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遠景涙恋
第十四章 薄明


01
 暖かい潮風に吹かれながら、リーフィウはじっとその水面を見つめていた。以前こうして船に乗ったのは、いつだっただろう。
 ルクの独立を決めたあの会議から、ひと月が経っていた。数日前に条約が締結され、ルクは再び、ルク民のものとなった。
 だが、その条約を持ってルクに行き、一体自分が王として認められるのか。
 リーフィウの目は、緩やかな波を追っていた。小さくなっていく波の、その終着点を探すように。
 ソアやキーファが言ったように、条約の内容はルクにとっては不利で厳しいものばかりだった。まず、カハラム軍を駐留させること。その駐屯地は、治外法権を認めること。停泊料、通行料はカハラム船にはかからないものとし、税率もカハラムが有利なようになっている。そして――。
 リーフィウは、そのカハラム軍を引き連れての帰郷となった。これだけは、キーファが最後まで、抵抗していた。だがそれは、リーフィウのためだけであって、新王の帰郷に軍がついていくことは、戦略上、必要なことでもあった。そう、未だ実権はカハラムにあるのだと、示すために。
 この状態でルク入りをして、果たして王と認められるのか……。キーファも、同じことを心配していた。何よりも、リーフィウが傷つくことを恐れるカハラム王は、何度も食い下がっては他の案を考えようと言った。
 リーフィウには、それだけで十分だった。そして、心配してくれるからこそ、必ず民たちを説得しなければ、と思うのだ。
 キーファが、言ったのだから。ルクを以前のような国にするのだと。
「ルクの島影が見えてきたようですよ」
 声が聞こえて振り返ると、シャリスがいた。二度目のヤーミンとの戦いの際、ルク民たちに多少なりとも信頼を得ているシャリスならば、衝突が少なくてすむかもしれない。そう考えた、キーファからの派遣だった。また、シャリス自身もルクの薬学に興味があり、快くこの役を引き受けた。
 ルクでもなくカハラムでもない、どこか遠くを眺めるリーフィウの横顔は、凛と静かで透明だった。それは胸を衝く美しさで、シャリスはいつかハリーファが言っていたことを思い出した。
 玻璃のように透明で美しいその姿はまた、傷つき傷つけられそうなほど鋭くて、怖い――。
 ハリーファは、そう苦笑していた。
 キーファも鋭さを持っているが、それはこちらが畏怖する類のものだ。そこに危うさはない。それは確かな王の姿だ。
 リーフィウもまた、立派な王になっただろう。だが、それは今のようなルクの状況の元ではない。あのまま、父親の跡を継いで統治していたのなら、という話だった。これは、国王軍の幹部達と話していたときに話題になったことがあった。カハラム、ルク国、ルク民のバランスを上手く取るには、リーフィウは頼りなく脆い。強固な力でもって引っ張れる人物か、全てを支えるタフさを持っている人物でなければ、この復興への道は厳しいと言うのが、ほぼ全員の意見だった。
 リーフィウは、どちらかと言えば包み込むタイプだ。平和を平和のまま保つことは出来るだろう。だが、乱世では傷ついてぼろぼろになってしまう。だからこそ、キーファは軍が同時にルク入りすることをなんとか阻止したいと考え、シャリスを送り込んだりもしたのだろう。
 ――これが本当にリーフィウのためなのか。
 新王としてリーフィウをルクに帰すことに決めたとき、キーファはそのことを深く悩んだ。ただ、傷つけるだけかもしれない、と。
「リーフィウ様。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
 真っ直ぐに海原を見つめるリーフィウに、シャリスが頭を垂れた。
「なんでしょう?ああ、シャリス様。どうぞ面を上げて下さい」
 そう微笑むリーフィウは、確かに慈悲深き王の顔をしていた。
「キーファ王の決定に、あなたは一言も反対しなかった。全てを、受け入れた。お悩みにならなかった。それは――覚悟をしていたからでしょうか」
 不躾に申し訳ありません、と頭を下げたシャリスに、リーフィウはゆっくりと微笑んだ。だが、その目は切なく、シャリスは失言を知った。
 悩まなかったはずがない。離れてしまったら、もう二度と一緒にはなれない二人だったのだから。
「キーファ王の決定に、私は感謝しております。何故の決定なのか、わかっているつもりです」
 リーフィウが答えたのはそれだけだった。
 キーファが悩んだことも、わかっているのだ。そして同じように、悩んだに違いないのだ。
「後悔は、なさっていない、と?」
「後悔など、するべきではないでしょう」
 リーフィウの声は明朗さを持って響いた。そのきっぱりとした横顔を、シャリスは何も言えずに見つめていた。


