gravity
01
時計の針が七時を指そうとしたところで、陽(よう)はむくりと起き上がって、目覚まし時計の頭を押した。本当ならば、ジリリリリ、ともの凄い音が響くはずが、その音があまりに大きく凶暴なので、陽は怖くて、目覚ましが鳴る前に起きることが多い。とても心臓に悪い、けたたましい目覚ましなのだ。
時計の頭を押さえたまま、陽はしばらく布団に突っ伏していた。起きなくてはいけないとわかっていても、後十分、後五分、となかなか起き上がれない。もともと余裕を持って目覚ましを設定しているから、三十分ぐらいはなんとかなる。
だったら最初からその時間に起きるようにすればいいのに、と言われたこともあるが、それでは心配なのだ。
十五分後には、お気に入りの映画のサントラがプレーヤーから流れる。ゆったりとした、静かで穏やかな曲だ。それをぼんやりと聞きながら、枕元に置いてある携帯電話で正確な時間を見て、陽はようやく起き上がった。
CDを止めて、首を傾げる。携帯には、留守電のメッセージが残っていた。とりあえずと持っているだけで、滅多に活躍の場がないのが陽の携帯だ。残された番号も、見覚えのないものだった。
夜中のうちに、何度か掛けて来たらしい。二時から二時半にかけて、五件の着信が合った。その最後に、メッセージを残したらしい。心当たりはなかったが、陽はとりあえず、そのメッセージを聞いてみることにした。
『おい、木室! すぐに連絡を寄越せ。今すぐだ! こっちは徹夜で準備してるんだぞ。遊んでんじゃねえっ』
もの凄く大きな怒鳴り声に、陽はコーヒーを淹れようと出したカップを落としそうになった。今朝はせっかく目覚ましの音を阻止したと言うのに、それに負けない位凶暴な音を聞いた気がする。
「なんだよこれ……」
心臓がどきどきしている。とにかく、怒鳴り声とか大きな音が嫌いなのだ。
もう一度、今度は耳から離して聞いてみる。驚きすぎて、きちんと聞くことができなかったのだ。
木室なんて知らない、と陽は眉根を寄せた。間違い電話だ。
コーヒーメーカーをセットしながら、どうしようかと迷った。少なくとも、相手はその木室とか言う人間に、緊急に連絡が取りたいらしい。間違っていると一言言うだけでも――そう思って、首を振った。知らない人間に向かって、自分がきちんと説明できるとは思わない。もしまた掛かってきたら考えよう。陽は自分にそう言い聞かせて、コンビニの袋から、メロンパンを取り出した。
陽の一日は、毎日変わらない。アパートから電車に乗って勤務先の図書館に行き、ほぼ日がな一日蔵書録を作る。特別な予約などがなければ、六時には閉館になり、また電車に乗って部屋に帰ってくる。その繰り返しだ。
お金持ちの老人の遺言で作ったというその図書館は、中世ヨーロッパを中心とした書物を扱う、少し変わった図書館だった。図書館の名を松館(まつだて)図書館と言う。近所では、「まつかん」と愛称で呼ばれているが、その蔵書が特殊なために、図書館そのものはほとんど利用されていない。だが、地域と全く繋がりがないのは残念だと、ちょっとした庭と会議室などを貸し出すことはある。
蔵書の主なものは生前老人が集めたもので、歴史書から美術書、聖書関連の書物、中世文学などが海外のものまで揃っているので、お客さんは大学の教授や院生、中世研究家などがほとんどだった。それに時々、作家などが訪れる。維持費は、運送業や輸入産業など手広く展開している松館家から出ており、それにささやかな寄付金が加わる。寄付金のほとんどは、新しい本の購入に当てられていた。
新しく購入する本を決めるのも、陽の仕事だ。そもそもこの図書館には、司書である陽と、アシスタントともいえるパートの女性が一人いるだけだった。利用者も一日二桁いれば良い方だから、人手は充分だった。
