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遠景涙恋
第十三章 月環
04
カハラムの歴史書は、以前キーファが言っていたように、信憑性に欠けるものが多い。また、同じ出来事を記述していても、食い違いがあった。特に五国時代は、それぞれの国が自分たちに有利な証言ばかりを集めているので、読み比べると面白い。それほど昔ではなくとも、近年、百年ほど前のことでさえ曖昧なのだから、記録好きなルクとは全く違う国民性なのだろう。
その五国を統一して、カハラム朝を建てたのが、キーファの先祖と言うことになる。
ぱらぱらと、風に本の頁が捲れて、リーフィウは自分がその文字を少しも読んでいないことに気付いた。目の前に広げては見たものの、全く頭になど入って来ていない。ここのところ暇さえあればカハラムの歴史書を読んでいたのだが、今日ばかりは集中できないようだった。
天気の良い日、リーフィウが本を読むのは、いつも小さな庭の一角にある東屋だった。この庭はカハラム王のもので、王の許可がない限り、入ることは出来ない。だからとても静かで、リーフィウのことを好奇の目で見る人間もいなければ、噂話も届かないのだった。だがその静けさが、かえってリーフィウに、今朝のことを思い出させた。
ルクの今後について話し合いたい。
キーファがそう言って連れて行ったのは、各大臣や側近達が集まる会議だった。今までは、小さな会議ならば見学者として出席したことはある。だが、さすがに国の運営に関することなどは一切遠ざけられていた。
少しばかりざわついた室内を気にもせず、キーファは鷹揚に席につき、リーフィウにも坐るようにと手で促した。そして、リーフィウが坐るのを待って、言ったのだ。
「ルクは、ルク国民に返そうと思う」
それに真っ先に反対したのは、外務大臣のソアだった。今ルクを手離せば、ヤーミンに取られるだろう、と。
「……あなたは、ルクへの侵略に反対していたと思ったが」
「あの当時は、反対でした。まだ、ルクはバランスを保っていた。ヤーミンに対しても、我々に対しても。ですが、そのバランスはもう崩れているのです。今カハラムがルクから手を引けば、ヤーミンが嬉々として乗り込んでくる」
「それに、我々も無傷でルクを勝ち取ったわけではない。王は、あの戦いを無駄にするのか」
室内は、反対の空気に満ちていた。キーファはそれをわかっていたのか、動揺した様子もなく、それらの意見を聞いていた。
「バランスを崩したのは、我々だ。だから、それを再び戻そうと思う。すぐには無理なのはわかってる。あの島は海洋の拠点として重要な役割を果たすことも。だから、新しいルク国には、我々の軍隊の駐留を認めてもらう」
「復興支援をする、と?」
そうだ、と頷いたキーファに、室内がざわついた。
「必要ならば、港への停泊料、通行料などを我が国は免除してもらう」
「その代わりに、治安は守る、と」
独立は認めるが、カハラムは他国より優位な立場を約束してもらう。それによって、カハラム国民の心情を和らげる。独立とは言っているが、属国扱いに近い。
そもそも、ルクとカハラムは同じ国とするには遠く、民族も違いすぎる。ルク民の気質を考えても、今のままカハラムとして統治し続ければ、常に内乱の火種を抱えることになる。ソアも、そのことはわかっていた。
「それらの条件を、ルクは呑む、と王はお考えか」
「独立と引き換えに、呑んでもらう」
ふむ、とソアが考え込み、周りも「それならば……」と言い始めていた。なにより、王は意見を変えるつもりはないようだった。
キーファは決して独裁的な王ではない。宰相の位は廃したが、何かを決めるときは、その方面の専門的な諮問委員会、そして大臣達の中央諮問会の了承を必ず得るようにしていた。自分の意見を通すときでも、彼らを根気よく説得する。それは、今回も変わらなかった。
「条約の内容については、これから詰めていくことになる。私もみすみすルクをヤーミンに渡すつもりはない。だが、今のままではルクを上手く治めることも無理だと考えている」
それにはソアも同意見だった。内乱の火種や、ルク民との小競り合いをどうするか、ルク担当には頭の痛いところで、外国の事情に詳しいソアはよく泣きつかれていた。だが、上手い解決方法はなかったのだ。
「条約は、決してルクにとって良い内容とは言い難くなることでしょう。それでも、締結させ、ルク民をも従わせる、と?」
ソアはキーファに言いながら、リーフィウを見ていた。キーファが「それについては、新王に協力を願うことになるだろう」と言って、リーフィウは目を閉じて息を吐き出した。
それこそが、自分の役目なのだと。
ぱらぱらと、少し日に焼けたような紙が風に捲くられていき、読み進んだわけではなく、本の内容はカハラム朝が立った時まで進んだ。その祖が「立派で、強大な力を持っていた」と書かれているのはどの書でも同じだった。「これ以上、我々の大地を、我々の血で濡らすことはならない」高らかとそう言った初代カハラム王は、今でもカハラムの中で人気を誇る。
リーフィウはぱたりと本を閉じて、しばらく風に吹かれた。暖かくなり始めた気候に、クィナスの花が蕾を膨らませていた。この蕾が開けば、光の季節を迎えたことになる。
ざくざくと音がして、空を眺めていたリーフィウは、少し後ろを振り返った。ここに来るのは、ごく限られた人間だ。振り向く前からその足音で、それがキーファ王であることはわかっていた。
あの後、リーフィウは退室した。キーファたちは、条約のための諮問委員会を発足させているはずだった。
