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遠景涙恋
第十章 花眠歌


01
 その夜、リーフィウは傷の酷さに熱を出し、意識を朦朧とさせていた。イーザもシャリスも付きっきりの看病をしていて、眠らずにいた。イーザは自分も殴られて倒れていたのだから、少しは休んだ方がいいとシャリスに言われても、頑として自分も看病するのだと譲らなかった。さすがのシャリスも、イーザには勝てずにいる。
 夜半を大分過ぎてから、王の先触れの使者が遠慮深く訪れた。シャリスはその様子に王の気持ちを知るようで、思わず微笑んだ。
「どうぞ。私の処方箋は、いまだ有効ですとお伝えください」
 少ししてから、やはり王も静かに現れた。だが、部屋に入っても、ちらりとシャリスを見るだけで、寝台の傍には近寄ろうとしない。シャリスはやはり微笑むしかなく、それから頷いた。
「薬も飲ませておりますし、意識があまりはっきりしませんが、どうぞお傍に」
 その言葉にようやく動いた王に、シャリスとイーザは顔を見合わせて、笑いを噛み殺した。まったく王は、子供よりも子供のときがある。
 大事だからこそ、触るのが怖くて。
 キーファがそっと寝台の傍らに立ってその顔を覗くと、リーフィウは苦しそうに息を吐いていた。シャリスが言ったとおり、意識はないようで、でも、ときどきぎゅっと眉根を寄せる。その様がひどく苦しんでいるようで、キーファは思わずその額を撫でた。
 熱があるのだろう、その肌は熱く、キーファはじっとその顔を見た。何度か撫でてやると、少し呼吸が安らかになった気がして、キーファはしばらくそうして額を撫でていた。
 シャリスの言う処方箋とやらを、冗談のように思っていたイーザは、その様子にそれは立派な診断書なのだと思い直した。確かにリーフィウはその手のおかげで落ち着いてきている。
「シャリス様って、本当に立派なお医者さまだったんですねえ」
 しみじみ言うと、シャリスが片眉を上げた。
「今まで藪医者だとでも思っていたんですか?」
「いえ、そうではないのですけれど。お薬だけではなく、こんな治し方もあるのですね」
 ああ、とシャリスは苦笑した。それから、しばらく二人は放っておいて、少し休憩をしようとイーザを誘った。キーファはそっと寝台の端に坐って、飽きずにリーフィウの額を撫でている。
 イーザはそれに頷いて、二人は少し離れた円卓に移動した。それから、少し甘い牛乳入りのお茶を用意した。
「キーファ王は、わかりやすいですから。きっとリーフィウ殿が一人で寝ていたら、気が気ではないでしょう?人の気配には敏感で煩い方ですが、どうやら彼の隣では眠れるようですし」
 それには、イーザも頷いた。朝起きたとき、キーファはわりとすっきりと眠った顔をしている。朝の支度を手伝うのはイーザで、王は大概穏やかな朝を迎えている。キーファ王は早起きで、日がようやく出てきた頃に起き出すのだが、イーザもそれに負けずに早起きなので、あまり困ったことはない。それに、あの朝のきんとした空気の中で、キーファの支度をするのは好きだった。リーフィウを起こさないようにと、極力音を立てないようにしているところなどは、優しい空気が流れて微笑みたくなる。
 ただ一つ残念なのは、キーファは必ず朝食を取らずに戻ってしまうことだ。リーフィウが起き出す前に帰るのを使命としているかのように、ひっそりと、何も言わずに部屋に戻ってしまう。
 本当は、起きたときにリーフィウが少し寂しそうにしているのをイーザは知っていた。いつも、じっと右隣を眺めるリーフィウ。
 たぶん、そこには温もりさえ残っていないのではないだろうか。
「本当は、少しばかり迷ったのです。リーフィウ殿にとっては、どうなのだろうかと……」
 シャリスの言葉に、イーザは寝台から目の前の人物に視線を移した。だが、シャリスもまた、少し不安そうな顔をして二人を見ていた。
「言ったじゃありませんか。シャリス様は、立派なお医者様なのですね、と。私は、あの処方箋はリーフィウ様に出されたものと思っておりましたわ」
 シャリスが正面を見て、イーザはにっこりと笑いかけた。ふと、キーファを迎えるリーフィウを思い出したのだ。
 リーフィウも、最近は王を迎えることもせずに眠った振りなどしていたが、それまではずっと、キーファが来るのを待っていた。特別楽しそうな声が聞こえてくる、とうことはなかったが、時おり二人で酒を酌み交わしているようでもあった。
 たぶん本人は気付いていないだろうが、夜になると、リーフィウは人待ち顔になる。ときおり、扉に視線を向けたりして、確かに王を待っている。そして、王が来ると、ほっとしたような表情をする。
 それは僅かな変化で、だが、ここ数ヶ月一緒にいたイーザには十分な変化だった。
 ときおり、王がひどく遅くなってイーザに言われて床に付くときは、リーフィウは寝付けないのか何度も寝床で寝返りを打ったりする。時には、眠れないからと起きてしまうときもある。
 そう言う話を小さな声ですると、シャリスは少し驚いたように目を見開いて、それからふっと笑った。
「それはそれは。私の処方箋も随分役に立っている」
「ええ全く。ご本人が何も気付いていない辺りがどうも困りものなのですけれど……」
 それには同意を示して、シャリスは言った。
「イーザ。あの薬は、不器用な人間につける薬、なのですよ」
 二人で顔を見合わせて、ふふふ、と笑う。二人の不器用さは歯痒くもあるが、微笑ましくもある。
 二人がお茶を飲み終わる頃になって、キーファが立ち上がった。イーザが気付いてすぐに立ち上がったが、キーファはそれを手で制した。
「お休みになられますか?」
 イーザの言葉に、キーファはふいっと、まだ赤いが先刻よりは穏やかになったリーフィウを見てから「部屋に戻る」と告げた。
 それには、イーザもシャリスも顔を見合わせた。てっきり、このままいつものように眠っていくものだと思っていたのだ。
「私たちがいると眠れないと仰るのでしたら、隣に控えておりますが」
 イーザのその言葉にも、キーファは首を振った。
 それから、すっとそのまま、部屋を出て行ってしまった。
 そして、その夜から、キーファはリーフィウの部屋を訪れなくなった。


