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ゲーム


bonus stage

02
 大学近くのカフェでヨシュアを見つけて、キースは帰りかけた足を止めた。まだ日があれば外でも温かく、テラスでヨシュアはビールを飲みながら本を読んでいた。
「サキ待ちか?」
 声をかけると、眩しそうに顔を上げた。どうぞ、と隣の席を指されて、これから何か用事があるわけではなかったキースは、大人しくそれに従った。
「珍しいな。外で待ってるの」
 キースはやってきたウエイターに自分もビールを頼んだ。
「待ってないよ。今日は振られたんだ。誰かさんのせいで」
 クリスかと思ったが、責められているのは自分のような気がして、キースは眉根を寄せた。ぱたり、と栞も挟まずに読んでいた本を閉じたヨシュアは、少しだけ機嫌が悪い。考えてみても思い当たるものがなく、口を開きかけたところで、ハーフグラスに注がれたビールが目の前に置かれた。
「俺は別にサキと約束なんてしてないぞ」
「おまえじゃない。クリスだ。でも、元を辿ればおまえが悪いんだろ」
 どう言うことだ、とキースは思ったが、下手に口にするのは避けた方がいい気がして、ビールに口を付けた。昼間の光に金色が輝く。
「何やってんだ、おまえは」
 呆れたような、それでいて責めているような口調に、キースが片眉を上げて見せると、ヨシュアは大げさにため息をついた。
「クリスが荒れてる。仕事にまで支障きたしたのは初めてだ。そんな原因なんておまえぐらいしかないだろ。いつも出る講義にも来ないからサキにばれて、今日はクリスのところに行くって言われたんだよ」
 一緒に映画を見る約束だったのに、と不満そうなヨシュアは、少しだけキースを探るような目をしている。
「仕事に支障って?」
「まず顔色が悪い。まともに食ってないか、飲んでばっかりって感じだな。何があっても体調も体型も崩さなかったのに、少し痩せた」
 キースはため息を誤魔化すようにビールを飲んだ。ここのところ研究に時間を割いていて、会っていない。クリスも仕事が忙しいからといっていたのに、どういうことだろうと思う。電話越しでは、全くいつもと変わらなかった。
「その様子だと知らなかったってところか。まあ、会ってればおまえならすぐに気付いただろ。一体何なんだ?」
「知らないよ。忙しくて会ってないけど、電話で話す分にはいつも通りだ。忙しいのはお互い様だし、二週間ぐらい会わないことなんて良くあることだ」
 その状態では、クリスは自分に会おうとしないだろう、とキースは思った。三日前の電話を思い出す。一瞬の沈黙の後、仕事があって出られない、残念だ、と笑った声。屈託なく、明るい、澄んだ声だった。
 ゲーム終了までまだ数ヶ月ある。一年、と言っているが、四年生が終わるまでなら、もう十ヶ月ない。でも、まだ終わらないのだ。だから、クリスは絶対にそれを放棄することはない。ゲームがゲームでなくなったら、終わってしまうことを、クリスはわかっている。
「ヨシュアは、ずっと写真をやるのか?」
 キースはふいにヨシュアに聞いた。ヨシュアが、無表情にキースを眺める。それからふっと息を吐いた。
「それか原因は」
「何が?」
「とっくに振り切ったか解決したんだと思ってたけどな」
 出来るものならしている、とキースは声に出さずに思った。ふっと視線を逸らすと、小さな黒い犬が目の前を横切った。後ろから、ずいぶん年を取った飼い主だろう老婆が歩いている。時おり、その犬は飼い主を心配そうに振り返った。
「俺は写真を続けるよ。幸運なことに、俺には兄貴がいる。大学に行かないって言ったときから、親は諦めたみたいだった。そのときは、別に家に戻ってもいいと思ってたんだけど、でも、今は写真も、今の生活も、大事だから」
 ふっと柔らかくなる顔に、キースは知らず嫉妬した。自分がそんな顔を出来ないことにではなく、相手にもそんな顔をさせてやれないことに。
