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ゲーム


bonus stage

01
 いつからだっただろう。
 真っ直ぐで、透明で、あどけなくて、真摯な瞳に捕まったのは。
 見つめられると、まるで丸裸にされているような気分で、落ち着かなかった。
 でも、それを自分のものにして、自分だけを映すように、傷つけるのも涙を出させるのも、笑わせるのも、全部自分だけが出来るようにしたい、と思い始めたのは―――一体、いつだっただろう。
「キース?キースってば、聞いてる?」
 突然視界一杯にサキのきらきらとした眼が見えて、さっきまで考えていた眼が重なり、キースは一瞬それを舐めてしまいそうになった。危ない危ない、と心の中で苦笑する。
「聞いてるよ。近代社会学の教授がつまらないのはクリスもぼやいてた。あいつはほとんど出席してないみたいだけど。サキもサボったら?聞いてる感じじゃ何も新しいこと言ってないから、本でも読んでれば論文は大丈夫だろう?」
「うーん……でもなあ」
「そういうこと出来ないのがサキなんだよな」
 にっこりとキースが笑うと、サキはそいういうわけじゃないんだけど、と困ったような顔をした。
 大学のカフェテリアで、二人は偶然同じになった空き時間を潰していた。高い天井が開放感を出しているこのカフェテリアは、昼時になると席取りが難しくなるほどには居心地が良かった。
「Hi!キース。見たわよー。色っぽくて素敵だったわ。普段もストイックでいいけど、たまにはああ言うのもいいわね」
 講義が一こま終わったのか、生徒たちが団体で入ってきた。その中の何人かが、サキとキースに声をかけていく。今の専らの話題は、キースとクリスの写真だった。あのヨシュアが撮った、モノトーン背景の写真を載せた雑誌がついこの間発売されたのだ。
「あれ、見事にキースの遊び人風写真ばっかり載ってたよね」
 くすくすと、サキが笑っている。キースはヨシュア辺りの嫌がらせかとも思ったが、そんなこと出来るわけないだろう、とヨシュアには言われた。おまけに、本性が出るんだよ、とまでからかわれ、はっきり言ってあの写真の話題は嬉しくない。
「全く、散々だ。あれにはサキも責任あるんだからな」
「何で?」
「サキまで頼みに来るから断れなかったんじゃないか。おかげでブライアン教授にまで撮らせろって言われてるんだぞ。俺はサキじゃないからヨシュアも面白がって助けてくれないし」
 キースが大げさにため息を吐くと、サキがじっと見つめてきた。ばれたかな、とキースは内心で舌打ちした。サキはヨシュアほどではないが、妙に勘がいいときがある。とくに、このことに関して。
「クリスは?何て言ってるの」
 口調はさりげないが、眼が睨むようにキースを見つめている。それをわかっていながら、キースは「さあ」とそっけない言葉を返した。
「さあ……って」
「会ってないからな、最近」
 正確には二週間と二日。長い夏休みが終わって、大学四年目の秋が始まってから。
 新学年が始まったという些細なことだが、時限爆弾を抱えるような二人には、それだけで十分だった。ちょっとした口論になって、それをもう二週間引きずっている。
 サキが何か言葉を探している。非難するなら、してくれた方がキースには良かった。
 わかっているのだ。
 誰が、悪いかなんて。
 でも、結局サキが何か言う前に、ヨシュアが二人の席にやってきた。隣の席から、余った椅子を借りて、サキの隣に座る。晴れて大学生になったヨシュアは、ブライアンの「策略」(とヨシュアは言っている)で、他の三人と一緒の四年生になった。四年生は授業数が少なく、ブライアンは自分を助手変わりにして、いいように使っているのだ、とヨシュアはこぼしていた。
「よお、お疲れ。講義、じゃないよな」
「違うよ。写真現像の実践の授業でさ。先生から呼び出された」
 自身が名も売れ始めた写真家のヨシュアは、自分の受けるべき講義より他の学科の講義を聞く方が面白いと言って憚らない。特に、ブライアンの講義は今更、だろう。その代わり、と言うわけではないが、講義に出ない分手伝え、と言われているらしい。