駅から歩いて十五分の、閑静な住宅街に松館図書館はある。陽は毎朝、月曜日と木曜日を除いて、九時十五分前に門と図書館の扉を開ける。軽く玄関とカウンターを掃除してから、一杯のコーヒーを淹れる。
ずいぶんと色づいた庭の欅を眺めながら、陽は今日一日の目標を考えた。まず、なかなか終わらない十三世紀関連のリストの打ち込みを進める。出来たら、半分ぐらいまでは終わらせたい。たぶん今日辺り、大学教授の神沢先生が来るはずだから、地中海世界の貿易関連の本もピックアップしておこう。入ったばかりの本を、メーリングリストで流すことも忘れてはならない。
大人になっても人見知りが激しく、初対面の人間と話すときは緊張にまともに話すことが出来ない陽にとっては、この仕事はまさに天職だった。大学の先輩から話を聞いたとき、司書の資格を取って置いて良かったと、自分を誉めたくらいだ。
生前、松館老が書斎代わりに建てたというこの館は、明治頃に良く見かけた、和洋折衷の瀟洒な建物だった。磨かれて艶やかに光る木の柱は美しく、高さを贅沢に取った空間は気持ちが良い。陽にとってここは、ひどく心地の良いものだった。
神沢と思ったより長話をしてしまい、陽が帰路についたのは八時近くになっていた。話をしたといっても、教授が語る地中海貿易についての話をただ聞いていただけだ。だが、どんな船でどんな人間が、どんな風に商品を運んでいたのか、色々な図版も交えて説明してくれる教授の話は、とても面白かった。
帰ってから食事を作るのが面倒だった陽は、途中のコンビニエンスストアで、弁当を買った。料理をするのは嫌いではないが、作るのも自分ならば、食べるのも自分だけだ。大学時代から七年、ずっとして来たことだったが、ときどき、ひどく面倒に思う。
コンビニで温めてもらった弁当をがさがさ言わせながら、暗い道を一人歩く。朝なら挨拶をし合う猫もいなくて、下を向いたまま足を動かすことに専念していた陽の鞄の中から、突然携帯が鳴った。思わず、立ち止まってしまう。
慌てて取り出してみると、今朝の間違い電話の主らしい番号が表示されていた。陽はしばし迷って、思い切って通話ボタンを押してみた。
「木室おまえなあ! 何回電話してると思ってんだ。どこにいるんだか知らないが、帰って来いっ。無責任にもほどがあるぞ。大体、おまえはいつもふらふらとどこかに消えやがって――」
朝と変わらない怒声が、薄暗い道に響いた。
「あ、あのっ」
相手は切れ目なく何か言っていたが、陽は緊張で聞いている余裕がなかった。とにかく思い切って、声を出してみたのだが、途端、しんっと先刻の怒鳴り声が嘘のように静まり返った。
「え、あの……」
恐る恐る呟くと、相手が息を呑む気配がした。
「あの、そちらは木室直の携帯電話ではないのでしょうか」
まるで別人のような、落ち着いた声がした。陽は首を振りながら、「ち、違います」と返した。
「申し訳ないのですが、番号は……」
陽は自分の携帯番号を覚えていない。ちょっと待ってください、と鞄から手帳を取り出して、アドレスページを開いた。
言われた数字は、確かに陽の携帯の番号だった。相手が一瞬息を飲んで、絶句した。
「申し訳ない。間違えました。本当に、申し訳ない」
それから、ひどく恐縮して、何度も何度も謝った。陽は小さい声ながらも「気にしないで下さい」と言ったのだが、相手はそれでも謝った。
声の調子や話し方から、割と大人の、がっしりした体型の人なのではないか、と陽は想像した。その人が、携帯に向かって何度も、小さくなって謝っている姿がふいに浮かんできて、仕舞いには、陽もくすりと笑ってしまった。
「本当に、お気になさらないで下さい。夜中も日中も、電源切っていることが多いので、気付いたのも後でしたし」
相手の男が気にしていたのは、夜中の電話と、しつこいほどに掛けたことだったらしい。その上怒鳴ってしまって、なんとお詫びをしていいのか。男は真摯な声でそう言った。
