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遠景涙恋
第五章 残光


01
「知っている……?」
 リーフィウの呟きに、ハリーファは「はい」と簡潔に答えた。
「それで?」
 リーフィウが近寄ってきたために、ハリーファはその灯りに照らされた。まるで静かな湖面のように動かない顔は相変わらずで、灯り油で照らしてもそれは変わらなかった。
「場所がわかったと報告したのは私です。王は、どんなところかと聞かれましたので、雪紅花の咲く、美しい湖の近くの小高い丘の上だとお話いたしました」
 ああ、ハリーファは確実にそこがどこであるのか知っているのだ、とリーフィウは目を閉じた。
 雪紅花――レアの花をそう呼ぶのだと教えてくれたのは、キーファだ。
「どうする、つもりなのでしょう」
 掠れたような声にリーフィウの心配を知ったハリーファは、突然微かに笑って、どうするつもりもないようです、と答えた。
 キーファのことを知っている自分たちにしてみれば、当たり前のことだった。掘り起こして見せしめに晒せとか、罪人を探せ出せなどと言う人物ではない。
 キーファ王は、純粋に心配をしていたのだ。晒し首の行方を。彼は元々、今回の晒し首には反対している。
「美しい花と湖とに囲まれて、少しでも静かで安らかに眠ってくれるといいと、おしゃっていました」
 リーフィウは、その言葉に動揺していた。どうするつもりもない、とはどう言うことだろう。晒し首を救ったものは反逆の罪に問われることは、リーフィウにだってわかった。
 ――キーファ。
 彼のことは、少しもわからない。今や、新しいことを聞く度にその印象を塗り替えなければならない。いや、塗り替えるのではなく、混在しているのだ。彼の中には、まるで水と油のように、決して混じり合わないものが、それでも一緒に存在している気がしてならない。
「もし、そのことを心配してのことでしたら、どうか私が付いて行くことをお許し下さい」
 ハリーファが頭を下げた。リーフィウははっとして、頭を上げるように言った。
「なぜなのか、やはり聞いてはいけないのでしょうか」
「私からお答えできることではありません」
 きっぱりと言われて、リーフィウはしばらくじっとハリーファを見ていたが、ふいにそれを逸らすと、わかりました、と頷いた。
 結局、遠回りは意味をなさなくなり、二人は寺院の脇の道に戻った。このあたりの木々は葉が多いものばかりで、闇が濃い。
 ハリーファは、リーフィウが一緒にと誘う前に、いつの間にか姿を消した。きょろきょろと周りを見てみたが、すっかり姿を消している。リーフィウは小さくため息をついて、歩き始めた。
 レアの花は、一度咲くと落ちるまで閉じることはない。丘の上の花は終わりかけていたが、まだ枝に残っている花は柔らかく月の光を照り返していた。静かな湖面に月が映っている。
 リーフィウは十分ほど歩いてそこに辿り着くと、そっと丘の上にたつ最も太く古い、レアの木に向かった。これがレアの木なのかと思うほど、大きい。
 丘の上には、カハラム軍を警戒して墓を標すものはない。それでも、下の草には細い獣道のようなものができていて、それが終わる場所が墓なのだと知れた。
 たくさんの人が、訪れてくれているのだ。
 リーフィウもその草の途切れたところに立って、しばらく景色を眺めた。黒い湖面が、月明かりにきらきらと光る。静かな闇の中で、ひっそりとレアの花が香った。
 リーフィウはそっとそこに跪くと、目の前の地面を撫でた。
 敵が宮殿内部まで侵入してきて、もう扉の向こうにいるというときに、父はリーフィウを呼んだ。そして、生きなさい、と言った。辛いかもしれないが、生きて、ルクの民たちを救えと。きっとおまえなら、同じ間違いはしないだろうから。
 リーフィウはぐっと土を掴んだ。間違いとはなんだったのか。そして、自分はどんな道を行くべきなのか。ルクの民たちを、救うために。
 風が出てきて、ひらひらと白い花びらが散った。ひらり、ひらり、と花びらが舞う。レアの花は花ごと落ちるのが普通だが、咲ききったところで風が吹くと、一枚二枚と花びらだけが舞うときもある。大きな木のために、そうして落ちてくる花びらも多かった。
 ぐっと土を握ったままの手の甲にその白い花びらが落ちてきて、リーフィウはすっと顔をあげた。ざわっと音がして、一際大きな風が吹いて、花びらが降る。
 泣くと思った。きっと、両親の墓に来たら、自分は泣いてしまうと思った。だが、涙は出なかった。
 遠い昔、こうして降る花びらを、雪のようだと言った誰かがいたことを、リーフィウはふいに思い出した。それは今から思えば少年だったが、まだ小さかった自分には十分お兄さんだった。兄と言う存在に憧れていた頃で、遊んでもらった記憶がある。
 ――雪みたいだ。
 そう少年が言って、リーフィウは首を傾げた。ルクには雪が降らない。だから、雪、というものを知らなかったのだ。
 ――白くて、ふわふわと落ちてくるんだ。手に乗せるとちょっと冷たくて、すぐ溶けてしまう。
 ――溶けて?
