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モドル 4-04 01 * 03
遠景涙恋
第五章 残光
02
「それは、たぶん誰にもわからないことです」
国王軍幹部でも、いまだにときどき戸惑うようですから。
ハリーファの口調には、少し笑みが含まれていた。
「ハリーファ殿は?」
「もちろん、私もしかり、です」
たぶん、王自身、ときどきわからなくなるのではないかとハリーファは思っていた。だからこそ、真面目な顔と饗宴三昧の情けない顔がときどき現れる。
「王は、幼い頃からずっと、王だと傅かれながら――何も自由がありませんでした。全ては宰相のタシュラル様が決めていましたから。敏いキーファ王は、その意味を良くわかっていたのだと思います。幼い頃から、王という、カハラム国内における自分の立場を」
「カハラム王は、絶対的なものだと思っておりましたが」
「確かに、内外において、カハラム王は絶対的な力でした。それは昔からのことで、だからこそ、幼い王は都合が良かったのです。三歳では誰もが政治を任そうとは思わない。王としてその座には坐らせておきながら、それを操ることが出来たら――」
ハリーファの声は感情が滲まない。ただ静かに流れてくるだけだ。
「だが、彼はもう幼い子供ではない」
リーフィウの厳しい言葉に、ハリーファは「そうですね」と答えた。
沈黙が漂った。そよ風が足元の草を揺らす以外、何も聞こえてこなかった。
「あなたが今ここにいるのは、キーファ王の指示なのですね」
ふいにリーフィウが呟いた。ハリーファは答えなかった。
「あなたが仕えているのは、キーファ王なのですね」
形を変えた質問に、ハリーファは今度は「はい」と答えた。
「あなたは私が逃げることを心配しているのではないと言った。では、何を心配してくださったのでしょう?ヤーミンや、師団から狙われることを?」
散々に言われたことだ。それぐらいの予想はついた。だが、それはあくまでも、自分がカハラム軍に捕らわれていたからこそだと思う。こんな風にルクの中に放しておいて、護衛をつけるほうが大変だ。
それならなぜ、そんなことをしたのか。
答えは得られないとわかっているリーフィウは、ハリーファの沈黙を気にもせずに話を続けた。
「今回は民衆の中で説得すると、キーファ王には話してありました。ですが、彼はそれを引き止めなかった。ラシッド様たちも、私が民衆に囲まれても動かなかった。
私にはわからないのです。私は捕虜として、必要なくなったのでしょうか」
リーフィウがゆっくりと振り返った。月明かりがその瞳の中で揺れた。
「私がルクの民たちと手を取り合っても、取るに足りないと、わかったのでしょうか。実際、何も出来ないでいますけれど」
自嘲の笑みが浮かんで、リーフィウの顔が歪んだ。月明かりに影が濃くその顔を刻んでいて、ひどく不安定な表情に見えた。
「私は自分の仕事について、多くのことを語ることは出来ません。ですが、一つだけ、知っていただきたいことがあります」
ハリーファの表情は相変わらず見えなかったが、真っ直ぐにその瞳が自分をみているとリーフィウにはわかった。
「これからのルクのために、あなたは必要な人物です」
だからこそ、自分は守るのだと言うこと。そしてもう一つ、たぶん、キーファ王にとっても、必要な人物なのだろう、とハリーファは思っていた。口に出すことは、なかったが。
その言葉に、リーフィウはどこか哀しそうに、眼を歪めた。それから、それを閉じて、大きく息を吸って吐いた。
「少なくとも、今の私では、必要とされても何も出来ません。ただ、元王子であると言うことでしか。それに期待する人々の気持ちに、応えることができません」
「リーフィウ様……」
「でも、もし、もう少し時間をもらえるのなら。その期待に応えられるようになりたいと思っています」
今度は、リーフィウが真っ直ぐにハリーファを見る番だった。
「お願いがあります、ハリーファ殿」
ふと上げられた顔は、凛として美しかった。ふわりと髪が風に揺れた。
「キーファ王と、話がしたい。ルクについて、話ができませんか」
――リ語やルクの文化は、なくしていいものではない。
そう語ったキーファの本当の気持ちを聞きたかった。彼がどんな風にルクを見ているのか、知りたかった。
カハラムからすぐに独立するのは無理な話だ。それに、もしそうなったとしても、今度こそヤーミンが攻めてくる。それに対抗する手段は、リーフィウにはなかった。
それならば、今のままでも出来ることはないのか。
カハラム支配下で、リ語もルクの文化も、無くすことなしに。
「お伝え、しておきます」
そう答えたハリーファに、リーフィウは感謝の意をこめて、目を伏せた。
宮殿の中は、人で溢れていた。イーシュ総督はキーファの命に嫌々ながら従ったため、宮殿の東側、自分の部屋が位置する建物は使わせなかった。おかげで、首都にいたルクの民たちのほとんどが集まった西側の建物は、一階から二階まで、ルクの民たちで溢れている。代わりに、国王軍の兵たちは、街の宿屋などに泊まっていた。もちろん、宿の亭主はいないため、自分たちで掃除や食事の準備をし、丁寧に使っている。
ルク島民たちと直接接するのは、シャリス率いる第二部隊だった。医療班と呼ばれるだけあって、島民たちの病気や怪我も治している。
もちろん、カハラムの軍とルク島民が和解したわけではない。ルク島民たちの中には、カハラムに対する明らかな敵意なようなものが流れていたし、カハラム側も刺激をしないようにと極力必要以上の接触は避けた。この状態で、自分が寝ている部屋の真下に島民たちを受け入れたのだから、王も度胸があるとシャリスなど肩を諌めたものだ。