「婚約者でも湧いて出たか?」
 その言い様に、キースはふっと笑って頭を横に小さく振った。
「大学は?四年ですっぱり研究もやめるのか?」
「さあ……。道楽は許されてるからな」
「おまえ、まさかクリスのことも……」
「違うよ」
 きっぱりと言って、でもクリスはそう望んでいるのかもしれない、とキースは思った。道楽でもいいから、とクリスなら言うかもしれない。そうして、決定的な言葉も気持ちも貰えずに、でもキースを信じて自分には愛していると囁く。でも、それでは自分が許せない。もうこれ以上、あの綺麗な瞳を汚すことも曇らせることも許せない。
「それならいいが……。でも、おまえにあれは似合わないぞ。年取ったらそれもいいかもしれないが、見世物の人形みたいなものじゃないか」
「本人前に言うか、そういうこと」
 だから似合わないと言ってるんだ、とヨシュアは真剣な口調で言った。
 人形とはきついことを言ってくれる、とキースは内心苦笑していた。ヨシュアも何度か自分の父を見たのだろう。確かに、両親と自分では天と地ほどの差がある。
 元貴族出身のキースの家は、夜毎に行われるパーティーや食事会に出席するのが仕事のようなものだった。いくつかの会社の重役に名も連ねているが、それはほとんど名を「貸して」いるようなもので、その貸し賃、膨大な遺産とその利子で暮らしていた。
 名を貸している会社グループは、その名を宣伝材料にもしている。だから、パーティーなどに出ることは重要なことだった。でも、それだけだ。
 問題なのは、きっと自分の家なのだろう、とキースは思っていた。もう実体のないタイトルに必死でしがみつき、でもそうしてやっていけてしまう現実。傀儡のように使われて、それに気付いていない歴代の当主たち。汗水流して働くことは、自分達の役割ではないと信じて疑っていない。
 婚約者は確かにまだ現れてはいないが、そろそろそんな話が出てもおかしくなかった。もしかしたら、自分にはまだ話が来ていないだけで、勝手に進んでいる事だって考えられる。
 大学の研究は、娯楽として認められるだろう。今のように寝食忘れて没頭することはできなくとも、趣味の範囲なら。
 今のキースに課せられていることは、ただ一つだ。
 後継ぎをつくること。
 血を絶やすことは、絶対に許されない。
「本当に、あの後を継ぐつもりなのか」
「継ぐつもりなんじゃない。もう、継いでしまってるんだよ」
 生まれてしまったのが始まりなのだ。この血を、持ってしまったことが。
「おまえらしくないな。ったく、人のことには真剣になって考えるくせに、自分のことは何で諦めてるんだ」
「諦めきれてもいない……だから、あいつを苦しめるんだろ」
 ぬるくなり始めたビールを、ごくりと流し込む。苦味が口の中で広がって、キースはかすかに眉を寄せた。
「わかってるじゃないか。おまえはいつだって、わかってるのに何もしない」
 ヨシュアの非難に、キースは顔を歪めて笑った。
 臆病だと、また言われてしまうのだろうか。
 高校生のときに、言われたように。
 クリスの気持ちを知りながら、何もせずにいた自分に、ヨシュアやサキが言ったように。
「何かをしたら……終わっちゃうかもしれないじゃないか」
「弱気だな」
「俺はいつでも弱気だよ。これに関しては」
 キースが苦笑すると、ヨシュアもわからなくはないけどさ、と笑い返した。ヨシュアも、サキに対してはさんざん弱気だったのだ。いや、たぶん今でも。ふとキースは思い出して、ヨシュアをちらりと見た。
「おまえも、だろ。人のことより自分達だって大変じゃないのか?」
「何が?俺たちは幸せだよ?」
「こっちが不幸みたいな言い方するなよ。少なくとも俺たちは、欲求不満が原因じゃないさ。……おまえたち、まだやってないだろ」
 にやりと笑ってやると、珍しくヨシュアが固まった。
「確信もった言い方だな。なんで知ってる?」
「クリスからサキっていう一方通行の情報網じゃないってことさ」
