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モドル 1-04 01 02 03 04 * 3-01
遠景涙恋
第二章 雪紅花
05
聞いてみたらいいと言われても、何をどう聞いたらいいのか、リーフィウにはわからなかった。
先触れの使者が、王の到着を知らせる。リーフィウは読んでいたカハラムの歴史の本を閉じて、立ち上がって出迎えの用意をした。イーザはてきぱきと卓上を片付けている。王が来て何も言わなければ、イーザはその後自室に戻っていくことになっていた。
その日はすっと開いた扉から、王だけではなく侍女と下男も入って来た。数人の下男は大きな甕を持っており、侍女は両手一杯にレアの花を持っていた。
キーファはちらりと卓上の本に視線を移しただけで、何も言わずに寝台に向かった。イーザに酒を持ってくるようにいい、ごろりと横になった。
甕は全部で五つあり、下男はそれを等間隔で壁際に置くと、出て行ってしまった。侍女は持っていた花を包んでいた布ごと床に置いくと、酒を持ってきたイーザと二人で、水を甕に入れるために水差に入れて、何度も浴室と部屋を往復した。
リーフィウはそれをじっと見ていたが、すっと花に近寄って、一枝手にとった。懐かしさに、自然と顔が綻んだ。
「そちらは卓上に飾りましょうか」
イーザがにっこりとそう言う。どうやら花だけ取って、甕に浮かべるらしい。甕と甕の間には灯りが置かれていて、艶やかな甕の表面を照らしていた。
ぷちりぷちりと慣れた手つきで、女達は花を摘んだ。それをそっと、水に浮かべる。王の部屋にもあったが、それはときどき赤い花や黄色い花、または色々な花が混じり合ったりして、リーフィウを密かに楽しませてもいた。何しろ、外の景色など見られない生活なのだ。
花を浮かべ終わると、女達は部屋を静かに退室していった。リーフィウは再び本を読み始めたが、あまり集中できずにいた。
本自体は、興味深いものだった。ルクの歴史は知っているが、他国のことに疎いのがリーフィウで、大国カハラムの歴史は波乱に富んで一種の読み物としても十分楽しいものだ。元はいくつかの民族の集まりで、やがて争いをしながらも緩やかに融合し、いまや大国となっている。ルクは小さな島国で、民族的にも血が濃い。内乱というものはなく、争いの種はいつも外から来ていた。
リーフィウが静かに本を閉じて立ち上がると、寝台の上のキーファも身じろいだ。本当に、眠りが浅い。
リーフィウは背後でキーファが起きたことを感じながら、そっと甕の一つに近寄った。黒い水の中、白い花がひっそりと浮かんでいる。
リーフィウがそっと指をその中に浸すと、小さな波紋に花が揺れた。ほんの少し、甘い匂いがした。ぽたりと水滴を花芯に垂らす。そこだけ紅い、一重の五片の花。一年中、ルクに咲き乱れていた。
ちゃぽんっと音をさせながら浸していた指を離して立ち上がると、リーフィウは視線を感じて振り返った。キーファが、上半身を起こして、じっとこちらを見ていた。
もの問いたげな視線ではない。不躾でもない。ただ、静かな視線だった。
リーフィウが振り返ったからなのか、キーファは視線をふいっと逸らして、傍らのガラスの杯に酒を注いだ。もう一つの杯にも満たして、キーファはその一つを持ち上げて、ぐいっと煽った。
残った杯は、リーフィウに注がれたものだ。飲みたければ飲み、飲みたくなければそのままにしておけばいい。今宵はリーフィウもどことなく飲む気になって、その杯を取りに近づいた。キーファはじっと、まっすぐどこかを見ている。
リーフィウは杯を取って、その場で少しだけ飲んだ。キーファの飲む酒は大概が強く、辛い。でも、リーフィウも辛い酒は嫌いではなかった。
杯を持ったまま、再び甕に近づいて坐ったリーフィウに、珍しくキーファが声を掛けた。
「気に入ったのか」
リーフィウは坐ったまま、少しだけ振り返った。それから、すっと立ち上がった。
「レアの花は濡れると一層香るとは、知りませんでした」
