* 02






夏果て

01

 鏡の中の自分を見るのは、久しぶりだった。相変わらず、冴えない中年男が疲れきった顔を晒している。ばしゃばしゃと思い切り顔を洗ってみるが、それで目の下の隈が取れるわけがない。
 鴇田は滴る水を手で拭い、しばらくぼんやりとした。久しぶりの深酒に頭がぼうっとしている。
「顔ぐらい拭けよ。しばらくだらしない格好は見なかったのに、復活か」
 口煩い小姑に差し出されたハンカチを手で断って、鴇田は自分のハンカチを取り出した。アイロンまでは掛かっていないが、綺麗に畳まれている。それを見ると、鴇田はなんとなく複雑な気持ちになる。
「付き合いだよ、付き合い。何の生産性もない接待」
 酒も食事も上手くなんか感じない、ストレス発散どころか溜めに行くみたいなもん――と愚痴を吐いたところで、肩をぽんぽんと叩かれた。
「わかったわかった。コーヒー奢ってやるから」
 一体寺井は、トイレに何をしに来たのだろう。自販機が並ぶ喫煙コーナーに向かいながらそれを言うと、「おまえが倒れてないか心配で見に行ったんじゃねーか」と嘯かれた。
「そんなにひどいか」
「久々にな。それにしちゃあスーツは綺麗だから、社に泊まったわけでもないみたいだが」
 鴇田は自分の着ているものを見下ろした。適当に引っ掴んで着てきたのだが、今やクローゼットの中には、クリーニング帰りのスーツが並んでいる。その辺のものを適当に掴んだらよれよれだった、ということはなくなった。
 寺井から、ホットのコーヒー牛乳を渡される。外は茹だるような暑さだか、鴇田はいつでもホットコーヒーだった。
「ちゃんと帰って寝たさ。昨日ほど自分の家が恋しかったことはない」
 隣に坐った寺井は煙草に火をつけながら、ようやく思い出したようだった。
「接待って、あれか。大阪台風」
 本社管理職の間で「大阪台風」と呼び習わされているのは、大阪支店の支店長のことだった。本社でかなり大きな顔をしていることから縁故入社を噂されているが、仕事が出来ないわけではない。だが、何しろ態度がなかなかに尊大で傲慢だった。「本社女子社員が嫌いな身内客ナンバーワン」だと、田上も昨晩言っていた。「男性社員だったらぶっちぎり首位」と石村も呟いて、鴇田を気の毒そうに見ていた。
 態度が大きくても、鴇田には別に構わなかった。そんな輩は腐るほど見てきているし、対処も心得ているつもりだ。寺井だって同じだろう。ただ、大阪支店長は無類の酒好きだった。業務が終わるか終わらないかと言う時間から、日付を跨いで飲むのは当たり前。それでいてザルかといえばそうでもなく、酔っ払う。鴇田たち接待をしている側の人間が解放されるのは、彼の意識がなくなったときだ。そしてその巨体をホテルの一室に放り込んでようやく、お役ごめんとなる。
「昨日は何時までやってたんだ」
「あのくそ親父、いらない知恵つけやがって、店が一時に閉まってから部屋で飲もうなんて言いだしやがった」
「で? まさか朝まで?」
「いや、こっちも必死でラストスパートかけて飲ませたよ。それで車に乗ったら夢の中だ。おかげで総務の平澤さんは今日は頭痛が酷いだろうし、俺と営業の中津は筋肉痛」
 支店長は、身長は鴇田より低いが、横には倍以上ある。中津など「これ、クレーンが必要じゃないっすか」と言っていた。クレーンは言いすぎだとしても、フォークリフトくらいは欲しい、と鴇田も一瞬本気で考えた。
「大阪台風は相変わらずか。色んなもんを薙ぎ倒して行く」
 寺井が煙草を口に咥えた。勧められるまま、鴇田も一本貰うことにする。
「大した被害じゃないけどな。でもまだ第一号だ」
「第二号の発生予定があるのか」
 ライターが見つからない。あちこちのポケットを叩いていると、寺井がライターを目の前にかざし、火を点けてくれた。ついでとばかりに前髪を直される。いつもは綺麗な寺井の手は荒れていた。そう言えば、夏目も最近疲れた顔をしていることが多い。この間も、週末だと言うのに一度しか……。
 鴇田は慌てて小さく首を振った。
 ――何を考えているんだ俺は。
「さあね。奴の口ぶりじゃ、あるみたいだったけどな」
 目を閉じる。寺井に頭の中を見られるわけがないのに、誤魔化すように煙を吐き出した。目を開けると、その煙が消えたところに、夏目が立っていた。
 遠く、表情は見えない。だが、朝には相応しくない、殺気だった視線が感じられた。
 夏目はそのまま、何も言わずに仕事場へと消えていった。