 まあ見てるとわかるけど。そうもう一度笑うと、ヨシュアが渋い顔をした。
「最近は触れるたびに二人で緊張してる気がする。怖がってる?」
「ああ。但し、サキじゃなくて俺が、だけどな」
「おまえが?ふうん、なるほどな」
「何が、なるほどなんだ」
「俺たちどっちも臆病ってことだ。まあ、受け入れる方がよっぽど勇気が要るだろうから、あっちの方が俺たちよりずっと強いのは確かだろう」
 参るよな、と呟くように言うと、ヨシュアがふっと笑ったのがわかった。
「なるほど。じゃあ俺も襲われてみるかな」
「誰に」
「もちろんサキだよ」
「なんだ。俺ならいつでも相手にしてやるぞ?」
「……冗談きつい」
「言っとくけど、サキよりは上手くやる自信はある」
 そこまで言って、ヨシュアの嫌そうな顔にキースは笑った。
「まったく。だから写真は本性が出るって言うんだ。おまえが真面目な格好をしてるのは、それを隠すためだってつくづく思うよ」
「隠してなんかいないじゃないか。これはね……利用してるっていうんだ」
 ストイックな雰囲気をしながら、甘く誘いをかけたりすると、大概の人間は落ちる。その遊びは滅多にしないが、ときどきゲームのアイテムのようにして、キースは女を抱くときがあった。それは、自分を戒めているのか、クリスに見せ付けているのか、自分でもわからない。
「おまえ……それサキに言ったら嫌われるぞ」
「それは困るな。泣き場所がなくなる」
「相手間違えるなよ。おまえにはクリスがいるだろ」
 クリス相手に泣けるなら、今ごろ悩んでいない。キースはそう思いながら、苦笑しただけだった。サキ相手に泣いているわけでもないが、少しだけほっとする相手ではある。クリスが懐くのもわかるくらい。
 今ごろ、そうやって少しはサキがクリスを慰めているだろうか。
 そう言えば、自分もクリスが泣いているところをベッド以外で見たことがないかもしれない、と思って、キースは自嘲の笑みを零すしかなかった。


 サキから電話が来たのは、その夜のことだった。ある程度は予測できたことで、キースはブランデーを舐めながら声に出さずに笑った。
「クリスのところには直接行って、俺には電話なの?俺も慰めて欲しいんだけど」
『……どうして?』
 サキの言葉に、そう来るか、とキースは呟いて、少し考えた。
「クリスはどうやら俺には甘えてくれないらしいから、って言ったら許してくれる?」
 ずるいことを言ってる、とクリスなら怒るだろう。クリスが甘えないのではなく、自分が甘えさせていないとキースはわかっている。
 サキの微かなため息が電話越しに聞こえた。
『俺、何がどうなってるのか少しもわからないんだけど』
 クリスもないも言わないし、キースはそうやって誤魔化すし、と続ける。
「俺たちも、わかってないんだ。だからサキにわからないのも無理はない」
『本当に、キースたちがわかってないならそれでいいけど、そうじゃないから電話してるんじゃないか。キース、クリスに会った?』
「お互い忙しくてね。電話では話してるけど」
『それで?』
「……クリスはいつも通りだよ。なんだサキ、今日は厳しいな」
『それだけクリスがやばいって、思わない?』
「だいたい、クリスはそれを俺に言うなって言わなかったか?」
『なんでそんなことわかってるんだよ。何、一体』
「だから、クリスは俺には甘えてくれないんだって」
 それで拗ねてるから慰めてよ、と言うと、サキは今度は大げさにため息を受話器に吹き込んだ。
『甘えないんじゃなくて、甘えさせないんじゃないの?』
 雲行きが怪しくなってきて、キースは手にしていたブランデーを舐めながら目を眇めた。いつもなら探ってみて、二人が話しそうにない、とわかると突っ込まないサキが、今日は引かない。サキの言うように、それだけクリスがおかしかったのだろうか、とキースは軽く唇を噛んだ。
「俺を慰めてくれる気はないのか……サキが駄目ならヨシュアに頼もうかな」
『キース、誤魔化すなよ』
「昼間、不機嫌なヨシュアに会ったんだ。あいつにも責められてさ、俺はぼろぼろ」
