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遠景涙恋
第九章 深淵
05
シャリスと第二部隊はその後、色々な人間を手当てする羽目になった。リーフィウのことをキーファに隠し通せるわけがなく、暴れた王を引き止めるために、多くの犠牲が出たためだ。
「あ、こんな所まで……わあ、痛くないんですか?」
能天気な兵の声に、ラシッドは「痛いに決まってるだろ」とため息を吐いた。
一番の被害者はラシッドだった。ザッハから報告を受けたのは、宮殿の敷地内に入ったばかりのときだった。それを宮殿のなかに入って、キーファが剣などを置くまで待ったのだ。そこで素早くザッハやラシッド、それからその後ザッハに聞いていたイル・ハムーンとファノークで押さえつけたのだが、キーファ王の暴れっぷりは、近年にないほど激しかった。キーファの腕が立つのは、何も剣術に限った話ではない。武道一般、決して凡人とは言えない域に達している。
それがようやく治まった頃には、国王軍幹部を始め、止めに入った兵たちは皆一様に、何処かしら怪我をしていた。
「それにしてもすご……剣がなくて、良かったですねえ。でも、それなのにこんなに服がボロボロって……」
キーファはどんなときでも、短剣を一つ、腰に差している。それこそ寝るときもで、それがまず、最初の関門だった。だから、ラシッドとザッハで、何も言わないうちから、その剣はとり上げたのだ。そのとき既に、ラシッドもザッハも、一発ずつ肘撃ちや足蹴りを喰らっている。
「失敗したよ。靴がまだ兵靴のままだったんだ」
対戦時も使う兵の靴は、柔らかい布で出来ているが、足先と踵を薄い金属で防護してある。それがものすごい速さで左右に飛んでくるため、掠っただけでも服が切れたのだ。
「うーん……人間凶器ですね。すごいなあ。俺もこれ位素早い蹴りが出せるようになるかなあ」
国王に対するその言いように笑いながら、ラシッドは深々とため息を付いた。本当に、今回ばかりは死人が出るのではないかとひやひやした。
そのキーファは、今はようやく落ち着いて眠っている……というよりも、強制的に眠らされている。シャリスの案で、即効性の眠り薬を吹き矢で放ったのだ。
猛獣扱いだな、とファノークなど呆れていたが、とにかくそれで被害は最小に防げたわけだった。
あとは、起きたときにどう宥めるか、頭の痛い問題だった。
報告を受けたときに、ラシッドたちも、怒らなかったはずがない。だが、それを直接相手にぶつけられないことも、痛いほどわかっていた。
大きなため息を吐いたところで、同じく治療を受けていたイル・ハムーンとファノークの二人と目が合った。彼らは軽症で、もう治療は終わったのか服を着直しているところだった。イル・ハムーンはその目をすっと逸らして、ファノークを見た。
「さてと、俺たちは事後処理に行くとするか。ファノークはどうする?」
「ああ、俺は張本人の動きを見ようと思いますが」
「それなら、俺は状況の詳しい確認と行くか……」
「え、ウチはどうしたらいいです?」
「ああ、それならそっちはザッハたちに任せるか。俺たちは親父をちょっと探ってみよう」
と言う訳で、とようやく再びラシッドを見たイル・ハムーンは、にっこりと笑った。
「ラシッドは、王をよろしく頼むな」
ぽんっと軽く肩を叩かれて、ラシッドは深々と頭を垂れた。仕方がない。
「ま、また傷が増えないことを祈ってるよ」
ファノークもそんなことを言う。ザッハは気の毒そうな目をしていたが、もちろん代わる気などなかった。
「わかりましたよ。じゃ、そっちは任せましたので。期待してますよ」
その言葉に、三人は手を挙げて部屋を出て行った。
王が起きるまで、まだ少し時間がある。ラシッドはもう一度ため息をついて、どうしようかと呟いた。
キーファ王が目を覚ましたとき、だが、彼は予想に反して大人しかった。ラシッドにリーフィウの様子を尋ね、今は落ち着いて眠っているようだと答えれば、それで少しほっとしたような顔をした。
「あの馬鹿親子のことは、ファノークとイル・ハムーン殿が追っている」
その言葉にも、キーファは「ああ」と短く答えただけで、怒りに震えるでも、憤るでもなかった。
ただ、諦めてしまったような、目。
だが、それをラシッドは責めることはできなかった。そうさせたのは、自分たちだからだ。あのとき、キーファを止めたことで。
どれだけ許せないと思っても、ラ・フターハを殺すことは出来ない。審問にも掛けずに、糾弾することはできないのだ。
キーファは、王だから。
傀儡でも、王であるから。
暴れられるより余程きついことだとラシッドは思って、何も言えなくなってしまった。こうして諦めながら、でも自分の力のなさを、キーファは悔しく思っているに違いなかった。
リーフィウとキーファは、とても似ている。傲慢なまでに、全てのことを自分の所為にし、自分自身を責めるところなど、そっくりだった。
でもそれが、人を統べるということなのかもしれなかった。ラシッドの幼なじみも、だからこそ、いつも自分を責めていた。
その、力のなさを。
「キーファ」
二人のときだけ、主従の誓いをしなかったからこそ呼ぶ名を、ラシッドは呼んだ。キーファは顔を上げ、じっとラシッドを見た。問い掛けない、瞳で。何も望まぬ、その目で。
