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ユーフォリア――euphoria―― 


02

 何も望んではいなかった、と哲史は思う。
 濡れたまま、湿った空気の中を歩いたのも気持ちが悪かったし、電車の中は思った通り冷房が効いていて、哲史はひんやりとしたその空気に、思わず身震いする。
 雨はまだ降り続いていた。先刻ほどの激しい雨ではなかったが、渇きかけていた哲史の髪をもう一度しっとりさせるには十分だった。
 自分は何も望んでいなかったが、望まれたことには答えようと必死だった、と思う。良い成績を取れといわれれば努力もしたし、品行方性にしろといわれれば、大人しく礼儀正しいことを心がけもした。その何が足りなかったのか、哲史にはわからなかった。
 ドアに寄りかかりながら冷える腕を抱えて、流れる景色を哲史はぼんやりと眺めていた。同じ速度で流れる景色は、哲史をどこか安心させる。
 今帰れば、家には誰もいないはずだった。大病院の医師である父親は日曜の今日はゴルフだと言っていたし、母は何やらボランティアがあるのだと張り切っていた。哲史は、勉強をしに図書館に行く、と言って今朝家を出たのだった。一度帰って、この濡れた服をどうにかして、図書館に行こう。ここのところ、「仕事」ばかりしていて勉強がはかどっていない。
 今日は今日で、稼ぎ損ねた。
 哲史はあとどれ位薬があっただろうか、と頭の中で考える。それと今の自分の銀行残高を考えて、仕方がない、欲しかったCDを一つ諦めるか、とため息をついた。
 ――もうやるなよ。
 そう言った、さっきの刑事の顔をふと思い出す。怖そうな顔をしていたのに、ずいぶんと世話好きな感じだったそのギャップに、思わず笑みが零れる。それから、何故かひどく泣きたくなって、哲史は小さく唇を噛み締めた。


 深海哲史、十七歳。幼稚舎からのエスカレーター式名門校の高校二年生。成績優秀、品行方正。父親は大病院の次期院長候補で、母親は最近ボランティア活動に熱心らしい。
 椅子に足を組んで大きく寄りかかりながら、七緒はそこまで読んで、煙草を大きくふかした。それから、横目でクリップで留められた澄ました顔の哲史の写真を眺めた。この間と、ずい分印象が違う。
「あれ?ああ、その子だったんだ」
 後ろから、突然そんな声が聞こえてきて、七緒は顔だけ後ろに向けた。そこには、後輩の来生(きすぎ)が大量の資料を重そうに抱えて立っていた。
「何だ、来生」
「え、ええ、その子、この間先輩が会いに行った子でしたね」
 来生はそう言いながら、片付いていない机の上にさらに資料をどさりと置いた。
「ああ、有力な情報の提供者だ」
「そんなこと言って、それで先輩、そのまま逃がしちゃったんでしょ?少年課の伏見先輩が聞いたら怒りますよー」
 来生はそう言いながら、にやにやと笑っている。どうやらこの後輩も、署の名物コンビに慣れてきたらしい。迫力美人の伏見と、普通にしていても冷たい顔の七緒と、二人が厭味たらたら言い合うのは、端から見ればそれは恐ろしいものだ。
「管轄外のことには手を出さないのが俺の主義でね。大体、証拠も何もあったもんじゃないし。それで?何がその子だったんだ、なんだ?」
 七緒が手に持っていた資料にちらりと目を走らせながらそう言うと、来生はコーヒーを取りに行きながら、さっき見たんですよ、と言った。
「見た?どこで」
 七緒は来生に、自分にも、と手で合図をする。
「どこって、署ですよ。その伏見先輩のところです。どこかで見た顔だなあって、思ったんですけど、すぐには思いつかなくて。それで帰ってきたら先輩がその写真を見てて、思い出したんです。結局伏見先輩に捕まっちゃったんですね」
 来生は七緒にコーヒーを手渡しながら、苦笑した。