 メールをした。返信が来ない。
 鴇田は携帯電話を手の中で弄んだ。仕事のメールではない。即答が必要な重要なものでもないが、いつもはすぐに返って来るものが返って来ないと落ち着かない。もうすぐ、メールに書いた終業時間の六時になる。
 顔を上げて部屋の中をちらりと伺うと、田上の頭が見えた。彼女が今書いている書類が書き終わり、判子を押せば鴇田の仕事も終わる。それを待つ間、提案書を吟味しようと机に置いては見たが、眺めるだけで頭に入ってこない。鴇田は、気分転換にトイレにでも行ってこようと立ち上がった。そのついでとばかりにパーテーションの反対を覗くと、開発課はがらんとしていた。二十ばかりの机の列に、頭が見えるのは三つほどだ。
 夏目の姿は、なかった。
 つい手にしてきてしまった携帯電話を、ぽんっと軽く投げ上げる。背広のポケットにそれを仕舞うと、トイレに向かった。
 帰ってくると、田上が席の隣に立って待っていた。
「悪いな。出来たか」
「はい。こちらこそお待たせして」
 書類を受け取り、坐りながら読む。いつもながらベテランの田上に書類不備はない。鴇田は頷いて、判子を押した。
「はい、ごくろさん」
 田上はほっと息を吐いて、「さ、帰りましょう!」と両手を伸ばして机に向かった。が、そのままくるりと顔の向きを変え、「そういえば」とにやりと笑った。
「なんだ」
 田上は笑ったまま、下ろした手を後ろに組んで、軽い足取りで鴇田の元に戻って来た。
「あの噂、本当なんですか」
「噂?」
「ええ、今日はその話で持ちきりだったんですよ」
 田上は今日も、真面目にてきぱきと仕事をしていたはずだ。残業になったのも彼女の所為ではなく、担当が必要な数値をなかなか出さなかったためだ。それなのに、一体どこで噂話に花を咲かせる暇があったのか。
「どんな噂なんだ? 大体、噂話に関しちゃあ、女子社員が一番詳しいじゃないか」
「と言うより、課長が疎いんだと思います。お隣の課長さんは、情報収集に抜かりないですよ」
「寺井は何でも知っとかないと気がすまない性質なんだよ。田上も訊く相手、間違えたな」
 結局あまり進まなかった提案の書類をまとめて、とんとん、と揃える。
「寺井課長には、もう訊いたんです。でも、わからないって」
 鴇田は念のため、ホワイトボードと名札を確認するために立ち上がって、ドアに向かって歩きだした。
「それなら、俺にわかるはずないさ」
「それが、そうでもなさそうなんです」
 田上はまだ諦めないようだ。
 名札は、自分と田上以外はひっくり返っている。明日の課員の予定――直行が二人――も、頭に入れておく。
「課長、本当に噂とか、全然興味がないんですね。でも、少しは気にした方がいいですよ。ご自分が噂されている場合だってあるんですから」
 鴇田が振り向くと、田上は大きく頷いた。
「俺の噂して、何が楽しいのかわからんな」
「課長は、少しはご自分が独身だってことを思い出したほうがいいです」
「忘れたことなどないが……。俺が独身か既婚かなんて、たいして面白い話題じゃないだろう」
 苦笑すると、わかってないですねえ、と盛大な溜息が返って来た。
「言っておきますが、大した話題ですよ。課長が結婚か、って、緊急連絡網で回ってきましたから」
 一体どんな連絡網かと思ったが、会社生活において知らなくていいことはたくさんある。きっとこれもその一つだ。それよりも、突然出て来た言葉に驚いた。
「結婚? 俺が?」
 田上は大きく頷いた。
「一体どこからそんな話が出てきたんだ」
 言いながら、頭の片隅では「あれかな」と思い当たったものがあった。
「だって課長。大阪の支店長に組まれたお見合い、断れるんですか」
 当たりだ。
 昨晩のメンバーが何人か頭を過ぎった。おしゃべりな人間はどこにでもいる。しかし、と苦笑は禁じえなかった。話したのは支店長と飲んだことのない若手だろう。仲人は彼の趣味なのだ。誰かれ構わず見合い話を持ってくる。
「もし話が来たら断るよ。する気もない見合いをするほど、暇じゃない」
「でも、日時も決まってたって……」
「向こうが勝手に決めた、ね。随分酔ってたから、覚えているか怪しいもんだ。それに、最近それで実際見合いをした奴なんていない。以前は何人か世話したようだけど、奥さんが病気をしてからは、仲人はやらないと言われているらしい」
 田上は「そうだったんですか」と拍子抜けした声を出した。
「そのことは結構有名だと思ってたんだが……。俺の同期とか真下の後輩辺りじゃ常識みたいなもんだ。連絡網じゃ、そこまで回らないか」
「課長クラスの方に参加していただければ、完璧に近い連絡網になると思うんですけど。間違った情報も流れにくくなります」
 やれやれだ。鴇田は溜息を吐きながら笑って首を振った。
「今回だけ特別参加だ。俺が結婚するなんてのは、嘘。当分予定なし……というより、一生その予定はないって、回しとけ」
 鴇田が目の前の名札をひっくり返すと、田上も手を伸ばしてきた。
「わかりました。本人談ということで、メール回しておきます」
 田上はまるで、オセロの駒でもひっくり返すように、ぱちりと音を立てて名札を裏返した。