「白状しなければならないことが、一つある」
寝台の横にすっと立ったまま、ラシッドは呟いた。
国を背負う彼らはいつも孤独で、でも、その孤独も自らを徹底的に責めることも、全て周りに責任がある。彼らには、それに対する不満は言えないと言うのに。ラシッドはそのことを知っていて、だが逃げていた。
逃げていた。それが一番相応しい言葉だろう。
自分には、もう忠誠を誓う王がいるからといって、キーファの一部でも背負うことを拒否した。
「守りたいものが出来た。一生涯だ。そのために、俺はおまえを王に選ぶ」
「俺には、何の力もない」
キーファが、いやにはっきりとそう言った。ラシッドは、それに首を振った。
「だが、俺にはおまえの力が必要だ。おまえがないと思っている、その力が。おまえはおまえが守りたいもののために、その力を取り戻すべきだ。俺たちと、一緒に。それはおまえのためであり、俺たちのためでもある。キーファ。忘れるな。俺たちは、おまえを選んだんだ」
国王軍に入る覚悟を、軽く見てもらいたくはない。それは幹部以下、国王軍の兵たち共通の思いだった。
王の目醒めを、ずっと待っている、兵たちの。
「俺が守りたいものなど、ない」
キーファはそう言って、寝台の背凭れにどさりと身を預けた。
「それは聞き捨てならないな。俺たち国王軍も守ってくれないのか?」
にやりと笑ったラシッドを、キーファはじっと見た。
ラシッドは、副隊長と言う命を受けながら、決して、その中に入り込もうとはしなかった。いつもどこか第三者的目で国王軍を見ていて、「俺たち」などという言い方はしなかった。
「おまえたちが守られるような奴らか」
「……では、リーフィウ殿は?」
キーファがすっと、視線を逸らす。
「自分で守ることも許さず、おまえも守らないなんて、無責任だろう?」
キーファがふっと笑う。王の寝室は、いつ来ても静かだ。享楽の限りを尽くす王はしかし、自分の寝室には静謐さを好んだ。
「俺に責任を説くのか」
「じゃあ、誰が守るんだ」
他の誰かに委ねるのか、そう言われれば、キーファは唇を噛み締めるしかない。それが嫌だったからこそ、夜毎何もしないというのにあの部屋に行っているのだ。
「おまえは別に、俺の力などいらないだろう。連れ出せばいい。好きに、すればいい」
やはりキーファは知っていたのかと思って、ラシッドは苦笑した。
「あの姫様が、兄を置いて自分だけ逃げると思うか?」
言われてキーファは、何度か話したシャリーアの姿を思い浮かべた。兄よりずっと強かで、しっかりしている。本当は少し、キーファは彼女が苦手だった。
それなら、とキーファは呟いた。
「それなら、一緒にいけばいい。護衛でも何でも、手は貸す」
「本気で言ってるのか?」
呆れたようなため息に、キーファはようやくラシッドを見た。ラシッドは心底呆れているようで、ほとんど哀れむような目をしていた。
まったく、と金色の髪をぱさぱさと振って、ラシッドはまたため息をつく。
「俺は逃げ続ける生活をするつもりはないし、させるつもりもない。もう、疲れたんだ」
その言葉に、キーファが何か口を開きかけ、閉じた。ラシッドの詳しい事情を、キーファは知らなかった。ただ、何かから逃げてきたのだ、と言っていたのは聞いたことがあった。それは、具体的な物質ではなかったようだったが。
例えば、自分の弱さだとか。
黙ってしまったキーファに、ラシッドは踵を返した。静かな、水の底のような寝室は、ときどき息苦しい。
「キーファ」
ふと、扉の前で、ラシッドは立ち止まった。それから、僅かに振り返る。
「そろそろ、自分の気持ちを認めろ。それがきっかけでも目的でも、俺たちは構わないんだ。なんでもいい。俺たちは、おまえについて行くんだから」
ぱたりと閉まった扉に、部屋の中は再び静寂を取り戻す。
キーファは寝台から立ち上がって、窓辺に近寄った。円い窓の外には、町々のひしめきが遠くに見える。ずっと、王という者はこういうものなのだと、思っていた。ただ遠い街を眺めるだけの、そんなものだと。そこには、決して手が届かないのだ。
掌握しているなどとは、考えたこともなかった。
そして、それでいいと、思っていた。そうして、ずっとここから街を眺めるのだ。
黒い屋根は、カラムの街の特色だ。雨など降らなくても濡れたように光る石は、父も好んだもので、湖宮にはあの石を使っている。
――きれい。
小さな手だった。それが、その石を撫でていた。白くまだ幼い、ふっくらとしたその手が。
――あなたの目と、一緒ね。
ね?とその石をキーファの顔の横に持ち上げて、その子は笑った。
てらいのない、痛々しいほどに澄んだ目で。
――一緒なものか。俺の目はこんなに綺麗じゃない。
――きれいだよ?同じ。……ちょっとね、泣いてるみたい。
ふいに伸びてきた、小さな手。
いい子いい子、と撫でられて、何も言えなかった。
認めろだって?とキーファは小さな街並みを見ながら笑った。
そんなこと、とうの昔にわかっていた。
だから奪い取ってきて、だから手離せず。
でも、守ることも出来なかった。
そしてただ、傷つけただけだった。
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