半夏生
02
昼休みになって、食堂に向かおうとした鴇田を、寺井が呼び止めた。
「これからか?」
「ああ。なんだ。おまえもか」
ちらりと見た手には、何も持っていない。新婚当初、寺井は愛妻弁当を欠かさず持ってきていた。
「こんなことで愛情を量ろうとは思わないが……まあ、時には睡眠に勝てないときもある」
鴇田の視線の先を正確に読み取って、寺井はそう笑った。寺井が社内一と呼び声高かった女子社員と結婚したのは、もう十年前になる。当初の熱情が落ち着いた――と言うより冷めた――と言ってもおかしくない年月だ。
――私はね、ずっとずっと、熱烈に恋愛していたいの。
そう笑った女なら、それとも、十年経っても惰性ではなく弁当を作りつづけるのだろうか。いや、早智子はそもそも料理をするような女ではなかった。一緒に食べるのが大事なのよ。誰が作ってもいいのよ。いつもそう、自信たっぷりに言っていた。
「いいだろう?」
ふいに言われて、鴇田は物思いから顔を上げた。寺井が体を食堂とは反対方向に向けて、鴇田を振り返っている。社外に食べに行こうと言うのだろう。鴇田は聞いていなかったことは言わずに、頷いた。
「ああ、夏目もこれからか。ちょうどいい。おまえも付き合え」
長身の影が現れて、寺井がひらひらと手でその影を呼んだ。部屋のドアが小さく見えるほどの長身は、少し迷って、でもお邪魔でしょうから、と控え目に言った。
「邪魔って……可愛い女の子と一緒なら、間違ってもおまえなんか誘わないよ。どうせ顔合わせしておこうと思ったんだ。ちょうどいい」
「おまえ、よく平気でそう言うことを言うな」
鴇田が非難がましい目をしてみても、寺井はふっと笑うだけだ。
「別に浮気しようなんて思ってないぞ?でもどうせなら、食事くらいは華やかな方がいいじゃないか。仕事中はずっと、男ばっかりの空間でひたすら画面と睨めっこなんだから」
設計開発には、今のところ女子社員はいない。旧態依然と言うべきか、それともただ単に希望者がいないからなのか、鴇田は知らない。
「それなら、俺が入っても華やかにはなりませんが。それでもよろしければ」
夏目が、微かに笑いながら二人の後ろに立った。こうして間近に見ると、確かにいい男の顔をしている。それに、背が高い。
「おまえと一緒なら、声かければすぐに華やかになるだろうが。それは次の機会だな。それで痛むのは俺の財布だと思うと心臓に悪い」
「おまえの財布が痛むなら、俺もってことか」
「鴇田は別に痛いほどの出費にならないだろ。俺と違って小遣いじゃないんだから」
歩きながら、寺井が情けないため息を吐く。鴇田はそれには何も答えなかった。
それでもそれを幸せと、人は言うだろう。一人目の子供が小学校に上がって、小遣いが厳しくなった、と寺井が嘆いていたのはつい先月のことだ。
外に出ると、春の柔らかさを失った日の光が三人を照りつけた。それでもまだ、夏の凶暴さには遠い、いっそ気持ちがいいほどの光だった。街路樹の緑が、目に眩しい。
「朝早くに出て夜は暗くなってからしか帰らない。その上部屋の中で一日中閉じ篭って仕事してると、季節においていかれるな」
寺井が少し暑そうに背広の前ボタンを外した。
「その代わり、設計は一年中快適な温度の中で仕事できるじゃないか。俺たちなんてこれから外に出たときは地獄だよ」
営業ほどではないにしろ、購買も頻繁に社外に出る。特に鴇田は、サプライヤーや現場との実質的な繋がり――メールや電話だけではなく――を大切にしているから、自然外に出ることも多くなる。
「そう言えばこの間は仙台に出張だって?牛タン食べたか?」
「それどころじゃなかったよ。日帰りだぞ?納期に間に合わないかもしれないって苛々して、出来たらそれを持ってとんぼ返り。まったく俺たちを何だと思ってるんだか」
働きアリ。たぶん、寺井が言ったその言葉が一番あっているのだろう。望むとも望まずとも関わらず、企業人とはそう言うものだと鴇田は思う。
それが切っ掛けで、寺井と鴇田で、ひとしきり仙台支社の話などをした。夏目は、大人しく二人の後をついて歩いていた。余計な口は挟まない。