「そう言えば、おまえによろしくってさ。まだ断ってるのか?」
「まだ言ってるのか、って俺が言いたいね」
「クリスはおまえさえ良いって言えば、OKなんだって?あいつも上手く逃げたな」
 ヨシュアの他人事を楽しむような口調に、キースは小さくため息をついた。それが、今回の喧嘩の原因の一つでもある。もうやらない、とキースが言ったのをわかっていながら、そんなことを言ったクリス。
 その真意を、キースだってわからないわけではない。
 ヨシュアが言ったような、クリスお得意の逃げではないのだ。
 目の前の二人は、長い間離れていた時間を埋めるように、毎日をとても幸せそうに過ごしている。互いがいることだけで満足をしているようなところまであって、端から見ているキースなど呆れてしまいそうになる。もちろん、お互いの胸の奥底にある凶暴な気持ちを、恐れているということもあるのだろうが。
 そんな気持ちを持ちながら、どうして穏やかに笑えるのだろう、と思う。どうしてあんなに幸せ一杯のような顔を出来るのだろう。
 昔、キースを弱虫だ、と言ったのはサキだった。
 同じように、臆病だ、と言ったのはヨシュアだった。
 そんなことを他人から言われたことのなかったキースは、二人が似ていることに驚いた。そして、二人とも―――特にサキは―――思ったよりずっと強いのだ、と知って自分でも二人に言われたことを認めてしまった。
 だから、あんなことが合ったのに、二人を会わせよう、と言ったクリスに反対するどころか協力までしてしまったのだ。
 今、目の前で、羨ましくなるほど穏やかで温かい空気を纏う二人に、キースはほっと安心する。そして、多分同じようにクリスも思っているのだろうと思う。
 せめて、この二人だけでも。
 馬鹿なことに、そんなことを考えている。
「あ、時間だ。じゃあキース、クリスによろしくね」
 サキは立ち上がって、笑いながらも子供を叱るような眼をしていた。思わず、苦笑が漏れる。
 その眼に、まったく弱虫なんだから、と言われているようだった。ヨシュアも何か勘付いたのか、一瞬目を眇めて、するりとサキの肩に手を置いた。見せ付けられて、どうしろというのだ、とキースは二人を見送ってから首を小さく振った。
 二人は知らない。
 キースとクリスは、二人のように付き合っているわけではない。
 これは、制限時間のある、恋なのだということを。
 あのときのゲームのように、ただ着々と駒を進めて、終わらせるための恋愛遊戯をしているのだということを。
 それがもう、最終ステージに近いのだということを。


 まだ日の残る空を見ながら、キースはバスに乗った。空いている椅子には座らず、立ったまま、流れる景色をぼんやりと見ていた。
 条件付けを言い出したのは、クリスだった。言い出したのはクリスだったが、言わせたのは自分だ、とキースは自覚していた。
 逃げ道を作らなければ、あと一歩を踏み込むことは出来ない。
 言わなくても、クリスにはわかっていたのだろう。それなら、とひどく穏やかな、でも今にも泣きそうな顔をして、クリスは言った。
「それなら、大学の四年間でいい。その時間を俺にくれ。俺に付き合って、ゲームをしてくれ」
 四年間で終わる、恋愛ゲーム。その後は、何もなかったようにまた友人になればいい。
 そんなことが出来るかどうかは関係なかった。ただ、クリスにとっては最後の賭けだったのだろうと思う。大学を出てしまったら、それこそもうチャンスはない。ゲームさえも、出来ないだろうから。
 そんなことは、キースが一番良くわかっていた。自分が家に我侭を言えるのも、大学までだ。何度も家に来ていたクリスはそれを知っていて、そんな条件を言ったのだろう。
「だって、俺たち互いに想ってるだろう?それなのに、未来の別れることを恐れて思い出さえ作らないなんて俺は嫌だ。このままでも、恋人になっても、四年後は友人だ。それは変えない。だから、俺を愛してくれ。四年間、たっぷり愛してくれ」
 そうしたら、それを思い出に生きていくから。
