ユーフォリア――euphoria――
01
水の匂いがする、と思って空を見上げると、ぽつりと雨が落ちてきた。その水滴は見る間に視界では捕らえられないほどたくさんになり、七緒が近くのコンビニに飛び込んだときには、ざあっという音を立てていた。
まいったな、と七緒は一人ごちた。約束の場所まで、あと少しだったのだ。でも、雨を遮るものなど何もないその場所に、傘なしでは行けない。
仕方なしにビニール傘を買うことにして、これも経費で落ちるかなあ、などと思いながら、ふと七緒が顔を上げると、コンビニのガラスの向こう、さらに雨の向こうに、小さな影が見えた。
七緒が顔もわからない少年と携帯のメールで約束をした、公園のベンチに座る影だった。
「風邪ひくぞ」
七緒がそう言って傘を差し掛けると、少年は目の前の見つめていたどこかから――七緒にはどこなのかわからなかった――視線を上げて、七緒を見た。
少年は、ベンチに直接腰掛けているわけではなく、ベンチの背もたれの上に腰を下ろし、本来座るべき場所に足を乗せていた。そうやって、足に肘をついて手で顔を支えながら、じっと前を見詰めていたのだ。
「人を待ってるんだ」
濡れた髪をかきあげながら、そうにやりと笑う。互いが待ち人なのだと、わかっているのだろう。
「律儀なことで。ホテルは君指定だったな。行こう」
七緒がそう言うと、少年はふらりと立ち上がって、歩き出した。背はそれほど低くないだろうが、ひょろりと痩せていて、線が細い。雨に濡れたせいだけではなく白い肌は、とても不健康そうに見えた。
少年の名を、深海哲史(ふかみてつし)と言った。と言っても、少年は「テツシ」という通り名だけで生活しているに等しく、苗字など、捨てたも同然だった。
苗字を捨てたわけを、家庭環境のせいだろうか、と七緒は勝手に推測した。
「何か飲んでもいいー?」
ホテルに入ってまず浴びさせられたシャワーから上がると、哲史はバスローブ姿でそう叫んだ。冷えた身体は、あんたが温めてくれればいいよ、と誘ったのに、早くシャワーを浴びて来い、と言った男を、哲史は面白くない奴だと思った。高級そうには見えないスーツが、少しくたびれている。無造作なそのスーツの着方が、男の妖しい魅力を惹き立てないでもなかったが、金のない男はごめんだった。中小企業に勤めるうだつの上がらないサラリーマンの、唯一の娯楽なのだろうか、と哲史はちらりと男を盗み見た。その男は巨大な丸いベッドに座って煙草を吸いながら、いいよ、と答えた。
「お前……年いくつだ」
手にビールを持って現れた哲史に、七緒は思わずそう言った。
「ん?ハタチ」
七緒の睨みなど意に介さずそう言うと、哲史はさっさとビールを飲み始める。
「うそつけ」
七緒は持っていた手帳で、その哲史の頭をぺしりと叩いた。哲史はそれに、あからさまに不機嫌な表情をした。
「あのねえ、おっさんにはかんけーないでしょ?だいたい、俺が未成年って言うならその未成年におっさんは何をしようって……」
哲史は最後まで言わないうちに、目と口を大きく見開いて、冗談、と呟いた。
「おっさんで悪かったね。これでもまだ二十代なのになあ。はいはい逃げない」
慌てながらも服をかき集めて逃げようとした哲史に半ば感心しながら、七緒はそのバスローブの襟を掴んで引っ張った。
「頼むよー。俺何もしてないからさあ」
そう言っても、状況が状況である。無言で引っ張られて、ベッドにどさりと座らされると、哲史は今度はむすっと顔を背けた。
「汚ねーよな」
そう、吐き捨てるように言う。哲史の頭でぺちぺちと音を立てていたのは、黒くて金色のマークがついた、警察手帳だった。
警察といわれれば、それはそれで納得のいく男の外観だった。気付かなかった自分が馬鹿なのか、それとも騙したこの男が悪いのか、哲史は大きくため息を吐いた。
「道端であれこれ尋問されるよりはいいだろう?それに俺は少年課じゃない。安心しろ」
そう言われても、警察は警察だ。同じ事じゃないか、と哲史は吐き捨てた。その哲史を見て、七緒は苦笑する。子供らしい、むくれた顔だった。
「ビールを飲んだことは目を瞑ってやろう。売春は……お前の協力次第だな」
「協力?」
「言っただろう。俺は少年課じゃないんだ。お前が先週会った倉橋って男のことで聞きたいことがあってね」
七緒のその言葉に、哲史は知らねーよ、と即答する。大体、客の名前などいちいち聞かないし、聞いたとしても覚えてなどいない。
七緒は苦笑しつつ小さくため息をついて、哲史に写真を見せた。その子ども扱いした七緒の苦笑が、さっきから哲史の気に触っている。だったらこのむくれ顔をなんとかしたらいいとも思うが、そうする以外に哲史は抵抗の方法を知らなかった。
「この男だよ」
七緒が見せた写真の男に、確かに哲史は先週会っている。背中フェチの変な男で、うつ伏せにした哲史の背中の背骨を、一つ一つ丹念に撫でては興奮していた。それだけで満足する男で、金払いも良かったから、哲史にしてみれば上客だった。