水に濡れると香るその香は、柔らかく甘い。普段嗅ぐときよりも、清廉な印象が合った。
「レア……その花は、リ語ではレアと言うのか」
キーファの言葉に、リーフィウは首を少し傾げた。
「私は、サムフ語でもそう言うものかと思っておりました」
キーファは少し考えていたが、こくりと酒を飲んで、コクスタッドでどう言うのかはわからないが、と言った。
「ここでは、それは雪紅花という」
雪紅花―――。
雪に紅を垂らす。昔、飾ることが大好きな姫君が、花にも紅をと悪戯したのだという伝説が、カハラムにはあった。雪花と言う花が、昔はあったのだと。だが、その姫君の悪戯で、雪花は紅をさすようになった―――。
「ずいぶんと、可愛らしい伝説ですね」
リーフィウがそう微かに笑った。
「レアというのは、何か意味があるのか」
「考えたことがありませんでした。レア……古語で、何かあるのかもしれません」
リーフィウは卓上の花瓶に一枝だけ挿された、レアの花をすっと触った。
ふと、思った。
なぜ、ここにレアの花が飾られたのか。
水瓶が用意され、そこに花が浮かべられたのか。
キーファは何も言わない。
いつでも、何も言わないのだ。
そして、リーフィウは、何も聞けないのだ。
好きな花を頼めばいい。
キーファはそう言っていた。そして、イーザはリーフィウに毎日何の花がいいのか聞いてきた。雪紅花の伝説は有名なのか、リアの花の話になったときに、同じことをイーザが言っていた。リーフィウは、そのとき一番咲き誇っている花がいい、と希望を出した。
リーフィウは、未だにキーファが自分の下に夜毎訪れる理由を、聞けずにいた。あの夜から、会話が交わされるようになったということはない。キーファもリーフィウも相変わらず、静かな時を過ごしていた。そしてやはり、キーファは決して、リーフィウに触れようとはしなかった。
キーファ王は本当は優しいのです、と赤い花を枝からもぎながらイーザが言った。すっと、それを甕の水面に這わせる。甕のおかげでイーザは毎日の水がえと花を生けるという仕事が増えたが、特にやることのなかった日々より余程良かった。
リーフィウは、いつもその様子を眺めている。決して立場を超えようとしないのが、リーフィウだった。その態度に、この子は立派な王子だったのだ、とイーザは感嘆に近い思いを抱く。
リーフィウは椅子に坐って、目の前の赤い花弁をそっと撫でた。
「イーザは、ここに勤めて長いの?」
「ええ、十の時には侍女をしていましたから……まあ、もう二十年近くになるのですね」
え、と思わずリーフィウの声が洩れた。イーザがどうしたのかと振り向く。
「あの、イーザは、もっと若いのかと……」
まあ嬉しいことをおっしゃって下さいます、とイーザは華やかに微笑んだ。その笑顔は、お世辞でも何でもなく、若く美しい。
「わたくしがここに勤め始めた頃は、キーファ王はまだ二つでしたわ」
それはそれは愛らしいお子で、とイーザは遠い目をした。
「キーファ王は、いつ王を継承したのでしたか……?」
「三の年です。わたくしが勤め始めて一年後、父王さまが急にお亡くなりになって。その方も優しいお方でしたわ。わたくしに、キーファ王子のよき遊び相手になって欲しいとおっしゃって下さって」
「では、イーザは王子付きを?」
「はい。わたくしの叔母が乳母をしておりまして、その縁で」
ぷつり、とイーザは黄色い花を枝から取った。四弁のその花は小さく、上手く取らないとすぐにばらばらと壊れてしまう。
「三の年では、でも……」
「ええ、もちろん、王としての政務をこなせるわけがございません。それは―――宰相のタシュラル様が請け負っておりました」
ぷつっと音がして、花はばらばらになった。イーザは深く息を吸って、ゆっくりと吐き出した。
「……今もそれは、変わりがございません」
それは、どう言うことだろう。
リーフィウは背を向けたまま、作業を続けるイーザを見た。今もって、宰相が政務を行っていると?キーファ王は、まだ若いとしても、既に戦地などで功績を上げている。