 痛み止めや体力回復などの薬が混じったお茶を飲みながら、リーフィウはふと重厚な扉を見た。なんだか二度と開かない気がする。
 そう思って、先刻シャリスがそこから入ってきたところじゃないか、と軽く頭を振った。頭の中がぼんやりとしている。痛み止めのこの薬は眠気を誘うのだとシャリスに説明されていたから、それは仕方がなかったし、起きていても何も出来ないからそれはそれでリーフィウは構わなかった。
 あの日のことを、リーフィウは断片的にしか覚えていない。引き裂かれるような痛みと強烈な異物感に吐き気を感じ、だがそれが溢れる前に、気を失った。気付いたら泣きそうな顔のイーザと、ほっとしたような顔のシャリスがいた。
 ラ・フターハにされたことを、忘れたわけではなかった。何よりリーフィウを苛むのは、痛みよりもあのぞっとするような感触だった。
 自分の身体を這い回る手の、唇の。
 ふうっと息を吐いて、リーフィウはその感触を頭から追い出した。ねっとりとしたようなそれは、思い描いているだけのはずなのに、肌もその内側も気持ち悪くさせる。
 こうしてみれば、キーファがいかに自分を気遣ったのかわかって、落ち着かない気持ちになる。あの義務的な抱き方が、どれだけリーフィウの気を保たせただろう。抱かれたことは変わらない。だが、あのときリーフィウは、この心は明渡さないと、自分を支えることが出来た。そんな風に強くいられたのは、あの義務的なまでの抱き方の所為だった。
 あのあと一度、まるで女を抱くようにされたときは、何もかもが踏み躙られたと思った。だからこそ、キーファはあの後、決して自分を触ろうとしなかったのだ。
 あのときも、キーファは優しかった。優しかったからこそ、リーフィウは泣き叫んだのだが。
 リーフィウは持っていた茶椀の中身を飲み干すと、布団ごと膝を立てて、そこに顔を埋めた。動かすとぴりっとした痛みが下半身を襲ったが、痛み止めとシャリスの薬が効いているのか、じっとしていればそれほど痛みは襲ってこなかった。手の中で、白い滑らかな茶碗を転がす。
 あのとき。自分はなぜ、キーファの手に感じたのだろう。それが嫌で嫌で堪らなかったが、気持ち悪いとは思わなかった。
 気持ち悪かったら、どれだけ良かったか。違うからこそ、泣きたくて堪らなかったのだ。
 それに、湖宮を出てくる前夜にされた、あの口付けも。
 ふいにそのときのことを思い出して、リーフィウはほうっとため息を吐いた。なんだか顔が熱い。腕を掴むその強さも、柔らかい唇も、動き回る舌も――まだ覚えている。
 なんとなく唇を舐めてしまったリーフィウは、駄目だ、と思ってごろりと横になった。思い出してはいけない。自分の身体が勝手に暴走していってしまいそうになる。
 寝台の右側に転がったリーフィウは、そこがいつもキーファが眠っていた方だと意識した途端、がばりと起き上がった。だが、あまりに急に動いたために、さすがに下肢がずきんっと痛んだ。
 う、と唸って反対側に倒れると、花を飾っていたイーザが「どうしましたっ」と慌てて駆け寄ってきた。リーフィウはでも、恥かしくて顔を上げられずにいた。きっと、真っ赤になっている。
「まあ、リーフィウ様、顔が赤くなってますね?また熱が出たのでしょうか。リーフィウ様?」
 顔を伏せてみても耳までは隠せず、イーザは勝手に誤解をしたようだった。リーフィウが慌てて「大丈夫」と言ってみても、イーザはシャリスを呼ぶと走って行ってしまった。
 ああ、違うのに、とリーフィウはぺたりと倒れこんだまま息を吐いた。
 なんてことだろう。
 国を奪われた。
 屈辱を受けた。
 でも、ルクを守ろうとしてくれた。
 そして、それを裏切られて。
 それなのに、思い浮かぶのは滅多に見られない僅かに笑った顔で、真っ直ぐな視線で。
 隣で眠るときの、柔らかな寝息と温かさで。
 唇を無意識に触ると、泣きたいような気持ちになった。
 キーファに会いたいと思った。あの目を覗き込んで、あの温もりを分けて欲しいと思った。それを、ほとんど知らないと言うのに。もしかしたら、ただ隣にいてくれたら、それで良いのかもしれない。
 ぱたぱたと走ってくる足音は、シャリスのものだとわかっている。そんな風に心配してくれることに申し訳ないと思いながら。それでも。
 それがキーファであってくれたらと、リーフィウは強く強く願ってしまったのだった。



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