だが、寺井が気に入っている蕎麦屋に入って席につくと、夏目もきちんと話に入ってきた。当り障りのない会話を、それでも飽きさせることなく続ける。鴇田は、なぜこの男が設計などにいるのか、不思議に思った。この容姿も含めて、営業でも十分通用するだろう。そもそも、そこそこ名は知れているといえ、同じ自動車メーカーの中では「最大手」とは言えないこの会社に入ったのも、不思議だった。夏目ほどの実力があれば、それこそ大手のメーカーに就職できただろう。
「設計なんかにって、ひどいね、鴇田も」
思ったままに夏目に聞いた鴇田に、寺井が大して気分を害したわけでもなく、そう言う。設計なんか――そんなことは一欠けらも鴇田が思っていないことを、寺井は良く知っている。
「そうですよ。俺、自分で望んでここに入れてもらったんですから」
夏目も、寺井に合わせるように、非難の口調ではなくそう言った。寺井が食後の蕎麦湯を飲みながら、そうそう、と頷いた。
「語学のこともあって、営業にって話もあったらしいが、本人が設計が良いって言ってるのに、誰がやるかっての」
寺井と営業部は、あまり仲が良くない。寺井曰く、「計画性もない、無理難題ばかり押し付ける馬鹿集団」なのだそうだ。鴇田は軽く笑って、そうか、と言った。
「お前も図面馬鹿なんだな」
寺井のことを揶揄ってそう言うと、本人は少しも気にした風ではなく、「そうだよ、お仲間なんだよ」と笑った。夏目は、少し面食らった顔をしている。
「図面馬鹿って……」
「ああ。寺井は図面見てるのが一番楽しいって暗い趣味の奴だから。本とか映画とかテレビより、ゴルフより、女より、図面」
鴇田が笑い声でそう言うと、寺井が「女はどうかな」と言った。鴇田相手に愚痴を零すときはよく「図面が一番だ」と言っている寺井だが、実際は、社交的な男だった。そうでなかったら、出世などしない。
夏目は、ああそう言う意味で……と納得している。それから「そうですね、図面馬鹿と言うなら、仲間ですね」とあの爽やかな笑みを浮かべた。
「小さい頃から、設計図とか好きでしたから。だから、実力があるとかじゃないんです。昔から、見慣れているというか――。身近だったんです」
ふいに夏目の声が真剣に響いて、鴇田は残っていた沢庵に伸ばしかけた箸を止めて、その顔を見た。夏目が、じっと鴇田を見ていた。
「夏目……?」
鴇田が思わず呟くと、真剣だった表情はふいに崩れて、照れたような困惑したような顔に変わった。
「ですから、皆さん本当は俺を買被りすぎなんです。内情、俺は必死なんですから」
そうはにかんだ夏目は、普通の若手の社員に見えた。だが、鴇田の脳裏には、先刻の真剣な目がちらついて、しばらく離れなかった。
誘ったんだから俺が払うよ、と言った寺井に、鴇田はあっさり「ごちそうさん」と言い、夏目は少し迷って、「いいからいいから」と手を振られた末に頭を下げた。夏目はやはり、控え目に二人の後ろをついてくる。
道すがら、ところで「顔合わせ」って言うのはなんだ、と鴇田が聞いて、すっかり忘れていたらしい寺井が、そうだった、と苦笑した。
「今度の新エンジンの企画、夏目も入れるから」
さらりと寺井が言って、鴇田も驚いたが、夏目本人も驚いたようだった。新エンジンは、今会社が総力をあげて開発しているものだ。車にとって最重要項目でありながら、デリケートな部分でもあるエンジンの開発は、開発者の憧れでもある。
「寺井課長……」
「なんだ夏目。自信ないか?遠慮しとくか?」
ふいっと後ろを向いた寺井に、夏目は「いえ」とすぐに答えた。
「いえ。やらせていただきます」
迷いのない、いい返事だった。夏目なら平気だろうと、鴇田も思った。
「エンジン改良じゃなくて開発だからな。理想を一杯詰め込ませてもらうから、頼むぜ、バイヤーさん。頼りにしてるから」
寺井がそう肩を叩いた。実際は妥協の連続になるとしても、それをどこまで実現できるか――コスト面という現実問題は、鴇田が引き受けることになる。そこでどれだけ踏ん張れるか。そう言う形で、鴇田はこの男たちの夢を叶える手助けをする。
「仕方ねえな。狡い役は引き受けてやるよ。だが、覚悟しとけよ」
最後の言葉は、夏目に言ったものだった。鴇田の仕事はただ一つ。どれだけコストを安く出来るか、その一点に限られている。だから時には、設計に代替品をねじ込むことだってある。