陽には、それだけで十分だった。別に怒っていたわけでもない。笑った気配が伝わったのか、男はようやく納得したようだった。最後にもう一度、迷惑を掛けたと謝罪して、電話は切れた。
途中から歩き出していた陽は、電話が切れたときにはアパートの目の前にいた。ただの間違い電話だったのに、最後に笑ったせいか、なんとなく胸の内が温かかった。この携帯電話で家族以外と話したのは、ひどく久しぶりのことだった。
そんな風に家に帰り着くと、ひんやりと静かな自分の部屋がひどくよそよそしく感じられた。陽は明かりをつけ、弁当をテーブルに置き、キッチンで手を洗った。テレビをつけるとようやく、自分の部屋なのだと安心した。
お湯を沸かして、お茶を淹れる。茶類やコーヒーは夏でも温かいものしか飲まない陽は、粉末の手軽なお茶を常備していた。味そのものには、あまり拘らない。
弁当は、冷めてきていた。でも、温め直すほどではないと、食べ始める。ご飯は熱々がいいが、漬物が温かいのはいただけない。だから、生ぬるいくらいが一番いいのかもしれなかった。
スタンダードな幕の内弁当が、陽のお気に入りだ。切り身の鮭を解して、ご飯と一緒に口に含む。
本当に美味しいと感じるかどうか、その温度は部分的な要素でしかないと、陽は知っている。
――そりゃあ、一人で食べたらつまんないし、美味しくないに決まってるじゃない。
昔、大学時代に少しだけ付き合った彼女は、そう言っていた。陽は一人でいるのも好きだし、と思ったのだが、言い返したりはしなかった。とても気が強かった彼女は、反論などしたら、後で宥めるのが大変だったのだ。
それに、いつも彼女は正しかった。
懐かしいな、と陽は彼女の笑顔を思い出した。自信満々で、少し悪戯な目で笑う彼女が、好きだった。いつも陽を引っ張ってくれて、とても助かった。
だから、彼女が陽を頼りなさ過ぎると振ったのは、当たり前だと思う。両親の不仲を悩んでいたことは知っていたのに、陽は少しも力になれなかった。力にはなりたかったのだ。だが、おろおろするばかりで、どうしたらいいのか、わからなかった。
今だってきっと、どうしたらいいのかわからないだろう。
そのことがあってから、陽は結婚をして家庭を持つという夢を半分諦めていた。夫や父として求められるもの――安定感や安心感――を与えられるとは、到底思えなかったからだ。陽の性格を良く知っている家族も、陽よりよほど早くに、諦めていたようだった。陽とは正反対の性格の姉などは「今更気付いたのー? よっぽどの世話好きの物好きじゃないと、あんたの相手は無理だと思ってたわよ。ま、あんた一人なら、私が少しぐらい面倒見てやってもいいから、焦らないことね」と言ったほどだった。
弁当を綺麗に食べて、陽はお茶を啜った。空になったビニールのトレイに、テレビの乾いた笑い声がぶつかっていた。
間違い電話の主の番号を消さなかったのは、なんとなく、だ。滅多に着信はないから、ずらっと一面その番号が並んでいるのがなんだか可笑しい。必死だったんだな、とすぐに間違いを伝えなかったことを陽は申し訳なく思った。
何度も謝った男の声が思い出される。それから、彼の謝罪を聞いているうちに、どこか自分も落ち着いて、見知らぬ相手だというのに、きちんと自分の気持ちを伝えられたことを思った。いつもあんな風に出来たらいいのに、と。それなら、もう少し人と楽しく話が出来そうだ。
「何かいいことでもあったんですか、牧谷(まきや)さん」
パソコンの画面をぼんやり眺めていた陽に、パートの花江が声を掛けた。陽はすっかり手を止めてしまっていたことに気付いて、慌てて顔を上げた。
「え? いいことですか? 別に何も……」
「そうなんですか? いえ、楽しそうというか嬉しそうな顔をしていたから」