 まだ幼く可愛らしい顔から想像できるのは、細く流麗な筆跡だった。だが実際は、シャリーアの手紙の文字は、力強く大胆だった。その兄も、豪快な文字を書くが、少し神経質なところも見える。どちらかと言えば、そう、学者肌の文字だ、とキーファは思った。
 目にしたことがあるのは数度のその文字を、はっきりと思い出せる自分に、キーファは苦笑を隠せない。きっと、些細なこともなにもかも、自分は覚えているのだろう。それは、最初から別れを予感していた所為かもしれない。
 ハカ酒に橙をぽたりと垂らして、指でかき回す。その指をぺろりと舐めると、少しだけ、苦い味がした。そのキーファを真似をしたときの、悪戯をした子供のようなリーフィウの顔を思い出して、キーファは分厚い硝子の杯を、一息に呷った。
 湖宮で夜を過ごすのはずいぶんと久しぶりだった。静かな闇に水琴窟の音が響いている。雨は降っていないから、誰かが水を流しているのだろう。実はそれが、別れに悲しんでいるだろう王のためだとは、キーファは気付いていなかった。
 港まで見送りに出るかどうか、キーファは悩んだ。最後になって、その手を掴んでしまうのではないかと、自分が信用ならなかった。
 ――離したくない、離れたくない。
 その言葉を、ずっと飲み込みつづけた。そして、リーフィウもまた、最後まで弱音を吐かなかった。
 本当は、少しだけ期待をした。最後に、自分のもとに飛び込んできてくれるのではないかと。だが、リーフィウはすっと立っていた。優雅なお辞儀をして、上げた顔は凛としていた。その瞳が濡れることは、なかった。
 だからこそ、自分はリーフィウに惹かれたのだ。あの、強さ。
 キーファは窓辺によって、遠く赤い空を眺めた。もう、あの姿を記憶の中だけでしか見ることができないかもしれない。そう思うと手を伸ばしそうになって、キーファはぐっと拳を握り締めていた。
 本当に最後まで、二人は何も言わなかった。別れの言葉も、再会を約束することも、なかった。
 唯一二人が本音をさらけだしていたのは、あの決断の日から毎夜繰り広げられていた狂おしい夜だけだ。キーファは飽きることなくリーフィウを求め、リーフィウもまた、何度もキーファを欲しがった。それでも、本音を言うことはなかった。ただその目や、掴む指の強さが、二人の想いを伝え合っていた。
 ――キーファ様。王ではなく、あえてこう呼ばせていただくことをご了承ください。この手紙は、カハラム王ではなく、キーファ様ご自身に宛てたものでございます。
 シャリーアの手紙はそう始まっていた。兄思いの妹姫は、その兄の状況を、ひどく心配していたのだった。
 ――わたくしは、今とても幸せです。ですから、これからは、兄に幸せになって欲しいのです。
 だから、決断はカハラム王としてではなく、キーファ個人としてして欲しい。それは必ずリーフィウの幸福に繋がるだろう。そして、そのためには、自分はどんな境遇となっても構わない。
 シャリーアの手紙はそう言った内容を、柔らかい言葉で、だがきっぱりと伝えてきた。
 キーファはこの兄妹を、心底羨ましいと思った。互いに思い合い、そして強くある。
 窓を開け放つと、強い風が部屋に舞い込んだ。キーファの不揃いの髪をばさばさと揺らす。この風では、リーフィウたちが乗る船は進むのに苦労していることだろう。
 キーファは結局、このシャリーアの手紙の内容をリーフィウに伝えることはなかった。そして、この兄思いの妹姫の気持ちも、汲まなかった。
 いや、わからなかった。
 キーファとして、とシャリーアは書いてきた。だが、自分の気持ちに忠実にリーフィウを縛り付けることが、彼のためになるとは思えなかった。そんな関係は、いつか破綻する。いや、もう破綻していたと言っても良かった。
 リーフィウが、生きる意味を失ったときから。
 キーファ自身も、あのままの関係を望んでいたわけではなかった。だが、リーフィウの立場を考えると、祖国を返すこと以外に、良い案が浮かばなかったのだ。
 リーフィウが、リーフィウとしてあるために。
 ――でも、わたくしは心配です。リーフィウ様は、きっと自分を犠牲にしてまで故国を守ろうとするでしょう。そういう形でしか、あの方は王として立てない……。それがリーフィウ様らしいとしても、辛いことです。
 イーザはリーフィウがルクに帰ると聞いて、そう語った。だが、そのイーザでさえ、リーフィウ様がこのままここにいては自由がないのですね、と言った。
 本当の自由がなく、籠の中で飼われる辛さを一番わかっているのがキーファだ。だからこそ、キーファはどうしても、リーフィウをカハラムに留めることができなかった。
 ルク返還の報を知らせたとき、シャリーアは絶句したのだと言う。それから目を真っ赤にしながら怒って、キーファとリーフィウの二人を罵った。
 なんて呆れた人たちなの。なんて、馬鹿な人たち。
 そう泣くシャリーアを宥めるのは一苦労だった、とラシッドが書き送ってきている。その二人は、その後すぐにコクスタッドを立ち、カハラムに向かっているところだった。
 結局、シャリーアが「どんな境遇でもいい」と言ったその言葉に甘えるのだ。リーフィウが幸せかどうか、わからぬままに。
 キーファは残りのハカ酒を一気に飲むと、窓を閉めた。クィナスの花の香りが、ほのかに部屋の中に漂った。もう、光の季節なのだ。
 キーファはそのとき、ずいぶん前に変わった季節を、ようやく知ったのだった。


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