 クリスは、笑っていた。逃げていいから、それでもいいから、自分を愛せといったクリスに、キースは言葉では答えずに、口付けをした。それが、始まりの合図だった。
 一度も言っていない、言葉がある。ねだられたこともない。
 でも、クリスから何度も言われたその言葉に、自分は埋もれていく。
 だから、その威力を知っているから、キースは決して口にしない。
 言わないことが、まるで証のようだった。
 愛しているから、言わない。
 別れのときに、辛くないように。
 混み始めたバスの中、隣で女の子が一週間の歌を歌っている。月曜日は学校に行き、火曜日は買い物に、水曜日はお休み、木曜日はまた学校へ、金曜日はお友達のお家に、土曜日はお散歩に、日曜日はおばあちゃんのお家に行って、ほらまた月曜日。
 何度も、何度も、時々次の曜日を忘れては母親が助け舟を出して、繰り返し歌っている。
 見慣れない景色はゆっくりと後ろへ流れていき、日はあっという間に消えて、深い青が空気を染め始めていた。
 一年なんてあっという間だ。
 気付いたら、もう三年経っている。あの、ゲームが始まった夕方から。
 クリスは後悔していないのだろうか、とキースはその景色を眺めながら思った。このゲームを、始めてしまったことを。


 マンションの玄関でインターフォン越しに名乗ると、沈黙の後に扉が開いた。帰宅していたことに、がっかりしているのかほっとしているのか、キースにはわからなかった。
 ゆっくりとしたエレベーターの中で、少しの間目を瞑る。言うべき言葉も、するべき表情もわからず、自分が戸惑い始めているのがわかった。
 クリス相手のときは、いつもそうだ。どうしたらいいのかわからない。余裕なんてものは遥か彼方に行ってしまって、途方にくれた顔をしていることの方が多い気がする。
 ため息とともに、ふわりとした浮揚感を感じた。ゆっくりと開く扉をそのままに、帰ってしまおうかとも思った。
 軽く頭を振って、廊下に出る。角のクリスの部屋の前で、もう躊躇しないように、何も考えずにベルを押した。
「キースから来るなんて珍しいね」
 クリスは普段着にさらりと髪を流したまま、にっこりと笑った。二週間と二日前と変わらない、柔らかい笑顔だ。
 キースから来るのは珍しい、というのは、「こういうときに」という状況付きの話だ。喧嘩をしても、大概はクリスがキースを捕まえる。謝りもしないことが多いが、いつもの笑顔に全てを忘れた振りをするのが暗黙の了解のようになっていた。
「俺もそろそろ行こうかと思ってたところ。本当はもっと早くに連絡したかったんだけど、仕事が立て込んでて」
 クリスはそう言いながら、キッチンに向かった。それを、キースが後ろから抱きかかえる。びくり、とクリスの身体が嘘ではなく震えたのがわかった。
 緊張していたのだろう、とキースは冷静に思った。こんな状況でキースからクリスの元に来て、性急な仕草をして。自分だって驚いているのだから、クリスが驚くのも無理がない。
「キース」
 掠れた声が聞こえたが、キースはそのままずるずるとクリスをベッドルームに引っ張った。身長は変わらないから、かなりの重労働だが、途中からはクリスも正気を取り戻したのか大人しく歩いていた。
 ベッドの上に二人で倒れこむと、キースはクリスを下にして、その眼をじっと見つめた。灰色がかった緑色の瞳が、かすかに揺れていた。
「キース……」
 戸惑ったようなクリスの声がする。でも、キースはその唇ではなく、眼を舐めた。突然のことにびっくりしたクリスは思わず眼を閉じたが、瞼の上からその形を確かめるように舐めまわすと、うっすらと眼を開けた。
 この驚くほど美しい瞳を、取り出して仕舞いこんで置きたい、とキースはいつも思う。でも、それはここに嵌っていなければいけないパーツで、取ってしまったら、その輝きは消えてしまうということはわかっていた。
 ぺろり、と舐めると、瞼が震えた。痛いのだろう、ぽろりと涙が流れるが、それさえ美しく、キースはまた舐めたくなる。でも、いつも一度だけと決めていた。
