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ユーフォリア――euphoria―― 第二話


02
 脱いだ制服を紙袋に入れてゴミ箱に捨てると、哲史は知らずにため息を零した。それから、小さなスポーツバックを肩にかけ直すと、くるりと身を翻して滑り込んできた電車に乗った。
 行き先は、どこでも良かった。とにかく、この街から離れるべきだろうと思った。
 はやく、自分が泣き出さないうちに。
 耐え切れなくなって、縋りつく前に。
 通勤ラッシュを終えた電車は、それでもかなり人がいて、哲史はそのことにほっとした。知らない誰かに見られていると思っていないと、この緊張が途切れてしまう。こんなところでは泣けないと、理性が言うのに縋れなくなってしまう。
 今ごろ、学校では厳かに卒業式が行われているはずだった。でも、自分を呼ぶ担任の声に答える声はない。
 卒業証書は惜しかったな、と哲史は思った。それを広げて、どうだ、と七緒に迫ろうと思っていたのに。制服のままだったら嫌だろうかとか、そんなことまで考えていたのに、その制服は先ほどゴミ箱に捨ててきてしまった。
 七緒と会って、薬も売りもやめて、周りを見始めた哲史に出来た友人達の顔を思い出す。式が終わったら、どこかで騒ごうと言われていた。用事があると断ると、にやけた笑いをかえされた。
「七緒……」
 呟きにもならない、口の中だけで呼ぶ。でも、舌にのせた途端にその笑顔や真剣な表情や、指や目が思い出されて、哲史は慌てて目を閉じた。油断をしたら、泣いてしまう。
 決して、失いたくないものだったから。
 温かな腕も、大きな手も。
 一度なくして、もう一度手に入れたときは、夢のようだと思った。
 にやりとした人の悪い笑みも、辛辣な口も、愛しかった。ときどき、ひどく優しくなる瞳も。
 流れる景色を見ながら、そうやって二人で過ごした時間が、どんどん過去になっていく気がした。
 本当に、過去になるだろうか。
 思い出にして、自分はそれだけを支えに、生きていくことはできるだろうか。
 あれほど、穏やかで温かな時間を、忘れることができるのだろうか。
 何度か電車を適当に乗り換え、いくつかの街を通り過ぎ、哲史はどこまで自分は行く気だろう、と他人事のように思いながらぼんやりと外を眺めていると、ふいに電車が止まって、景色も止まった。その止まってしまった景色を見たくなくて、哲史はふらりと立ち上がると、電車を降りた。
 時計を見るとお昼をとっくに過ぎていて、空腹感を感じた哲史は、近くのファーストフードに入った。外が見えるカウンターでぼんやりとこれからどうしようか、と思いながら遅い昼食を済ませると、とりあえずもう少しこの街を歩いてみようと思った。最初は、安いホテルに泊まるしかない。あるだけのお金は持ってきていたが、それは一ヶ月ももたない金額だった。
 ホテルを探して、職を探して、家を探して。
 やることはたくさんある。
 ともすれば泣いて誰かに縋りそうになる自分を叱咤しながら、哲史はこれからのことばかりを考えた。
 はやく、穏やかな思い出になればいい。
 こんな生々しい思いを、優しく思い出せるような。
 そのために、時間が必要だと言うのなら、はやく時など経って欲しかった。
 まだ鮮やかに蘇る、あの顔を思い出すたびに、泣かずにすむのなら。


