半夏生
01
じゃーっと凄い勢いで流れていく水に、鴇田(ときた)は躊躇せずに手を突っ込んで、まだぼんやりとする顔をばしゃばしゃと洗った。「洗面台は清潔に」そう書かれた紙に水が飛び散ることなど、気にしない。
顔を洗い、常備している歯ブラシで歯を磨いて、きゅっと蛇口を締めて顔を上げると、いかにも冴えない、疲れきった中年男が鏡に映っていた。ネクタイは曲がっているし、シャツは皺だらけだ。今は緩めている青いネクタイを縛りなおしたところで、このみすぼらしさは変わらないだろう。
――ただの青いネクタイなんて、趣味悪すぎ。
織の凝っていない、ぺらりとしたネクタイをそう言って嫌っていた、早智子の声を思い出す。だからと言って、鴇田のワードローブの中に洒落たネクタイが増えるわけではない。黒や白というわけにはいかないから、色物を考えると、赤なんてとんでもなくて、結局青や緑と言った無難なものに落ち着くだけだ。ただ、早智子の意見を少しばかり汲み取って、なるべく織が凝っていそうなものを買うようにはなったが。
まあ、体裁さえ整っていればいいんだ。
いつもながらの結論に至って、鴇田は濡れた顔や手をよれよれのハンカチで拭った。始業まで、まだ時間はあるだろう。コーヒーの一杯でも飲もうかとため息を吐いたところで、トイレのドアが開いた。
「よお鴇田。早いんだな」
にやりと意地悪そうに笑ったのは同期の寺井で、口調から嫌味を言っているのが察せられた。鴇田が頻繁に会社で眠っているのを知っているのだ。
「寺井も早いじゃないか」
よれよれのハンカチを申し訳程度に畳んで仕舞う。それを目で追いながら、寺井は呆れた顔をした。
「俺も優秀な部下ばかりじゃないからな。尻拭いが大変なんだよ」
ついでに、優秀じゃないのは上司も一緒、と二人は無言のまま同じ思いを目で交わす。言うなら、そっちの方がもっと厄介だった。鴇田はくっと笑って、肩を竦めた。
「中間管理職の辛いところ、か。でもお前も、そろそろその辺りから足抜き出来そうなんだろう?」
同期と言えどもエリートの寺井は、次期昇進の声が高い。開発課の課長から、室長になるか、それとも部長になる前のステップとして、どこかの店の支店長になるか。四十代半ばとしては早すぎると言ってもいい昇進だ。普段噂などに疎い鴇田の耳にも、それらの情報は入ってくる。鴇田の声色は、それを羨むわけでも、やっかむわけでもなかった。
「さあなあ。それにしたって、変わらないだろう。所詮は企業の働きアリ」
珍しく自嘲気味の寺井に、鴇田は眉根を寄せた。
「なんだ?らしくねえな」
寺井は何も答えずに、トイレに来た本来の用を足した。鴇田はもう一度鏡を見て、ぼさぼさの髪を適当に撫でつけた。デスクにうつ伏せになって寝ていたから、前髪が変な風に癖になっている。
「コーヒー、飲むんだろ」
用を済ました寺井が、鴇田の隣で手を洗って、顎で自販機がある休憩コーナーの方角を示した。鴇田は頷いて、前髪を少し濡らすと、その後を追った。
「……おまえ、いくら何でももう少しまともな格好しろよ。って言うか、きちんと家帰って寝ろよ」
紙コップの甘いコーヒーを渡しながら、寺井は呆れた声を出した。それはカフェオレなどと言う洒落たものより、コーヒー牛乳と言った方がしっくりくる飲み物だったが、鴇田が好んで飲んでいることを寺井は知っていた。
「今日は外に行く予定はないんだよ」
「だからってなあ……どうせ『サハラ』で飲んでたんだろう」
寺井はブラックの濃いコーヒーのボタンを押す。それが出来上がるまでの間に煙草に火をつけ、美味しそうに吹かした。
今度は鴇田が黙る番だった。家で飲むと際限がない鴇田に文句を言ったのは寺井だ。アルコールの匂いをさせて会社に来るほどではなかったが、食事変わりにアルコールを摂取していたから、馬鹿だのアホだのと散々言われた。だから鴇田は外に飲みに行く。少なくとも、外ならば延々に飲む事はない。それに、帰れなくなるような事態になるまでは飲まない、と決めている。ただそこから部屋に帰るのが、時々煩わしくなるだけだ。
「今日は帰るよ」
寺井はいつも、きちんとした格好をしている。良い奥さんを貰った、その証でもあるだろう。自分と寺井のその差を考えるなどと言う愚かなことはせずに、鴇田はただそう言った。そう言えば、寺井はもう、何も言えない。
「おはようございます」
重苦しいような、居たたまれないような沈黙を破ったのは、爽やかな青年の声だった。
「ああ、おはよう。早いな、夏目」
「課長におっしゃられても」
にっこりと笑うその顔も、声を裏切らない爽やかなもので、鴇田はぼんやりとその青年を見た。自分が新入社員の時だって、これほど爽やかだった覚えはない。
それから二人は、仕事の話を始めた。寺井がため息を吐いた案件で、どうやらコネ入社のお坊ちゃまがいい加減な仕事をしたらしい。専務の孫だとか言うその社員の話は鴇田も聞いていて、つくづく自分のところに回ってこなくて良かったと思ったほどだった。
「それでは、すぐに見て課長にメールします」
話が終わったのか夏目はそう言うと、鴇田に軽く頭を下げて開発室に向かった。そのお辞儀の仕方が礼儀正しくて、鴇田はため息を吐いた寺井の肩を叩いた。
「優秀な部下ばかりじゃない、か。つまりは優秀な部下もいるってことだ」
