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gravity

02
 実際陽は、今の職場を気に入っていた。大学を卒業した後すぐに入った会社では、何を間違えられたのか営業に回され、地獄のような日々を送った。そもそも、就職できたことでさえ、家族や少ない友人達に驚かれたのだ。営業だといったら、絶句する人間もいた。
 本当なら、そこで人見知りや緊張する癖を直せたら良かったのかも知れないと、陽は思っている。でも、ひどく精神に負担を掛けるその生活は、続くものではなかったし、同僚や指導員の先輩にも迷惑を掛けた。だから、そこから逃げるように、今の職の話に飛びついたのだ。
――適材適所よ。
 諒子はそう言っていた。今では陽も、そうなのだろうと思っている。給料は良いわけではないが、一人で暮らしていくには十分で、不満はない。休みは週に二回、月曜と木曜で、代わりの人間がいないからその他の日には滅多なことでは休めない。それも、どこかに出かけたりするよりも家でのんびりしていればいいと思っている陽には問題はなかった。
 このままずっと、本に囲まれて、ときどきおしゃべりな大学教授と話をして、ご近所の人たちとささやかな交流をして――そんな生活が続けばいい。穏やかで静かな、そんな生活が。その代償に、寂しさを感じなければいけないのなら、それでもいい。
 姉はそんな陽を、鼻先で笑っていたが。
 なんとなくお酒が飲みたくなって、スーパーに寄った。本当はどこかで飲みたかったが、行きつけの店もなければ、気軽に友人を呼び出せる陽でもない。突然、ということに陽はひどく弱いのだ。
 なんとなく淋しいような気分になるのは、秋だからだろう。季節限定! と書かれた新しい柄のビールが並ぶ棚の前で、陽がため息を吐くと同時に、携帯電話の音が鳴った。
 慌てて鞄を探る。誰かと思えば、諒子だった。少し短気なところがある彼女は、すぐに出ないと煩い。慌てて通話ボタンを押したが、耳に当てたときにはツーツーツーと空しい音が聞こえてきた。
 陽は急いで着信履歴を呼び出して掛け直そうとした。諒子相手に躊躇うのは禁物だ。
「わ、すみません」
 携帯に集中していた陽は、ボタンを押そうとしたところで、誰かとぶつかりそうになって頭を下げた。相手もぺこりと頭を下げて、目の前のビールを取っていった。紅葉模様が鮮やかな季節限定ものの缶ビールだった。陽もそれにしようと、手を伸ばす。
 耳に当てた携帯から、呼び出し音が響く。五百ミリリットルを一本にするか、三百五十ミリリットルを二本にするか――迷っているところで、相手が出た。
「あ、先輩、牧谷です。お電話貰ったようなんですけど……」
 そこまで言ったところで、陽は違和感に首を傾げた。いつもなら、陽に挨拶など言わせない勢いで、諒子は話し始める。
「えっと、先輩?」
 困惑しつつ呼び掛けてみると、ああ、と笑いを含んだような声がした。
「この間、私が間違って電話を掛けてしまった方ですよね」
 響きの良い、落ち着いた声で言われて、陽はもの凄く驚いた。この声は、まだ記憶にある。二週間ほど前だったが、忘れていなかった。
 陽はひゅっと息を呑み込んで、慌ててディスプレイを見た。確かに、あのときの電話番号だ。
「あ、あのっ」
 かあっと顔に血が昇るのがわかった。耳が熱い。さっき誰かにぶつかったとき、手を滑らせたのだろう。諒子の前には、彼の番号があったはずだ。
「あなたも間違えたのかな」
 ついくすりと笑ってしまったような声で言われて、陽は真っ赤な顔のまま、すみません、と目を閉じた。なんてことだろう。間違い電話をしてきた相手に、間違って掛け直すなんて。
 初めてのサークル活動の自己紹介で、緊張のあまり「牧谷陽です。牧場の牧に谷、太陽の太です」と言ってしまったとき並に恥かしい。そのおかげで、未だに陽のことを「たい」と呼ぶ先輩がいる。
「いいえ。こちらも何度も間違いましたから。お気になさらず。これで少しはお互いさまかな、と」
 相手の柔らかい物言いにほっとしながら、陽は「でも、すみません」ともう一度謝った。
「牧谷さん、と言いました?」
 ふいに言われて、はい、と反射的に答える。
「私は深住将梧(みすみしょうご)と申します」
 突然自己紹介が始まって、陽は携帯を握り締めたまま、立ち尽くした。
「牧谷さんは、都内にお勤めかお住みでいらっしゃいますか?」
「え? あの……」
