですが、ルク島は非常に理想的な海洋拠点です。ルクをもし手に入れることが出来た場合、ヤーミンは勢いに乗って、必ずカハラムに攻めて来ることでしょう。そうしたら、ルクは、再び戦場になります」
 今回も、そうなることは必至だった。だが、カハラムとヤーミンの本格的な戦いになった場合、ルクはきっと、見る影もない廃墟となれ果てる。
「今回も、衝突は避けられないと思っております。しかし、それはヤーミンとカハラムの戦いであって欲しい。―――ルクの民衆を、巻き込みたくはないのです」
 戦場がそこである以上、そんなことは言っていられないだろう。だが、ルクの民衆さえ協力してくれれば、カハラム軍は精一杯の力でもって、民衆を守る。リーフィウにはその説得をして欲しいのだ、とラシッドは言った。
「ヤーミンに、負けることはありません。それは、確実だと思っています。ですが、被害の程はわからない。軍ではなく、民衆の」
 ヤーミンに付いたからといって、ルクの民が戦えるはずがない。兵たちは先の戦いでほぼ全滅、民は厳しいカハラム支配下で、戦闘の準備などできるはずがなかった。自分たちの土地で、関係のないはずの人間が争う。これほど屈辱的なことはないが、命を落としてはどんなことも意味がなくなってしまう。復興さえも―――。
 いや、復興などできるのだろうか、とリーフィウは思った。
 そんな約束さえ、自分は民に出来ない。その自分が、どうやって民たちを説得すると言うのだ。
「あなたを連れて行くかどうか、王は最後まで悩んでいました。どんな方法を取るにしろ、あなたは傷つく。だが、ルクの民衆を犠牲にすることもまた、できない」
 リーフィウはぐっと手を握っていた。
「どんな方法を取るにしろ、とは?」
「……あなたに、民を説得してもらうにしろ、あなたを楯にするにしろ、と言うことです」
 楯に、とリーフィウは繰り返した。つまりは、人質として、民の前に出ると言うことだ。リーフィウには、自分にそんな価値はないと思ったが、ルクの民たちの篤い忠誠心を疑うことも出来なかった。リーフィウだからではなく、王子だから。
「我々としては、できればあなたに説得していただきたい。ルクの、今後のためにも」
 力で押さえつけることの意味のなさを、キーファもラシッドも知っていた。だが、だからと言って今の状態では、リーフィウに約束できるものなど何もなかった。そもそも、ルクを支配下にしているのは、キーファ王その人だ。例え、どんな権限もないにしろ。
 歯痒いのは、ラシッドだった。キーファは、何を恐れているのか。自分の力を、なぜ信じられないのか。
 わかりました、と静かな声がした。ふと見たリーフィウの瞳は、もう濡れてはいなかった。


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