 捕まっちゃったんですね、などと言ったらそれこそ伏見に怒られるぞ、と思いながら、七緒はその伏見のいる少年課の方に視線を向けた。と言っても、壁二枚に隔てられたその部屋が見えるはずがない。
「それにしても綺麗な子でしたね。あれなら稼げるのもわかる……」
 そこまで言って、七緒に睨まれた来生は、慌てて持ってきた資料を開いて読み始めた。そこに、カツカツとあまり穏やかではない足音が響いた。
「ちょっと七緒っ」
 ばたんっ、と音をさせてドアを開けて入ってきたのは、さっきまで噂をしていた伏見だった。睨むように自分に迫ってくる伏見を見ながら、七緒は何気なく机に置いた資料を片付ける。
「相変わらず怒ってる方が美人だね、伏見は」
 にやりと笑いながらそう言うと、伏見は余計に瞳をきつくする。
「事実を言ってもお世辞にはならないのよ、七緒。怒ってる方が、って言うのは余計だけどね」
 伏見はだんっと机に右手をついて、座っている七緒を見下ろした。その七緒は、そうかな、などと言っている。
「相手を思っている以上に誉めるのがお世辞、だろう。そんなことは知ってるよ」
「……相変わらず可愛くないわね」
「それこそ事実を言っても、厭味にはならないぞ」
 七緒がそう言うと、隣で来生が「七緒先輩一本」などと呟いて伏見に睨まれる。それから、伏見は、遊びに来たんじゃないのよ、とため息をついた。
「惚けるのはなしよ。なんであんたが深海哲史を知ってるの」
 それよりも、どうして七緒が哲史を知ってると思ったのか不思議で、七緒は思わず来生を見たが、来生は眉根を寄せて頭を小さく横に振っている。だいたい、さっき写真を見るまで誰だったのかわからなかった、と来生は言ったのだ。
「来生くん、あなたも何か知ってるみたいね。この男の頑固で回りくどいのにはほとほと手を焼いてるから、あなたに聞こうかしら」
 伏見がそう言って来生のほうを睨むと、今度は来生が助けを求めるように七緒を見た。
「どうして俺が彼を知ってるなんて言うんだ」
 七緒は別に来生を助けようなどとは考えていないが、さっきから思っている疑問を口にした。
「惚けるのはなしって言ったでしょう?深海哲史本人が、あんたを呼べって言ってんのよ。親も学校もやめてくれ、七緒刑事を呼べってね」
 やっかいな事になった、と正直七緒は思った。何もよりにもよって、伏見になど捕まらなければ、と刑事らしからぬことまで考える。
「前にちょっと事件の関係者として話を聞いたことがあるだけだよ。何かしたのか、彼」
 あくまで惚けて七緒がそう言うと、伏見は疑わしそうに七緒を見つめた。
「薬物関係でちょっとね。本人は持ってなかったから、ちょっとお説教して帰そうと思ったんだけど、親にも学校にも連絡しないでくれ、七緒刑事を呼んでくれって、そればっかりで名前以外のこと言わないのよ。――ってあんた、知ってたんじゃないの」
 伏見のその問いに、七緒は小さく「いや、知らない」と答えて、少し考え込んだ。
 事実、薬物関係のことは七緒は何も知らなかった。それで、哲史はあんな売春行為をしてお金を稼いでいたのか、と一人で納得はしていたが。
「それで?俺にどうしろって言うんだ。俺は関係ないぞ」
 それは少年課の仕事だろう?と言わんばかりの七緒の態度に、伏見は小さくため息をついた。
 結局、伏見は優しいのだ、と七緒は思う。言葉はきついし、容赦もないが、少年少女たちを更正させよう、犯罪から守ろう、という気持ちに揺るぎがない。
 七緒はときどき、それをひどく羨ましく思う。
「そう言うならいいわ。彼にはそう言って納得してもらうしかないわね」
 伏見はそう言うと、くるりと七緒に背を向けて歩き出した。
 七緒は思わず、少年課のあるほうの壁に目を向ける。