「いえ、これも何かの縁かと思いまして。もし都内にいらっしゃるとか、出てくる機会がおありでしたら、この間の失礼のお詫びに、是非お食事でもと思ったのですが……。もちろん、ご迷惑でなかったら」
 深住の口調は淀みない。だが、セールストークに聞こえなかったのは、本当に誘ってくれているからなのか、相手の力量か。陽には判断つきかねた。
 ――あんた、断れない人間なんだから、簡単に頷くんじゃないわよ。
 姉には良くそう言われた。
「申し訳ない。不躾なお誘いでした。ただ、あのとき本当に申し訳なかったのと、恥かしかったのとあって――私の自己満足なのですが、失敗を取り返したいような気持ちがあって……」
 深住の気持ちは良くわかった。この恥かしさは、どうにかして消してしまいたい、居たたまれなさがある。特に深住は、最初の怒鳴ったときとは正反対の喋り方をする。とても礼儀正しく、はっきりと、だが落ち着いた声で話す深住が、対外的に本当の彼なのだろう。間違い電話のときの深住は、ごく親しい人間相手の姿だったに違いない。それを見知らぬ人間に披露してしまって、気になっているのかもしれなかった。
「恥かしいですよね、確かに。私も今、穴があったら入りたい気分です……」
 とても立派な人物を想像させる深住が素直な気持ちを言ったことで、陽の口も軽くなった。深住が、電話の向こうで笑ったのがわかる。
「私など、怒鳴ってしまった」
 大げさなほどにため息をついた深住に、陽も微笑みが浮かんできた。
「実は、あんな提案をしたのは、私、もうすぐ青山にオープンする新しいレストランに関わってまして、もしよろしければご招待したいと思ったのです」
 深住の声は耳障りがいい。
 どうですか。訊かれて、陽は思わず「はい」と答えてしまった。
「ああ、良かった。日時はそちらのご都合に合わせます。いつがいいですか」
 陽が月曜と木曜が休日だと言うと、それなら明日の水曜の夜でもと言われた。それから、あっという間に待ち合わせの時間と場所が決まった。陽は「はい」と「大丈夫です」位しか言えなかったが、深住は気にしていないようだった。
 では明日、と電話が切れた途端、陽の頭に後悔が一瞬過ぎった。この自分が、見知らぬ相手と食事など出来るのだろうか。と言って、電話を掛けて断ることも出来ない自分を陽は良くわかっていた。
 今日は五百ミリリットル缶と三百五十ミリリットル缶にしよう。酔って、とりあえず明日のことは置いておこう。陽はそう決めて、目の前の缶を二つ、かごに入れた。


 間違い電話のおかげで、陽はすっかり諒子のことは忘れていた。ついでに、彼女が留学しているはずだと言うことも忘れていた陽は、部屋に着いてから再び電話が掛かってきたとき、先輩どこにいるんですか? と訊いて怒られた。帰ってきてるに決まってるでしょう? それで可愛い後輩に電話したら無視何だもの、一体どういうことよ、と憤慨する諒子を宥め、さらに水曜の夜に遊ぶ、という誘いを断らなければならなくなった陽は、あのとき諒子の電話を素早く取らなかった自分を心底呪った。
 でも、あれがなければ自分が深住に間違い電話を掛けることもなかったのだ。
 何だと言って、深住との約束を少しは楽しみにしている自分に、陽は驚いた。考えると尻込みしてしまう。でも、たまには思い切って見るべきではないか、とも思う。
 深住の言うレストランは南青山の表参道沿いの美術館近くだということだった。その美術館なら知っているので、門の前で待ち合わせをした。
 地下鉄の表参道駅から真っ直ぐに道を進む。七時半の約束には少し早いが、立ち止まったらくるりと反対方向に引き返してしまいそうで、陽はただ前に進むことだけを考えた。あたりはすっかり暗くなり、視界の隅にネオンが光っている。
 美術館の門に辿り着いたとき、陽の息は少し上がっていた。時計の針は十五分前を指している。美術館はとっくに閉まっている時間で、辺りに人はいなかった。
 帰ろうか。
 急に怖気づいて、陽が再び来た道を振り返ったときだった。前から、すらりと背の高い男が、ゆったりと歩いてきた。ふと目が合う。ああもう逃げられない、と陽は思った。声や口調から想像したような、自信のある男の顔をしたその人物が、深住だと確信した。
「牧谷さんですか?」
 にっこりと笑顔で言われて、陽は俯いて「そうです」と小さく答えた。後悔がぐるぐると頭の中を回った。目の前の深住は、仕立ての良さそうなスーツに秋用の軽いコートを着こなした、エリートサラリーマンを体現したような人物だった。あまりにも、自分と違う。