 ぱちぱちと、何度か瞬きが繰り返される。それを見ながら、今度は唇を重ねた。ぴちゃぴちゃと、わざと音を立てながら何度も角度を変えて口付けているうちに、クリスが身を捩った。頭を抱えていた手は首筋に落ちていき、誘うように撫で上げる。それに逆らうことなく、キースもクリスのグレーの光沢のあるシャツの中に手を入れた。するりとわき腹を撫でると、鼻が鳴った。
「キース……」
 艶やかな声がして、自らズボンのチャックを下ろし、そのままキースのズボンにも手を掛けたクリスは、ゆっくりと満足そうな笑顔を見せた。天真爛漫、と言われることさえある顔が、淫蕩な色に染まる。
「舐めたい」
 囁かれて、キースは小さく息をつきながら身を起こした。ベッドヘッドに寄りかかると、うっとりした顔で、クリスがキースの中心を撫でた。それから口を近づけると、先端から元へとつつっと舌を這わせた。何度かそうして、うめき始めたキースを上目遣いに満足げに見ながら、クリスは今度はそれをぱくりと咥えて、舌と唇と口の中を目一杯使って愛撫した。
「クリス……跨がれ」
 キースの掠れた声に喉の奥で笑うような声を出して、クリスがキースに跨って下半身をキースに向けた。キースはそこにゆっくりと跡がつくようにキスをすると、サイドボードからジェルを取り出してそれをたらり、と垂らした。突然の冷たい感触に、クリスの身体が跳ねる。それに構わず孔に垂らしたジェルを指で塗りつけると、つぷり、と突き刺した。白い身体が震えるように揺れた。ゆっくりほぐしていくと、膝で支えていた足が、がくがくと揺れた。
「欲しい。入れるよ」
 クリスが切羽詰ったような声を出す。キースはそれに答えるように指を抜いた。
「ふうっ……あっ」
 さっきとは反対向きに跨って、クリスが身を落とすと、気持ち良さそうに笑った。その頬に指を滑らせると、瞳がすぐに切なそうな色を映す。
 優しい愛撫は、愛されてることを実感して切ない。
 それは、キースもわかっていた。だから、滅多にしない。
「うんっ、あ、あぁっ、い、キー…ス」
 ゆっくりと、掻き回すように腰を揺らめかせると、クリスがのけぞった。その腰をするりと撫でながら、中心に手を伸ばすと、がくりと首が前に倒れてきた。
「クリス」
 囁きに、頭をふるふると振っている。聞きたくないのか、良いと言っているのか、表情が見えないキースにはわからない。名を呼ぶと、滲み出る愛しさが切なさを倍増させる。
 言ってしまいたい。
 あの言葉を、囁いてしまいたい。
 キースはぎゅっと眼を閉じて、クリスを押し倒すと、一息に突き上げ始めた。快感に、全て任せてしまう。いつも、そんな風にしかできない。その代わり、キースが言わない代わりに、喘ぎながらクリスは何度もその言葉を口にする。
「はぁ、あぁ、イイ……キース、キース、愛してる……」
 こんなに近いのに、身体も心もぴったりと重なっているのに、どこか二人は遠い。重なり合うとは、混じることが出来ないということだ。それぞれが個別の物体でなければ、重なることは出来ない。それがどれだけぴったりでも。
 個別だから、重なり合う。そして、別れられる。
「クリス……」
 どうして、交じり合ってしまわないのだろう。
 溶け合ってしまえば、分けることなどきっとできないのに。
「キース、キース」
 瞼を舐めると、クリスの中がきつく締まった。噛み付くように口を広げて、そこにキスをするように唇を押し当てて舐めまわす。
 そこに、自分の残像を焼き付けることが出来たら。
―――そうしたら、俺は二度と目を開けないよ。流れ出ないように、泣くこともしない。
 冗談のように、そう笑ったクリスを思い出す。
 ふっと目が開いて、小さな小さな自分が見えた。それを見つめるようにしながら揺れを激しくすると、喘ぎながら、クリスはそれでも視線を逸らさず、目を閉じることもなく、二人はずっと見詰め合ったまま果てた。
「まだあと一年、あるんだよな」
 荒い息の下、掠れた声で、クリスが独り言のように言った。
「ああ、まだ閉じるな。まだ、その眼は開けておけ」
 まだ俺は焼きついていない。
 キースがそう言うと、クリスはゆるやかに笑って、その瞳を潤ませた。

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