ユーフォリア――euphoria―― 第二話
03
消えてしまった。
掴んだと思ったのに、いつのまにか、泡のようにそれはなくなってしまった。跡形もなく。
そんな感じだった。
卒業式後、七緒は心当たりを全て当たった。といっても、伏見や来生、朝井に聞いてわかるはずもなく、哲史から聞いていた友人達の連絡先をほとんど職権乱用で調べて聞いてみたが、みな一様に知らないと言っていた。何か事件に巻き込まれたのかとも思ったが、それらしき事件は出ていなかった。
残るは、深海家だけだった。
刺激するのは良くないとわかっていて、はやる心を押さえながら、伏見の協力でさり気なく探りを入れてみたのだが、どうにも良くわからなかった。
「わからないって……どういうことだ」
「そのままよ。哲史くんは家にいない。それは確かだけれど、それ以上はご両親も何も言わないらしいわ」
自助グループからの定期連絡だと言って哲史と話そうとしたスタッフは、もう関係ないだろう、の一言で電話を取り次いでもらえないらしい。七緒が調べたところでは、最近哲史は家に帰っていない。
もう、卒業式から一週間が過ぎていた。
「どうやら、父親の深海氏が無理やりコネで医大に哲史くんをいれたらしいんだけど」
哲史の父親深海氏は、この間院長選挙に勝って、清泉医大附属病院の院長になったはずだった。それを考えれば、清泉医大に哲史をいれるなど造作もないことだろう。
「哲史は医者は継がないって言ってたからな。自助グループの影響か、児童心理学系に行きたいって言っていた」
「それを、許すはずがないわね、深海氏が」
「ああ。でも、高校を出たら自立する、とはずっと言ってたんだ。俺も心配で何度も確かめたが、哲史は大丈夫、しか言わなかった」
二人同時に、ため息を吐く。哲史がなるべく周りに寄りかからずにいたい、と思っていたのは知っていた。それが、哲史を哲史らしくしていたことも。
「哲史が嫌がっても、ずるくても、調べておくんだった」
搾り出すように言った七緒に、伏見は何もいえなかった。どうすることが良かったのか、というのは、いつも後からついてくることだ。
最後の最後、どうしても駄目だったら、自分を頼る、と七緒は思っていた。哲史もそう言っていたし、それを信じていた。
――もし、もう駄目だって思ったら、甘えさせてね。
そう言った哲史は、決して嘘ではない。当たり前だ、と七緒が答えたら、満面の笑みをくれた。
あの二週間。仕事に追われていたあの間に、何かがあったのだ。
また、何も知らないまま、自分は大切なものを失うのかと思うと、七緒はその怒りの矛先を自分以外のどこに向けて良いのかわからなかった。
「七緒?」
突然立ち上がった七緒に、伏見が心配そうな目を向けた。
「深海氏に会ってくる」
七緒はそれだけ言うと、足早に部屋を出て行った。
「どうして、こんなことになっちゃうんでしょうね」
それを見ながら、来生が泣きそうな声で呟いた。
本当に。
なんて神様は意地悪なのだろう、と伏見は思った。
アポイントはございますか?と聞かれて、あるわけないだろう、と七緒は内心怒りながら、あまり大っぴらにしたくない、と警察手帳をちらりと見せた。それで諦めたのか、どうぞ、と言われて、七緒はため息をついた。
「警察の方が、何の御用でしょう」
深海氏はゆったりと椅子に座って、七緒に椅子を勧めるわけでもなく、鷹揚に口を開いた。
「あなたの息子さんのことで、聞きたいことがありましてね」
「哲史ですか?また何かしたんですか?」
「違います。でも、ここのところ家に帰ってませんね?どこにいるのかご存知ないですか?」
「何もしていないのに、なぜそんなことを聞くんです?」
深海の目がすっと嫌悪の色を映した。
「七緒さん」
呼んだ声が、ひどく冷たい。それに怯えることなく、七緒は眉根を寄せた。名を、名乗ったつもりはない。
「あなたのおかげで息子の未来はめちゃくちゃだ。哲史は医学の道には進まないと言うし、挙句の果てに家出などして。尻拭いするこちらの身にもなって欲しい」
深海はそんなことを言う。彼の口から発せられる息子という言葉に、七緒は嫌悪を感じずにはいられなかった。哲史は自分のものであり、ゲームの駒でしかない。
「哲史に、何を言ったんです」
「何も。父親として、正しい道に進むように諭しただけです」
正しい道とは、どんな道だ、と七緒は怒鳴りたいのを寸でのところで押さえた。
「あなたも、金輪際哲史に近づかないで貰いたい。さもなければ訴えますよ」
「何を訴えるというんだ」
「哲史はまだ未成年だ。その未成年に手を出すなど、どう言うことかあなたの方がよくご存知でしょう?」
どうやらこの父親は自分達の関係を知っているらしい、と七緒は思って、思わず苦笑がもれそうになった。
「俺たちは確かに恋人同士ですが、何もしてませんよ」