リーフィウはハリーファに連れられて、裏から宮殿に入った。ついこの間、ラシッドたちと宮殿に辿り着いたときは城壁はなかったのに、今は裏まで石が積み上げられている。それにはルクの民たちも手伝わされているのだと、リーフィウは後で聞いた。
ハリーファが王の寝室を叩いたとき、辺りは雑然とした雰囲気で、リーフィウは不安が込み上げてきていた。何か良からぬことがありそうな、予感があった。
誰何の声がして、ハリーファが名を告げると、入るようにとの声がした。重厚な扉を開けると、中にはラシッドを始めとする、国王軍の隊長たちがいた。欠けているのは、第三部隊のファノークだけだ。その彼らが一斉に振り返って、目を見開いていた。え?と声を出したのはザッハだ。
「なんで、リーフィウ様がこちらに……」
ハリーファはすっと頭を下げると、扉の近くに立った。部屋の中で、ただ一人キーファだけが顔を上げずに下の地図を見ている。
「申し訳ないが、しばらく待ってもらえないか」
ざっとその地図を手で伸ばして、キーファが言った。リーフィウが頷いたので、ハリーファが部屋の奥の椅子まで案内した。
「ザッハ、計画を変更する」
惚けたようにリーフィウを見ていたザッハを咎めるような声がした。ザッハははっとして、慌てて卓上に視線を戻した。
「第一部隊は、イル・ハムーンに率いてもらう。第四部隊はラシッドに任せる」
「え……では、私は……」
「して欲しいことがある」
リーフィウが現れた後の急な計画の変更に、誰もがその内容を想像できた。実際、リーフィウが宮殿にいる間は、ザッハはその役をやるはずだったのだ。
「配置は?」
一番年上の隊長であるイル・ハムーンが地図を覗き込んだ。第一部隊は、隊長に代表されるように若い兵たちが多い。だからこそ、その隊長の代わりとなれるのは、王か戦闘経験が豊富なイル・ハムーンだけだった。
「どうにか、二手に分かれさせたいところだが」
「二手どころか、いくつにも分れてくるかもしれないぞ」
「前回の間違いを再び犯すほど、奴らも馬鹿じゃないからな。多方面から囲まれると考えた方がいいかもしれない」
前回、ヤーミンはメインの通りを意気揚々と行進していたところに、狭い路地や家々に潜んでいたカハラム軍に叩かれた。もちろん、カハラム軍はヤーミンが上陸した反対の港から、密かに上陸して隠れていたのだが、隊列は面白いほど乱れた。長々とした隊列の後ろから崩され、先頭にいたナーヴァはどれだけ歯痒かったことだろう。
「報告では、前回と同じ道を通っているということでしたね。リーア港からは、あの道が確かに最短距離ですが……少し強引過ぎるほどの攻撃が気になりますね」
シャリスの言葉に、それまで黙っていたキーファが顔を上げた。
「裏で何かしてるからこそ、それを悟られないように師団に休みを与えないんだろう。少なくとも一つの部隊は本流から外れている。リーア港に向かったファノークから報告が来ていたな」
ラシッドの言葉に、ザッハが頷いた。
「北東方面でしたね。そのまま南に下がってきているはずです」
「来るとしたら、南の森からか」
「それなら、先鋒部隊はそこだな」
「一応の本筋は師団に任せると?」
「イーシュ隊はかなり不安だがな」
だからと言って、一緒に戦うのはもっと不安だ、とイル・ハムーンは肩を竦めた。
「本筋にはウチの第四部隊を置いておけば良いだろ」
「そうですね。第四部隊とラシッド殿ならぴったりだ。そして、私たち第二部隊はいつものように宮殿内、と」
シャリスがそう言ったところで、皆の視線がキーファに注がれた。じっと地図を見ていたキーファは、ゆっくりと頷いた。ざっと隊長たちは敬礼をし、兵に指示をすべく部屋を出て行った。残ったのは、ザッハとリーフィウ、ハリーファである。
「ザッハ、おまえには追って指示を与える。第一部隊に話を通して来い」
ザッハはぴしりと敬礼し、ちらりと目の隅にリーフィウが立ち上がるのを捕らえながら、四人の後を追って部屋を出た。
「待たせた」
キーファがそう言ったときには、ハリーファも姿を消していた。リーフィウは「いえ」と小さく答えると、促されるまま床に坐った。
話がしたいと言ったのはリーフィウだった。だが、ここに来て何を話したら良いのかわからなくなっていた。先刻の様子では、ヤーミンはかなり近くまで迫ってきているのだろう。だからこそ、宮殿の中も落ち着かない雰囲気だったのだ。そんなときになぜ、キーファはリーフィウの願いに応じたのか。
一度逃げた、この島の元王子の、目的も内容もわからない、願い。
キーファは何も言わないまま、すっと立ち上がると、小さな杯に二杯、パナ酒を注いで戻って来た。リーフィウの前に無言でそれを置くと、自分はくいっと一気にそれを飲む。リーフィウはその美しく繊細なガラスの杯をじっと見てから、キーファを真似て一息にそれを飲み干した。パナ酒は決して弱い酒ではない。喉をすべり落ちた液体は、かあっと全身を焼いた。おかげで、酒を飲んだというのに頭がはっきりした気がした。
キーファの髪はすっかりぼさぼさになっており、無精髭も生えていた。他の隊長たちはきちんと軍服を着ていたが、キーファだけはさらりとした麻の上着を着ていた。下だけは、軍服と同じ黒い厚めのパンツを穿いている。
キーファは何も言わなかった。飲み干した杯を手の中で転がしながら、何かを考えているようではあったが、リーフィウには何を考えているのかなど、わかるはずがなかった。
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