「知らねーよ。知ってたとしても、ただで言うわけないじゃん」
にやけながら哲史がそう言うと、七緒がそれじゃあ仕方がないよなあ、と手帳に写真を仕舞う。
「ちゃんと話してくれたら、今回は目を瞑ってやろうと思ったのに。ウチの少年課は容赦ないぜ」
七緒が言いながら携帯を取り出すと、哲史は慌ててわかった、と叫んだ。
「ったく、大人は汚すぎんだよ。そう言うの脅しって言わねーか?」
負け惜しみのように哲史がそう言っても、七緒は知らん顔をしている。
「それで?倉橋にはいつ会ったんだ?」
「名前なんて知らねーけど。先週の……木曜だったかな」
「何時頃?」
「なあ、なんかしたの、そのおっさん」
「何時ごろ?」
七緒の声がきつくなる。哲史は大げさにため息をついて、四時ごろかなあ、と言った。
「よく覚えてるな」
「人に聞いといてそれはないだろ。映画見た後だったからな。それに、あいつ背中フェチだったし、よく覚えてる」
「背中フェチ?」
「そ。俺の背骨撫でてイケルんだぜ?いい客だったよ」
哲史が笑いながらそう言うと、七緒が呆れたような顔をした。深海哲史はまだ十七才だったはずだ。職業柄こうやって自分の身体を売っている少年少女には何度も会っているが、彼らにときどきあるこの屈託なさが、七緒にはわからない。
「それから、何時ごろまで一緒にいたんだ」
「一時間延長したから、六時だな」
「二時間も君の背中を撫でていたのか?」
七緒が思わず呆れ顔をすると、哲史が笑った。何度か何かに執着する客を取ったことのある哲史は、彼らにとって飽きるということはないのだと知っている。それに、哲史はそう言う客が嫌いではなかった。同じような仲間に聞くと、気持ち悪がる仲間もいたが、哲史にはそうやって自分の一部分でもうっとりと眺められて大切に扱われるのが、少し嬉しかった。
「まあ、人それぞれだからな。その間、何か電話とか、誰かと会ったとかなかったか?」
哲史は少し考えてみるが、何も思い出せず、首を横に振った。
「じゃあ、その後誰かと会うとか、何か約束があるとか言ってなかったか?」
いい加減面倒になってきた哲史は、何も考えずに首を横に振ろうとしたが、ふとあのときの倉橋の言葉を思い出して、そう言えば……と呟いた。
「おっさん、俺の背中をいたく気に入ってくれてさあ。本当はもうちょっと見てたい、なんて言ってたんだけど、この後約束があるから駄目だとかなんとか言ってたな」
「誰と、どこで、とかわかるか?」
「うーん――ああ、駅前のホテルあるじゃん?あそこでおっさんと会ったんだけど。そこの近くだと思う。俺は六時にはホテルから出たんだけど、約束の時間は六時半だったんだ。おっさんはまだ部屋にいて、シャワー浴びてから行くって言ってたからな」
それならやはり、倉橋が殺されたのはその直後ということになる。
「誰とか知らない。興味ねーし」
哲史はそう言うと、もういいだろう、と言うように七緒を見た。七緒も、これ以上聞いても何も収穫はないだろう、と思って、手帳を閉じる。
「ありがとう。助かったよ」
七緒はそう言ってから、問題は、と哲史を見た。
「げ、協力したじゃん。まさか今更警察に突き出すとか言わねーよな」
哲史はすっかり逃げ腰だ。七緒はそれに笑いながら、違うよ、と言った。
「話してくれたら今回は目を瞑る、って言っただろう?約束は守るよ。でも、今回だけだからな。もうするなよ。で、お前の服、すっかり濡れてるだろ。そのまま帰ったんじゃ風邪をひく」
言われて、哲史は傍らに放り出してあった自分の服を見る。確かに、濡れた服を着たまま電車に乗れば、この夏真っ盛りの今、冷房に身体が冷え切るのはわかりきっている。さりとて、外はまだ雨が降り続いていて太陽は望めない。それでも、仕方ない、と哲史は思っていた。
「ズボンは仕方ないとして、シャツぐらいはそこのコンビニで買えるな……ちょっと待ってろ」
だから、七緒がそう言ったときは哲史は少し驚いていた。
「いいよ、別に。どうせまた濡れるし」
「傘も買ってくるよ。俺も今日はあいにく車で来てないしな。いいからちょっと待ってろ」
七緒自身も、どうして自分がこのガキに対してここまで親身になるのかわからなかった。いや、この年頃の少年に、多少なりとも思い入れがあることは認める。でも、それだけではなく――ああ、と七緒はコンビニに向かいながら思った。
あの影だ。
雨の中、ベンチに座っていたあの影。
あの影が、七緒の心を捉えて離さないのだ。
白くけぶるように降る雨の中の、あの影。今にも、消えそうだった。
シャツと傘を買ってホテルに戻ると、哲史はもういなかった。そんなことはわかっていたのに、雨の中を急いだ自分が、七緒はひどくおかしかった。
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