皮肉なことに、そう、何も。二人の気持ちだけが、恋人同士だという証拠だった。
「そんなこと、わからないでしょう?現にあいつは男と寝たことがあると言う。まったく」
耐え切れず、七緒が机をどんっと叩いた。
「そんなことを、哲史に言ったのか」
「七緒さん、あの年頃はそう言うことに関心が高いですからね。若気の至りで仕方がないと私も言ったんです。でもそろそろ、自分の社会的責任を考えてもらいたい」
結局のところ、深海は何もわかっていないのだ。どうして、哲史が売春などしたのか、薬に走ったのか。そんなことはどうでもいいのだ。困った過去は、消してしまえば。
「社会的責任?好きでもない女と結婚して、省みることもない家庭を作ることですか?」
たっぷり皮肉をこめてそう言っても、深海は片眉を上げただけだった。
「あの子はね、私の息子なんです。私の血が流れている。それなのに医者にならない、その血を絶やす、などとんでもない。それに、立派な医者になればあの子も私の言っていることがきっとわかるでしょう」
むかむかとした。今にも怒鳴りそうで、七緒はぐっと奥歯を一度噛み締めた。
「深海さん、息子、というのはね、人間だ。道具じゃない。あんたはそれを忘れている。それに、子供は誰かのために生きるんじゃない。生まれたそのときから、自分自身のために生きるんだ。哲史はあんたの息子である前に、哲史なんだ」
深海が自分のために生きているように、哲史も哲史のために生きている。それを変えることはできないのだ。
「哲史はそれをようやく知った。あなた達のおかげで、自分に価値がないと思っていたんだ、哲史は。哲史はね、あなた達のことをもう諦めたように話します。どれだけ願っても、温かい家族はもうできないと諦めてる。それでも、自分で自分なりに歩いていこうとする哲史を、どうして邪魔するんです?あの子が望む、当たり前の愛情を与えられないと言うのなら、せめてもう解放してやってください。哲史が哲史であることを、認めてやってください」
たった、それだけでいい。もう、道具のように自分のことだけを押し付けるのはやめて欲しかった。
「あの子は、道に迷っているだけだ」
「迷ってなんかいない。あんなに、真っ直ぐだ」
否定をするな、と七緒は思う。あんなに真っ直ぐで強い哲史を、否定するな、と。
深海はしばらく七緒を見ていたが、ふいに視線を逸らすと、背後の窓から外を見た。随分と長い沈黙の後、深海は独り言でも言うように口を開いた。
「生まれなかったと思えばいい、そう言われたよ」
深海は疲れたように、ため息をついた。
「失敗は消す。そうなら、失敗作の自分もなかったことにしろ」
「哲史……」
どんな顔をしてそんなことを言ったのだろう、と七緒は泣きたくなった。きっと、いつものように諦めきった、さばさばした表情で言ったのだろう。
「結婚も、家庭も、子供も、確かに私は今の地位を手に入れるために利用してきた。だから、その家庭にそれ以外の方法で接することは出来なかった」
深海は淡々とした口調で、でも疲れを滲ませて話しつづけた。
「私には、私の役目があってね。政略結婚の末に好きでもない女と結ばれた。そう言う夫を演じるのが私の役目だった。そして、同じように子供をそのために利用する父親、それがもう一つの配役だ。
最初から間違っていた。私と、妻だけだったらそれでも良かったのに、私たちは必死になってその役目を守るために子供まで作った。でも、君の言う通りだ。息子は道具じゃない。道具は、心をもたないからね」
深海の心情を、七緒は到底理解できなかったが、どこか哀しかった。
役目、と同じことを言っていた哲史。
「最後まで、その役目を果たせると思ったが、駄目だったな。あの子は、自分でさっさと舞台を降りた」
羨ましかったのかもしれない、と独り言のように深海が言う。
「それなら、あなたも舞台を降りてください。そして、哲史を本当にそこから解放してください」
深海は目の前の七緒をじっと見つめた。哲史が、守り通そうとした男だ。
全てを諦めていて、結局最後は自分の思うように歩いていた自分の息子が、この男が絡むことだけは、決して諦めることがなかった。そのことに、深海自身、ひどく戸惑った。
「あの子の行き先は私も本当に知らない。あなたを使って、脅したのだけどね。逃げられてしまった」
「俺を?」
「二人の関係が知られて困るのは、どう考えてもあなただと言ったんです。あなたは警察官で、哲史は高校生だった。そのことであなたを破滅させるのは簡単だと脅して、言うことを聞くように言ったのに、あの子は姿そのものを消した」
以前なら、大人しく言うことを聞いたのに。
「それが、哲史ですよ」
七緒がそう言うと、深海はそうだな、と安堵に似たため息を漏らした。
home モドル 01 02 * 04