実際は、設計と購買なら、設計の方がずっと「力」はあると鴇田は知っていた。購買は、設計に決められたものを安く購入することに心血を注ぐのだ。だが、寺井は購買との協力も惜しまない。鴇田が心置きなく言いたいことを言って仕事が出来る相手も、寺井だった。そうして二人で、コスト面も十分納得できるものを、いくつも作ってきた。
寺井はそう言うことが普通に出来る、懐の深い男だった。
「よろしく、お願いします」
夏目はきっちりと、頭を下げた。寺井についていれば、夏目も間違いなく出世街道を走れるだろう。その道に、随分前から興味を失った鴇田にも、青年の将来は眩しく映った。鴇田は思わず、目を細めた。青々とした葉から零れる光が、目を眩ませた。
まだ昼休みの終わりには少し時間があった。だが、寺井は携帯電話に呼び出され「そこじゃない、机の上の青いファイル……ない?じゃあ戸棚は」と電話に怒鳴りながら足早に会社に向かうことになった。夏目も一緒に足を踏み出しかけたが、寺井はそれを手で留め、「ああもう、今行くから」と怒鳴ると、走っていった。鴇田と夏目は一瞬目を合わせ、くすりと笑った。
「あいつの机の上のもんなんて、誰も把握してねーだろ」
二人はのんびりと自社ビルに入って、示し合わせずとも喫煙所に向かった。夏目は「課長自身が把握しているんじゃないんですか」と首を傾げた。受付嬢が視線を寄越しているのが、鴇田の視界の隅に入った。
「さっきの電話、聞いただろ?結局わかってないんだよ」
図面はきっちり、神経質なほどに丁寧に仕上げるのに、寺井は整理整頓と言う言葉を知らない。たぶん、生まれつきのものだ。
「そんなのに生まれつきなんてあるんですか」
喫煙所につくと、鴇田が煙草を咥えたのを待ってから、夏目もすっと煙草を口に咥えて火をつけた。いい男は、そう言う仕草がいやに様になる。
煙草は嫌いだけど、吸ってる姿は好き。
早智子がそう言った意味が、わかった気がした。あの時は、我侭なことを言ってる、と思っただけだった。
「あいつを見てると、それ以外に説明つかねーんだよ。出したら元の場所に戻す。その単純なことができねーんだから」
鴇田はかちゃりと百円を自販機に入れて、夏目に好きなボタンを押すように顎で促した。夏目はやはり少し恐縮してから、ごちそう様です、と軽く頭を下げてブラックコーヒーのボタンを押した。鴇田は変わらず、コーヒー牛乳のホットだ。
「はは。確かに単純なことですけど。面倒なんですよね」
「ふーん。お前も見かけに寄らず駄目な性質か」
鴇田はプラスチックで出来た椅子の上に坐ったが、夏目は窓際に立って横目に外を眺めていた。下から見上げるようにすると、夏目のすらりとした体躯が際立って見えた。
「ですから、皆さん買被りすぎなんです。俺、そんなにきちんとした性格じゃないし。それなのにちゃんとしてそうって。結構プレッシャー」
そう微笑む顔は、言うほどプレッシャーを感じているようには見えなかった。一人暮らしなのか家族と同居なのか、はたまた彼女と同棲しているのかはわからないが、背広もシャツもびしっとしている。もちろん、ネクタイが曲がっているなんて事もない。髪の毛も、きちんと手入れされている印象だった。今朝、前髪に癖をつけたままだった鴇田とは、ずいぶんと違う。
「まあ、整理整頓に関しては、寺井も外見からは想像できないけどな。でも、正直、就職はさ、この会社より上を狙えたんじゃないか?それとも、ここでやりたいことでもあったのか?」
先刻の蕎麦屋では、見事にこの部分だけを誤魔化された気がしていた鴇田は、普段あまり他人のことなど興味がないくせに、どことなく気になってもう一度、その質問をした。
別に、自分の勤めている会社を卑下しているつもりはない。単なる、事実だ。
夏目はその長い指で、ぎゅっと煙草を灰皿に押し付けてもみ消すと、寄りかかっていた窓ガラスから身体を起こした。それからすっと、鴇田を見た。
「やりたいことがあった、と言うわけではありません。でも、あなたがいたから」
夏目の声は、感情を伴っていなかった。そう、先刻の鴇田と同じ。単なる事実を、述べている感じ。
え?と思わず聞き返した鴇田に、夏目は同じ調子で繰り返した。
「あなたが、いたからです」