 ――うん……なくなっちゃうんだ。
 そう言って空を見上げた少年の瞳があまりに透明で、リーフィウはそればかりを見ていた。黒く濡れたような瞳は綺麗で、でもどこか、哀しくて。
 あれは、いつだっただろう。
 ざわっと最後の音をさせて、風がやんだ。リーフィウははっとして、上げていた顔を元に戻すと、隣の木に手をかけてすっと立ち上がった。湖面が、風の余韻に小さな漣を立てていた。月が揺れる。
「ハリーファ殿。少し、お話が出来ませんか」
 手と服についた土を軽く払うと、リーフィウは振り向かずにハリーファに話し掛けた。さわり、と後ろの空気が揺れる感覚がして、リーフィウは顔だけそこに向けた。相変わらず、闇に溶け込むようにハリーファは立っていた。
「すみません」
「いえ。誰もいないようですから、構いません」
 やはり、彼は自分を守るために近くにいるのかもしれない、とリーフィウは思った。そして、ルクの民たちにいらぬ誤解をさせないために、隠れていた。
 リーフィウはまた湖面に視線を戻した。漣は消えて、静かな湖面があった。
「あの、お答えしたくなかったらいいのですが……」
「はい」
「ハリーファ殿は、なぜカハラム国王軍に?」
 ハリーファは影から出てこない。だが、静かな夜は小さな声もきちんと届けた。
「なぜ、ですか?」
 ハリーファは思ってもみなかった質問をされ、思わず問い返した。
「ザッハから国王軍に入るには、特別な試験を受けるのだと聞きました。たぶん、普通なら――師団に入るのが軍隊に入る道なのでしょう?」
 ハリーファは、リーフィウのすっと伸びた背をじっと見た。大きなレアの木の下で、完全には月明かりが届いていない。葉に阻まれて所々照らされたその背は儚く不確かさを思わせるのに、そのすっと立った姿は凛としていた。
「私はもともと、キーファ王に仕えるために宮殿に参りました。……七つの、時です」
「そんなに早く?」
「ええ。父が今の私と同じ仕事を、前国王の統治時代にしておりましたから」
「跡取と決まっていたのですか?」
「正確には、違います。父は私に、自分の仕事について色々話してくれました。七歳の子供にもわかるように。その上で、私に選ばせたのです」
 だが、七つの子供に自分の将来を決めさせることもまた、過酷なことじゃないだろうか、とリーフィウは思った。
「父を、尊敬していました。ですが、その仕事がどれだけ難しいか、命に関わることもあるか、まるで脅すように言われて、考え込んだのも本当です」
「まだ、幼いのに……」
「ええ。でも、感謝しているんですよ」
 ハリーファが笑った気がして、リーフィウは振り返った。だが、やはり闇の中にいるハリーファの表情はわからなかった。
「今は、幼いうちに訓練が必要だったことはわかります。それに、私が自分で決めたことですから」
 自分が、きっとこう言う気持ちになると信用して、父は自分に選択肢を与えてくれたのだと、ハリーファは思っている。
「後悔は、していないと?」
 全く、とハリーファははっきりとした声で言った。その力強い響きに、リーフィウはぐっと奥歯を噛み締めた。
 羨ましかった。そう言い切れる、ハリーファが。
「それに、実際は、父の言葉で決めたわけではないのです」
「では、何が……」
「キーファ王です」
 また、風が少し出てきて、足元の草を揺らした。ひらりと、花びらが一枚、落ちる。
「私が初めてキーファ王を拝見したのは、王が五才のときでした」
「もう、王位についていたのですね」
「はい。王位を継いだのが三才のときでしたから」
「前王は、ご病気でしたか……」
「……はい」
 今まですぐに答えてきたハリーファの歯切れが悪いような気がしたが、リーフィウがそれを考えている間に、ハリーファは口を開いた。
「父は、前王から引き続き、キーファ王にも仕えました。でも、将来のためにも後継者は必要でしたし、王とあまり変わらない年齢の者がいたほうがいいと考えたのだと思います。私は話を聞いた後に、王の元に連れていかれました。王の意見も聞きたかったのだと思います」
 だが、それがハリーファに決心させるきっかけにもなったのだった。
「その頃すでに、キーファ王はご自分の立場というものをお分りになっていました。……今と、同じように。私はそれを、父から説明されていました。でも、子供ならばちやほやされれば、それがどんな意味があろうと舞い上がるものだと思っていたのです。そう言う貴族の子供を既に何人も見てきましたから。
 ですが、キーファ王はとても厳しい顔をしていました。五歳の子供にそんな顔が出来るのかと、驚いたほどです。厳しく、そして哀しい目でした。決して逃げることなく運命を受け入れているような潔さのようなものがあって、私はとても惹かれました。この方に仕えてみたいと思い……守りたいとも、思いました」
 ハリーファの声は静かな夜に、静かに響いた。この闇の中で、人工的であるはずの声が不協和音として響いてこないことが、リーフィウには不思議だった。
「今も、変わっていないのでしょうか?」
「はい。変わっておりません」
 リーフィウは真っ直ぐ湖面を見ながら、饗宴の中で酔って笑っているキーファを思い出そうと思った。あのときの屈辱は、未だ忘れていない。だが、浮かんだそれは、すぐに違う顔に摩り替わった。
 月明かりのしたの、端正な横顔。
 軍の指揮を執るときに見せる、真剣で精悍な顔。
 真っ直ぐに、自分を見る眼。
「私は……、私には、キーファ王がわかりません」
 風に、またひらりと花が舞った。
「彼が何を考えているのか。なぜ――」
 自分の好きな酒を用意してくれているのか。花を飾る、水甕を部屋に置いたのか。
 考えても考えても、わからないことばかりだった。それはただ疑問となってリーフィウの思考を占領し、離れない。
 キーファは、一体どんな人物なのか。


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