『キースッ』
「サキ達だって問題抱えてるんだろ?聞いたら、あいつの方が怖がってるって言うから、だったら抱かれてみるか、って話になってさ。それなら俺がって言ったんだよ」
『何考えてる』
 サキの声が低く響いて、キースはさすがにふざけ過ぎたと口を噤んだ。ふざけたと言うより、話題を逸らそうと必死なのだろう、と自嘲する。
『俺たちのことはいいよ。大丈夫。根本的に問題なんじゃないから。でも、キースたちは』
「サキ」
 呼びかけた声が、我ながら弱々しいと思って、キースはこっそり苦笑した。逃げ回るだけの臆病者は、やはり逃げることしか出来ない。
「クリスを好き?」
『何?急に。クリスも、―――キースも、大切な友達だと思ってるよ』
「それなら、クリスが大切なら、傍にいてやってよ。俺じゃ、駄目なんだ」
『何それ?』
 ゲームを続行するためには、今状況を変えるわけにはいかないのだ。
 真剣に話し合ってしまったら、終わりだ。
 そのときには、キースは答えを出さなければならない。でもそれは、ゲームの終了を意味する。
 クリスがそれを望まないのだから、キースはそれに答えるしかない。そして、そのためには、今のクリスのことを知らない振りをするしかないのだ。
 答えは決まっている。
 そしてそれは、決してクリスの望むものではないと、キースはわかっている。
『キース、一体何が……』
「サキ、一週間後に会いたいと、クリスに伝えてくれるか?」
『自分で言いなよ』
「クリスが嫌がるから。頼むよ。それで、出来ればその間傍にいてあげて」
『変だよそれ。それでキースはいいわけ?知らないよ、俺とクリスで浮気しても』
 サキらしからぬ物言いに、キースは笑った。結局、サキだって切羽詰ってきてるんじゃないか、と同情もした。
「欲求不満なら、俺のところに来な。たっぷり満足させてあげるから」
 電話の向こうで、絶句したのがわかる。
『……おまえなあ』
「ヨシュアに、俺にそう言われたって言っとけ。それでも駄目なら、本当に来ればいい。ヨシュアより上手い、と思うよ」
『キース』
 呆れたサキの声がする。それにくすくすと笑うと、伝えておくから、とサキが怒った声で言った。
「悪いな、そっちも大変なときに」
『それはいい。ねえ、これだけ聞かせて』
「なに?」
 笑ったままの声で聞きながら、質問が予測できて、キースは勘弁しろよ、とサキに祈った。
『クリスのこと、好きだよね?大事、だよね?』
 言えない言葉があるのだ。たとえそれが真実でも。
 真実だからこそ、言えないのかもしれない。
 俺は馬鹿みたいに純情じゃないか、とキースは思った。ゲームだから、言わない。ただのアイテムではないのだ。
 まったく、とキースは自分に苦笑した。その雰囲気を察したのか、サキの戸惑った声が聞こえた。
『キース?』
「ん?」
『クリスのこと、ちゃんと愛してるよね?』
 サキの真っ直ぐな言葉は、くすぐったい。そんな風に、ヨシュアにも愛を語るのだろうか。
 そう思いながら、キースは自嘲に似た笑みを止められなかった。
 臆病で、複雑で、ずるくて、それなのに純情を気取る自分が、とてもおかしかった。
「そんなこと、サキにだってもったいなくて言えないよ」
 甘い声で囁くように言うと、サキが電話の向こうで赤くなるのが想像できた。


 一週間で、クリスはきっと体調を無理やりでも元に戻すだろう。そして、何もなかったように、二人はまた日々を過ごすのだ。あと、少しの間だけの、儚いと言うにも脆すぎるような、そんな日々を。
 電話を切ってから、キースは壁に寄りかかって天井を見上げた。
 苦しいばかりだ、と思った。
 迫り来る未来と、去っていく今と、結晶していくだけの過去と。
 その全てに、どうやって折り合いをつけていくのか、キースは自分でも、わからなかった。


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