がたがたの設計図を見られるようにしてメールする。夏目はそう言っていた。寺井の話ですぐにどの図のことを言っているのかわかったらしく、一時間も掛からないと思いますが、とも答えていた。もちろん、数か月ながら後輩の、やたらプライドの高いお坊ちゃまに対する配慮も忘れない。「彼の図面は少し癖がありますから」と決して設計図が下手などとは言わなかったし、「課長が引き直したことにして下さって結構ですから」と苦笑していた。
「いい部下じゃないか」
鴇田は正直に、そう思った。
「まあ、まだまだってところもあるけどな。でも、期待はしてる」
部下に対しては非常に厳しいことで有名な寺井にそう言わせるのなら、相当なものだろう。鴇田は「ふーん」と言って、甘いコーヒーを啜った。
「それにしてもえらい好青年ぶりだな。その上おまえも期待してるって言うんじゃあ、女の子が騒ぐわけだ」
入社してからすぐ、夏目はその端正な容姿と、外国の大学を出たと言う学歴のこともあって、有名になった。その上、それは紙の上の飾りではなく、きちんと実力の伴うものだとわかり、ますます注目度が高まった。当初、入社してすぐに使える新人がいると、寺井が少し興奮気味に話していたことを鴇田は思い出した。そう、あれが確か夏目だった。
「なんだ。おまえも噂に疎いかと思ったらそうでもないんだな」
「疎いよ。でもお前達の部署はすぐ隣だし、うちの事務の子たちが騒ぐから」
ちなみに寺井も「紳士」として女の子達に騒がれているが、そんなことまでは言ってやらない。
「女の子はそれだけで仕事が楽しいみたいだからな。羨ましいよ。さて、俺も行かないとな」
寺井は立ち上がって、煙草をもみ消した。挨拶変わりにのろりと手を挙げた鴇田の前髪を、撫でつける。
「ひどいか」
「女の子たちに噂されるくらいにはな」
呆れた声を残して、寺井は歩いていった。
「おはようございます」
朝礼が終わって席につくなり、若手の部下の一人に元気な声で挨拶されて、鴇田は苦笑しながら「おはよう」と返した。営業出身のこの社員は、元気だけが取り柄だと自分で言っている。
「先日の制御ユニットの基盤の見積もりなのですが」
ああ、あれか。と鴇田は机の上に積み重なっている書類から一枚の紙を取り出した。月末が近くなってきて、みんな焦っているのだろう。承認待ちの書類が、日々増えていく。
石村卓巳の表情は、声に負けず明るかった。自信が滲み出ている。
「石村、おまえさ、このユニットがどれだけの部品から出来てるか知ってるか?」
「え……五十ぐらいですか」
「馬鹿。百六十三個だよ。基本構造くらい頭に入れておけって言っただろう。何のためにこの間の合同ミーティングに出席させたと思ってるんだ」
石村の目の付け所は悪くない。開発との合同ミーティングでちらりと出た、素材変更による価格削減を視野に入れているし、部品製造工場とも何度も話し合ったのだろう。基本的に間違ってはいない。
「これ、前と少し仕様が変わってるだろう」
「はい。でも製造工程には影響がないだろうって……」
「百六十三個分、全部か?それにこの素材の耐熱性、前より低くなってるだろ。最終の製品としては合格ラインかも知れないが、製造工程に影響はないと言い切れるか?」
石村の手がぎゅっと握られたのが鴇田に見えた。
「どんな品質でもいいなら、誰だってコストダウン出来るんだよ」
ひらりと印のない紙を返すと、石村はそれを受け取って、頭を下げた。見直します、と言った声は酷く悄然としていた。そして自分の席に帰っていく石村を、鴇田は名前を呼んで引きとめた。
「それ以上の価格で出しても、承認しないからな」
言い忘れた、とでも言うようなその鴇田の言葉に、石村はぐっと唇を噛み締めて「はい」とはっきりと返事をした。
肩を落とし気味に席に戻った石村に、事務員の田上祥子が声を掛けている。たぶん、口の悪い課長のフォローをしているのだろう。彼女は実質的な仕事面においても、こうしたソフト面においても、いつも鴇田を助けてくれる。外見も決して悪くないし、気も付くこの娘が妙齢で独身なのは、鴇田の中で謎の一つだ。それを言えばすぐに「セクハラ」と言われるのがわかっているから、そのつもりなど毛頭ない鴇田も何も聞いたことはない。それに、寿退社などされたら、その後誰がこの課の潤滑剤になってくれるというのだろう。実際、石村も田上にどう励まされたのか、暗い顔から一転してやる気を出している。
一度だけ、酔った勢いで田上にその話をしたことがある。いつも悪いと何度も言う鴇田に、田上は素晴らしく優しい微笑を返してくれた。
――課長がそう仰って下さっただけで、十分です。
そのとき、やはり彼女たち事務員は肩身の狭い思いをして来たのだろう、と思った。依然古い考え方が根強く残っているこの会社で、女はまともな戦力として考えられていない。だが、実際にこの課でバイヤーのスケジュールをやり繰りし、必要書類を調え、円滑な業務を支えているのは彼女たちに他ならなかった。その上、駄目な上司のフォローまでしてくれているのだから、出来すぎだ。
人のことを羨まなくてもいいんじゃないか。
鴇田はパソコンを立ち上げながら、そう思った。華やかさのない購買課で、石村はやる気を出しているし、田上は常に優秀だ。それのどこが、開発のエリートに劣るだろう。劣るとしたら――上司だろうな。
鴇田はどことなく自嘲の笑みを浮かべて、今日の仕事を始めた。