だが、武将と王は違うと言うことを、リーフィウはわかっていない。
イーザは立ち上がって、次の甕の前に移動した。黒々とした水面はどこまでも深く続いていそうで、イーザは早く花を浮かべようと、気が急いた。
「わたくしがここでこうして居られるのも、王のおかげなのです」
赤い花が浮かんで、ふわりと芳香が漂った。それをイーザはすっと吸い込む。
この、深く濃い闇のような水面は、キーファ王の瞳に似ているのだと、ふとわかった。
「王の……?」
「はい。王位を継承する際、王付きの侍女たちは、一度全て解雇されたのです」
「なぜ?」
イーザは顔だけ上げると、淡く微笑んだ。
「タシュラル様が、政務を行うことに決まったからです」
意味が良くわからず、リーフィウは首を傾げた。だが、イーザはそのことを、それ以上説明しようとしなかった。
「解雇と言っても、一応職はあったのです。ただ……侍女ではなく、下女の仕事でしたけれども」
掃除、洗濯、料理、宮殿内のそれらの仕事をするのが下女の仕事である。侍女たちはそれなりの教養と作法を身につけており、下女の仕事も一通りこなすことは出来た。だが、侍女たちは、侍女となるべく育てられ、それなりの身分でもあったために、その仕事を割り当てられたということは、事実上の解雇に違いなかった。
「わたくしはそう言った仕事も好きでしたし、帰っても仕事はないことはわかっておりましたから、残ることにしたのです。実家も名だけは立派でしたが、内情は決して裕福ではないと知っておりましたから」
そうして残ったものは、それほど多くはなかった。だが、それも更に、下女たちと「元侍女」という心情的な対立があって、減っていった。
「わたくしはまだ幼かったこともありましたし、侍女として仕事をしたのも一年ほどでしたから、わりとすんなり下女の皆さまにも受け入れられたのですが……侍女だった女たちには、それもおもしろくございません。あのときは、板ばさみのようになって、少々辛い思いがございました。恥ずかしながら、こっそりと涙を流したこともありましたわ」
イーザの声は落ち着いていて柔らかで、辛そうな感が滲んできてはいない。でも、返ってそれが痛々しく響いた。
「そのときに、慰めてくださったのが、キーファ王でした。夜中にこっそり泣いていたところに、ふいに現れまして、びっくりしましたわ。そうしたら、眠れないの?私もなんだ、とあどけない顔で言われまして……わたくし、余計に涙が止まらなくなってしまって。でも、キーファ王は小さな手で、ずっとわたくしの髪を撫でてくださいました。叔母がよく、眠りにつくまでそうしていたようでございます」
それから、とイーザは紅い花を一つ、手にした。
「懐からそっと、香油の壜を出して、わたしに下さったのです。シュレの花の香油でした」
「シュレの花は、その紅い花?」
はい、とイーザは頷いて、水にそっとそれを浮かべた。
「この花は、こんなに鮮やかな、きついともいえるほどの紅い色をしておりますが、匂いはとても穏やかで柔らかく、心を落ち着かせるものなのです。カハラムと言えばクィナスの香油が有名ですが、あちらは華やかな匂いですから、わたくし、実はあまり好きではないのです」
シュレの花の香油は、そのとき始めて知ったのですけれど、とイーザは笑った。
リーフィウは卓上の花瓶に挿してある、シュレの花を嗅いでみたが、あまり匂いはわからなかった。イーザがくすくすと笑う。
「シュレの香油の香りは、リーフィウ様もよくご存知ですわ」
リーフィウが首を傾げると、イーザは立ち上がって、部屋の片隅にある香炉に歩み寄った。
「え……それが……」
主張しすぎないその香りを、リーフィウも気に入っていた。確かに、心穏やかになれる気がする。
「ええ。シュレの香油です。キーファ王が、お贈りしてくださいました」
だが、その一言で、リーフィウの心は、大きく揺れた。
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