 駅前の安いシティホテルに宿を決めると、哲史は街をふらりと歩いた。さびれた商店街と、どこか整備された新しい道と。どの街もあまり変わらない。同じ形でいることは難しく、それでも足掻くようにみんな生きているのだと哲史は知っていた。
 生きることの意味を、難しく考えてはいけない。
 それは決して難しいことではないのだ。たとえば、哲史にとっては、七緒がいるということ。
 七緒が生きていると言うこと。
 そんな、単純なものでいいのだと思う。
 凛とした立ち姿と、真っ直ぐな眼差しと、そんなものを失わずにいてくれたら。
 哲史は夕暮れの町を歩きながら、バーや飲み屋の張り紙を一つ一つチェックしていた。小遣い程度ではなく、一人暮らしていかなくてはならないのだ。今、十分な金額の現金を持っているわけでもない。できれば効率よく稼げる仕事がしたかった。
 だからといって、あの頃のような稼ぎ方をするつもりは全くなかった。馬鹿なことだが、貞操は七緒に置いてきたのだ。
 一度も、抱き合ったことがないというのに。
 キスさえもできなくて。
「あんた何してんの?お店はまだよ」
 張り紙を見ながら、ぼんやりと考え事をしていた哲史に声をかけて来たのは、年齢不詳の女だった。若々しい格好をしているが、崩れかけた化粧の下の顔は思ったより老けている。疲れた瞳が、生気を失っていた。
「え?あ、違うんです。バイトの張り紙を見ていて」
 女はがちゃがちゃと店の鍵を開けながら、ふうん、と言った。まあ、客って感じじゃないもんね、と独り言のように言う。
 キイッとドアを開けた女は、そのまま閉めずに哲史を見た。
「何してんの?仕事、探してるんでしょ?」
 そんな風に言って、中に入るように促す。哲史は少し戸惑ってから、曖昧に頷くと中に入った。店内は思ったより小奇麗で、落ち着いた雰囲気だった。スナックだと思ったのに、バーと言ったほうがしっくり来る。きょろきょろと好奇心のまま辺りを見てると、女がそこに座って、とカウンターの椅子を指した。
「あの、深海哲史と言います。確かに仕事を探してるんですけど」
「何飲む?」
 女は哲史の言葉を遮って、気だるそうに髪を掻きあげた。ふわりと漂う香水が、奇妙な色香を含んでいる。
「あ、じゃあビールを」
 哲史は、最初から年を誤魔化すつもりだった。夜の仕事にしろ、昼の仕事にしろ、未成年と言うのはあまり好まれないと知っているからだ。
 女はふっと笑って、ビール瓶を開けると、それをコップに注いだ。
「てつしってどう書くの?」
「哲学の哲に、歴史の史です」
 ごくり、とビールを飲んでそう答えると、学術的な名前ねえ、と女はころころと笑った。
「いくつ?」
「え?あ、二十歳です」
 二十一でも良かったのだが、まだ幼さを残している自分にはぎりぎりの年齢だろう、と哲史は思ってそう言ったが、女はふうん、そういうことにしておこっか、とまた笑った。
「あの……」
「条件は張り紙どおり。それで良いなら、すぐにでも来てくれる?」
 張り紙の条件は決して悪いものではなかった。週六日、九時から二時まで、時給二千円のバーテンダー。
「え、はい。でも、俺バーテンの経験が実はなくて」
「それはいいわよ。今いる奴がもうすぐ止めちゃうんだよね。それまで教えてもらえば。あ、あたし一応ここのママの、雪絵。よろしく」
 にっこりと笑われて、哲史は戸惑いながらも、頭を下げた。それから、少し眠りたい、とあくびをしながら立ち上がった雪絵が、そう言えば、と哲史を見た。
「あんた、住む所は決まってるの?」
「え?」
「良かったらここの裏のアパート、紹介してあげるから」
「あの、どうしてそれ……」
「伊達に年取ってないの。わかるわよ、それぐらい」
 それ、と雪絵が言ったのは、自分が家を出てきたことなのか、ただ行き先がないことなのか。わからなかったが、その申し出はありがたく受けることにした。
 未成年の自分が、一人で生きていくことの大変さをわかっているつもりではいたから。
 はやく、時間が過ぎて欲しい。
 哲史は、電車の中で思ったことをもう一度思って、どうにもならないその願いに、少しばかり苦笑した。




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