花江は母親と同じ位の年だが、陽の母親よりずっとおっとりとした人物だった。陽よりずっと長くこの図書館に勤めているが、余計な口出しなどはしない、だが手伝いは快く引き受けてくれる、とても仕事のしやすい相手だった。少し暗くなりがちな図書館内に花や鉢植えの木などを配してくれたのは、彼女だ。
ときどき居心地が悪いと言うか、照れるような気分になるのは、彼女が自分を息子のように扱うときだった。
「そ、そうですか?」
ええ、と嬉しそうな顔で頷かれて、陽は自分の顔を撫でた。少し疲れた目を休ませようと、眼鏡を取って眉間の辺りを撫でたりしてみる。
「彼女でもできました?」
古い本の修繕をしている花江は、大きなテーブルの、陽の斜め前に坐っている。ふっくらとした手で、丁寧に本の埃を払っていた。
「え? いや、できてないです」
花江がそう言った話題を振ってくることは珍しい。町内会の催しで庭など貸すときは、おしゃべりな女性達に捕まって必ず訊かれることで、そんなとき、陽はとにかく困るだけだった。
「あら、ごめんなさいね。ちょっとそんな表情だわって思ったものだから」
一体どんな表情だったのだろう。陽は花江の横顔から視線を逸らして、俯いた。
「本当にごめんなさいね。牧谷さんがプライベートに踏み込まれるの、嫌いだって知ってるんだけど。ただ、あまりそう言った明るい顔を滅多に見ないから、私も嬉しくなって」
言われた言葉は、どれも陽を驚かせた。プライベートを話すのは確かに苦手だが、それはそもそも話をすることが苦手なのと、自分の私生活など話すほど面白くないと思っているからだ。それに、そんなにいつも暗い顔をしていたのかと思うと、心苦しかった。そんな相手と顔を合わせて仕事をするなど、苦痛なだけだ。
「すみません……」思わず謝ると、花江がきょとんとした顔で陽を見た。子供のような表情が、不思議と似合う人だ。
「あの、俺と仕事では、つまらないでしょう?」
そう言うと、花江は「ああ」と顔を綻ばせた。
「そんなことありませんよ。そう言うつもりじゃなかったんです。牧谷さん、仕事は丁寧だし一所懸命だし、穏やかだから、私にはちょうどいいの。前の諒子ちゃん、すごくてきぱきして元気一杯だったでしょう? 私じゃお手伝いしきれなくなるわあって思ってたのよ」
元気なお嬢さんは見ていて楽しいけれどね、と花江は微笑む。
確かに、ここを紹介してくれた前島諒子という先輩は、大学時代から強烈だった。やりたい、と思ったらすぐ行動の人で、周りは着いていくだけで精一杯だった。陽など、端からそのペースに着いて行くのは諦めていた。
「前島先輩、動いてないと気がすまない人でしたよね。どうしてこの仕事をしていたのか、結構不思議でした」
「あら、諒子ちゃんは、あれでも中世仏文学専攻でしょう? もともとここにも良く来ていたし。私は牧谷さんの方が不思議でしたよ。司書資格を持っていると言っても、日本の近代文学専攻って言ってましたよね?」
「ええ。でも、前島先輩にはとても感謝しているんです。それこそ俺には、すごくぴったりな職場を紹介してくれて」
実際、陽にここを紹介するとき、諒子は「絶対向いてる」と太鼓判を押してくれた。
「そうねえ。お客さんにも評判いいし」
「え? そんなことはないと思いますけど。俺、西洋の中世なんて全然で……」
「でも、聞き上手でしょう、牧谷さん。ここに来る方々はあちこち色々詰め込んで来るから、それを整理しながら話すものを聞いてくれる人が必要なのよね。議論は大学とかでも出来るでしょう? その点諒子ちゃんは、自分も専門なもんだから、ついつい口が出ちゃって駄目だって言ってたわ」
そんなものか、と陽は思った。だが、訪れるお客さんが、素人相手の自分に良く色々な話をしていく理由がわかった。
色々な話は聞くし、ここの本を読むこともある。だが、やはり知識のない自分では、なかなか客の役に立てないと思っていた。だから、ここに居場所があると言われたようで、陽は少し嬉しかった。