――必ず、再び我らの手に。
ルク民たちの願いは、叶えられる。それが意に添わぬ形であれ、血を流すことなく独立を手に入れられるのだ。
近寄ってきたキーファは、リーフィウの坐る東屋には入って来ないで、近くの柔らかい草に寝転がった。今日は綺麗に整えられている黒い髪が、風に揺れた。
「突然の話で、悪かったな」
キーファが呟いた。リーフィウはそれに、「いえ」と短く返した。
「……ルクの独立は、民の願いです。それが無血でなされることに、感謝しております。その上、復興支援をしていただけるのですから」
復興支援と言えば聞こえはいいが、実際はそれほど綺麗なことではないと、リーフィウもわかっていた。条約は、きっとルクにとっては屈辱ともいえる内容を含むだろう。
「あなたには、辛い思いをさせる」
だから、キーファがそう言ったとき、リーフィウはただ首を横に振るしかなかった。自分の力では、何も出来ない。だがルクを復興させたい。それには、カハラムに頼るしかないのだ。
「……俺は、ルクを属国のように扱うつもりはない。新王を、カハラムの傀儡にするつもりもない。だが、今の段階では、それではカハラム国民が納得しない。納得してもらうためには――ルクに本当の意味での復興をしてもらわなければならない」
キーファが半身を起こして、リーフィウを見た。その目を見つめて、「王は何故、そこまでルクのことを考えてくださるのです」と尋ねた。
「ルクは、俺の理想の国なんだ」
キーファは再び寝転がって、空に向かって呟いた。リーフィウはふと考えて、立ち上がるとその隣に寝転がった。それを少し驚いた顔で、キーファが見た。
王族らしくない振る舞いだと、キーファは良くシャリスやイーザに怒られる。その点リーフィウの立ち居振る舞いは立派なもので、実はキーファでさえ感心していたのだ。
「まあ、空が綺麗。気持ちいいですね」
キーファの驚きを他所に、リーフィウはそう微笑んだ。それに、キーファはふっと微かな笑みを零して、口を開いた。
「攻め入った国の王が言う言葉ではない。だが、俺はいつかカハラムを、ルクのようにしたいと思っていた」
規模も国民性も違う両国の国としての理想の形が、同じものではないとキーファは今ではわかっている。だが、あの絶望に支配されていた幼いとき、「いつか」と思うことはとても大切なことだった。
――あなたはきっと、立派な王になる。
当時のルク王は、そう言って大きな手でキーファの頭を撫でてくれた。今ではなくとも、いつか、きっと。
「本当は、ルクに攻め入りたくなどなかった。だが、あのときは――もう、遅かった。だから、他の国に渡すのなら、自らの手に入れたかった」
リーフィウには、言わずにいようと思っていたことだった。侵略されたことには変わりなく、今更そんなことを言われても、傷はなくならない。失ったものは、戻っては来ない。
だから、言った途端にキーファは後悔した。
ふわりと左手に温かいものを感じて、キーファは隣を見た。リーフィウは、空をじっと見つめている。ただその手だけが、キーファの手を包んでいた。
また、許される。
また、無言でリーフィウは自分を許している。キーファはそう思って、目を閉じた。
さわさわと、風がそよぐ音がする。まだ強くはない日の光は、二人を柔らかく照らしていた。
ずっと、こんな時が続けばいいのに。
同じ願いを、二人は抱いている。だが同時に、同じ高潔さを、二人は持っていた。キーファが王であることを最後まで捨てなかったように、リーフィウも、祖国を捨てることはしない。
「ソアが言ったように、条約は、ルクにとって決して良い内容とはならないだろう」
キーファの呟きに、「はい」とリーフィウが答える。
「正直に言えば、ルク民が納得してくれるのか……わからない」
どれほどの内容の条約が締結されるのか、リとーフィウは小さく唇を噛み締めた。自分にもルクにも、それに反発する力がない。だが民は、それで納得するだろうか。
「だが、それが復興への一歩だ。道は険しく長い。それを切り拓いて行くのが、王の勤めになる」
はい、とリーフィウは答える。キーファはまだ、一度も新王の話をしていない。だが、それが自分なのだと、リーフィウはわかっていた。
キーファの言う通り、その道はきっとひどく険しいものになるだろう。そして、自分一代だけで、復興が叶うかも、わからなかった。新王は、復興への踏み台となる――その覚悟を、リーフィウはしなければならなかった。
キーファと離れるのだから、それもいい。
踏み台となり、国に一生を捧げる。それでいい、とリーフィウは思った。
キーファの手が動いて、今度は反対に、リーフィウの手を包んだ。きゅっと握られ――リーフィウは、目を閉じた。
温かく、力強い。この手を、離したくなどなかった。
少しだけ手を動かして、キーファの親指を握る。それに、何故か懐かしさを感じて、リーフィウは唇を微かに震わせた。
言葉を口にすることは出来なかった。叶わない願いを言えば、泣いてしまうかもしれない。
キーファと会えたことも、一緒に過ごしたことも――愛し合えたことも、全て覚えておこう、とリーフィウは思った。全てが幸福な記憶ではない。それでも、キーファのいない未来の中で、きっとそれらは大切な思い出になるに違いなかった。
そして、キーファがルクを理想だと言うのなら、自分はキーファ王を手本としよう。この優しい、王を。
開いた目に映ったのは、美しい青空だった。それは目に染みるほどで、リーフィウは、その瞳を僅かに、濡らした。
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