 あの日、雨に濡れながら、深海哲史は何を考えていたのだろう。ただじっと、どこかを見つめていた。あの雨に、溶けていきそうになりながら。
「ふざけんなっ。七緒っ」
 ふいに名前を叫ばれて、七緒ははっと我に返る。声は、さっきから七緒が見ている少年課のほうから聞こえてきていた。七緒は天井を見上げて、ため息をついた。出て来いだの、卑怯者だのと言いながら、何度も七緒の名前を叫んでいるのは、哲史だろう。来生や他の連中が、面白そうに七緒を見ている。
「七さん、ラブコール」
「あれのどこにそんな色気があるって言うんです」
 大先輩の朝井に顎で促されて、七緒はそう言いながら立ち上がった。どうせそのうち少年課の誰かが呼びに来るのはわかっている。そうじゃなかったら、哲史が叫びつづけて自分が行かざるを得なくなるか。どちらにしろ、早いにこしたことはない。哲史は既に、あることないこと叫びだしていた。
「あいつが気持ちよくなるって薬くれたんだよっ。おかげで俺はこんなところに――」
 噛み付かんばかりの勢いで伏見に叫んでいる哲史の頭を後ろから軽くぺしぺしと叩くと、七緒はわざと聞こえるように、盛大なため息をついた。それから、にやりと笑う。
「どうせなら、俺が忘れられなくて、ぐらいのことを言って欲しいね」
 その言葉に、周りもにやにやする。ただ伏見は、呆れた顔をしていた。
「あのねえ、煽らないでちょうだい。煽るんだったら、責任とってね」
 伏見はそう言って、叫ぶ言葉を失った哲史に、座るように促した。
「君もずいぶん馬鹿なのに引っかかったわね。こんな男、頼りにならないわよ」
 哲史に向かってそう言う伏見に、七緒は苦笑しながらその隣に腰掛けた。
「引っ掛けたわけじゃない、人聞きの悪い」
「今更どう良くしようっていうのよ」
 言い合う二人の前で、哲史はすっかり大人しくなっていた。それでも、斜め下の床を睨むように見つめて動かない。
「それで?君は俺にどんな用があるって?」
 疲れたような、呆れたような口調で七緒が言うと、哲史はその七緒をちらりと睨んで、すぐにまた視線を外した。哲史にしてみれば必死で、今両親や学校に事が知れるのは、恐ろしいことだった。それで思い出したのが、七緒だっただけなのだ。
「この間の責任とって、俺の身元引受人になってよ」
 何の責任だと言うのだ、と七緒は呆れたため息を吐きながらも、頭のいい奴だ、と思っていた。この際、事実はあってないようなものだ。それもまだ子供の哲史が騒ぎ立てることで、七緒はなんにしろ困ったことになる。でも、この職場の連中が自分をどう見ているか、七緒はわかっていたし、誤解は簡単に解けると思っていた。大体、隣の伏見を始めとして、皆この少年が嘘を言っていることぐらいわかっているのだ。
 それなのに。
「……わかったよ」
 七緒は、そう言っていた。隣の伏見が呆れたように自分を見るのがわかる。
「あんたって……馬鹿の上にお人好しがつくような奴だった?」
「薬は持ってなかったんだろ?それに、反応も出てないな。それなら、こんなに嫌がってるのを親に連絡しなくてもいいだろ」
 今度は伏見は、盛大にため息をついた。
「鬼の七緒の言うことじゃないわね。全く、どうしてこうあんたってこの年代に甘い……」
 そこまで言って、ふいに伏見は口を噤んで小さく息を吐いた。その目が同情に溢れているのを見るのが嫌で、七緒はその伏見から視線を外したまま、小さく苦笑した。
 捕らわれているつもりはない。
 過去は過去だと、切り捨てたつもりでは、いる。
 でも、きっとそう言っても、誰も信じてなどくれないだろう。
 七緒はそう思いながら、目の前でほっと安心した顔をした少年の顔を、じっと見つめていた。



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