 陽も一応、今日はスーツを着て来ていた。花江は「似合いますよ」と言ってくれたが、久しぶりすぎて着慣れていないのは誤魔化せない。
「お待たせしましたか?」
 だが、深住は陽の格好など気にも留めていない様子だ。レストランの場所を説明しながら、どんどん歩いて行く。陽はその後を追うだけで必死だった。
 入ったレストラン――と言うより、レストラン・バーなのだと深住は言った――は、まだ営業していないようだった。住宅街の中の小さなレストランで、白い壁と濃い色の木枠の窓や重厚なドアがシンプルな外観だ。ぱっと見ただけでは、レストランには見えない。中に入ってもシンプルさは同じで、白い壁に使い込まれた形の違うテーブルや椅子が並んでいて、新しい家のどこか落ち着かない雰囲気はなく、もう何年も誰かが住んでいるような感じだった。
 それでも、客の全くいないレストランで、ほとんど知らない人間と二人というのは、陽には緊張を強いるものでしかなかった。
「あの、ここ……」
「ああ、まだ開店していないんだ。今週の土曜日が開店日でね。その前にあなたを誘えたのは幸運だった」
 ここに来るまでの数分の間に、二人は簡単な自己紹介を済ませていた。深住は陽より年上で、敬語は必要ないと陽が言うと、すぐに気安い言葉遣いをした。だが、年の上下は関係ないと、陽にまでそれを要求してきて、実は先刻から陽は困っている。
 席についたところで、真っ白の服を着たシェフが笑顔でやって来た。
「今日はこいつが何でも作るから、牧谷さん、好きなものを言ったらいい」
 メニューも渡されずにそんなことを言われて、陽は固まってしまった。そんなことを言われるとは想像もしていなかった。
「え、あの……」
「俺が本当に電話を掛けないといけなかった相手、こいつなんだ」
「こいつって。ちゃんと紹介してくれよ。俺、木室直です。このレストランの一応シェフです。今日は本当に、何でも好きなもの言ってみてください」
 よろしく、と手を差し出されて、陽は「こちらこそ」とつられて手を出した。ぎゅっと握られて、勢い良く上下に振られる。満面の笑みの木室は、かなり体格のいい、丸顔の優しそうな人物だった。
「間違ったのは将梧だろ。それを俺の所為にして……」
「おまえのあのメモがあまりに汚い字で書いてあったからだろう。あれはどう見ても6だった」
「俺の字なんて見慣れてると思ったのになあ。大体、初めて掛ける番号だったら、一応用心しないか?」
 ねえ牧谷さん、と急に話を振られて、陽は眼鏡の奥の目をぱちぱちと瞬かせた。
「そもそも、おまえが携帯なくすのが悪いんだ。これで何台目だよ」
 五台? 六台だっけ? と木室は首を傾げる。壊したのもあるし、と呟くのだから、なかなか豪快な人間のようだ。
「で? 牧谷さん、何が食べたい?」
 その上、なかなか親しみやすい。髭の似合う顔でにっこり笑われると、安心感もある。
 何でもいいと言われても、とても困る。陽はレストランの注文などを真剣に考える人間だ。自分が食べたいものは何か、自分自身に真摯に問い掛ける。そう言うところは手を抜かないのよね、と姉など呆れてさっさと自分だけ頼んだりすることがある。だが、陽がどうしようかと真剣に考えている間、二人はじっと待ってくれた。
「あの、お肉で、何かお薦めの料理とかありますか」
 ようやく口を開くと、木室はやはりにっこりと笑って、「子羊のいいのが入ってるし、ミントの新鮮なものがたっぷりある。牧谷さん、香草系は?」
「大丈夫です」
 よし、メインはそれにしよう、前菜は……とぶつぶつ言いながら、木室は厨房に戻って行った。深住はそれを呆れた顔で眺めて、それから陽に笑いかけた。
「悪いな。あいつ、料理のことになると他のこと考えられないんだ」
 陽が首を振ると、ほっとしたように目を細める。深住は男らしい顔をしているが、こう言うときの顔はひどく甘い。陽はなんとなく視線を逸らした。
 正式な開店前だと言うのに、深住は今晩のためにウエイターも用意したらしい。木室が厨房に入ってすぐ、ベストにネクタイを着用した若い男がワインを持って現れた。木室の雰囲気では家庭的と言ったほうがいい気がしたが、ウエイターの様子では、小さいながらも高級な店に思えた。
 陽は滅多に外で食事をしない。したとしても、居酒屋あたりがせいぜいだ。こんなきちんとしたレストランでは、どうしても緊張してしまう。他の客の目を気にしなくていいのは、だからとても助かった。
 だからと言って、緊張しないわけではない。
 オードヴルに出されたのはフォアグラのポルト酒ソースで、陽は先が心配になった。外食にさえ慣れていない人間が、最後まで粗相なく食べきれるのか。だが、一口含んだ途端、とろけるようなフォアグラに、陽は目を見開いて「美味しい」と感嘆した。続く南瓜と栗のポタージュも、幸せになるような味だった。ここまで来たのだ。せっかくだから、マナーを気にするよりも、この味を堪能することに陽は決めた。
 深住の食べ方もまた、なかなか豪快だった。決して優雅とは言えないが、美味しそうではある。ナイフやフォークの扱いも乱雑に見えるが、不快ではなかった。
 スープが飲み終わった頃には、陽も随分この雰囲気に慣れてきていた。深住の質問に、最初はかなりしどろもどろで答えていたのが、だいぶまともになった。
「松館図書館……聞いたことないな。だが、面白そうな図書館だ」
「中世ヨーロッパがお好きなら、面白いと思います」
「話を聞くくらいの興味はあるかな。でも実を言えば、どちらかと言うと、建物に興味がある」
「建物ですか?」
 そう、と頷いて、深住は白ワインを飲んだ。前菜の鰊の燻製サラダは、すっかりなくなっている。陽にはゆっくり食べるように言って、深住はワインを楽しんでいる。
「仕事の一つに、物件探しもあってね。古い家屋には興味がある。まあ、しばらくはこれ以上手を広げるつもりはないが」
「あの、お仕事って……」
 深住は良く喋る。だが、同時に人の話を引き出すのがとても上手い。その上、良く喋る人間には珍しく、陽が言葉に詰まったりしても、その先をゆったりと待ってくれる。陽は普段よりずっと多くのことを、深住に話していた。
「ああ、こう言ったレストランのオーナーをやっている。土地探しから建物のこと、シェフを含むスタッフを決めたりもする。オーナーと言うと聞こえはいいが、ほとんど何でも屋だよ」
「あの、じゃあ、このレストランも……」
 深住は苦笑しながら頷いた。
「本当は、プロデュースだけするつもりだったんだけどね。木室とは学生時代からの付き合いで、あいつが修行を終えて自分の店を持つときには、俺がお膳立てしてやるとは約束していたんだ。それが、木室は管理は面倒だと言い出したから……。まあ確かに、あいつに経営の才能があるとは思えないが」
 口調は呆れたような、迷惑そうなものだったが、表情は楽しそうだった。
 陽はサラダの最後の一口を食べて、ワインを飲んだ。結局、二人はそれぞれの能力をお互いに認め、そして信頼しているのだろう。木室は面倒と言う理由で自分のレストランの経営を深住に任せ、深住はそんな理由で任された経営を引き受けた。
 外の世界とは、本当はそうやって出来ているのだと、陽はときどき思う。人と人がつながり、互いに助け合い、広がっていく。陽は自分の外には、そう言った世界があるのだと感じるときがある。
 メインの子羊のミントソースが運ばれてきて、ワインも赤に変わった。銘柄を言われてもわからないので、陽は勧められるままに飲むだけだ。
 食事は最後のデザートまで、とても美味しかった。色々語句を並べて褒めることのできない自分を歯痒く思いながら、陽は深住と木室に何度も礼を述べた。
「牧谷さん、とても美味しそうに食べるから、一緒に食べていても楽しかった」
 深住は、そんなことまで言ってくれた。話下手な自分と食事をして楽しいと言われたのは、初めてだ。
 陽にとっても、確かに楽しい、夜だった。
 タクシーを呼ぶと言う深住を断って、陽は電車に乗った。久しぶりに誰かと一緒にお酒を飲んで、心が少し、浮き足立っている感じがした。ふわふわと、気持ちがいい。
――良かったら、また是非、一緒に食事をしよう。
 電車の窓にこめかみを押し付ける。眼鏡がずれた所為で、外のネオンの群れが僅かに歪んだ。
 社交辞令というものの存在を、陽だって知っている。それどころか、陽が珍しく身に付けている、大人らしいものの一つだった。「また」と言われれば、「はい、是非」と答える。だが、その後があったことなどない。
――また是非、一緒に食事をしよう。
 深住のその言葉に、自分はどう答えたのだっけ。最後の方の記憶が曖昧だ。きっと、いつもと同じに答えたに違いない。だが、必要以上に期待が篭っていた気もする。
 酔ってるな、と陽は思った。さっきから、何度も、深住の声が頭の中で木霊している。


 
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