 田上とは部屋の前で別れて、鴇田は総務へ向かった。覗いてみれば、思った通り、昨日の盟友、平澤がいた。かなり青白い顔をして、机に向かっている。
「まだ帰れませんか」
 明日の朝が締め切りの書類を渡しながら訊くと、平澤は驚異的な速さでキーボードを打っていた手を止めて、虚ろな目で鴇田を見上げてきた。
「平澤さん……大丈夫ですか」
「なわけないだろ。まだ酔ってる気がする」
 大阪支店の店長を酔い潰すために、一緒になってグラスを空けてくれたのが、この平澤だった。
「昨日も午後は準備やら案内やらに時間取られたし、今朝は頭は使いもんにならないし、破壊力あるよ、大阪台風」
 一服するかあ、と立ち上がる。鴇田も煙草一本分、付き合うことにした。階下の喫煙所へと向かう。鴇田は、先刻来た道を戻ることになる。
「今日はあとどれくらい?」
「んー、日付変わる前には帰りたいところだけど、どうかな。じゃなかったら持ち帰るか……ま、どっちにしろかみさんの機嫌は損ねるわけだ」
 平澤は大きく息を吐きながら、どさりと椅子に坐った。鴇田が自動販売機に小銭を入れて顔を見ると、「コーヒーのブラック、一番右」と返ってきた。鴇田はその一番濃いというコーヒーのボタンを押す。
「ほんと、冗談じゃない破壊力。三次会まで付き合った若い奴らも、今朝はぼーっとしてるし。過ぎ去った後にも余波残していくんだから、きついよなあ」
 コーヒーを渡すと、平澤は片手を軽く上げた。一口啜ってから、煙草を取り出して火を点ける。鴇田はいつものコーヒー牛乳のボタンを押した。すぐに食事かもしれないし、飲むかもしれないとの考えが一瞬頭の中を過ぎったが、約束は何もないことを思い出した。メールの返信はいっこうにない。
「余波って言えば、鴇田も被害はあったか」
「俺ですか?」
 そう、と平澤は頷いた。
「おまえにも、夜遅くまで仕事したり、接待したり、仕事を持ち帰ったりしたら、機嫌を損ねる厄介なのが出来るかもしれないって噂」
 遠回しな言い方に、鴇田は苦笑した。確か、平澤は恐妻家で有名だ。
「さすが総務課長。速いですね」
「おまえも聞いたか」
「親切にも教えてくれる部下がおりまして」
 平澤はコーヒーを啜って、何か考えているようだった。購買の面々を思い浮かべているのだろう。
「それで? どこぞの銀行の支店長の娘で、出戻りだけど器量良し、って教えてやったか?」
 平澤の言葉の選択は、鴇田に彼との年の差を思い出させる。器量良し。鴇田は使わない言葉だ。
 年の差と言うことなら、夏目との差の方が大きい。自分もあいつに、古臭い言葉を使っていると思われているだろうか。
「写真、見ましたっけ」
「見てないけど、台風はそう言ってた」
「そりゃあ、そう言いますよ、普通」
「じゃあ、鴇田は見目麗しい、とでも言われてるのか。なんか、気に入らん」
 眉根を寄せた平澤に、鴇田は苦笑した。
「別に、言ってないと思いますけどね。俺のセールスポイントをしいてあげるなら、一応本社の課長で、分譲マンションを買ってて、そこそこ金を貯めてる、ってところじゃないですか」
 数え上げてみれば結構あるもんだな、と鴇田は思った。だが、鴇田と同世代ならどれも当てはまりそうだ。結局、セールスポイントなんてものはないのだ。
 平澤は胡散臭そうな目で鴇田を見た。煙草の灰が落ちそうだ。
「でも、おまえの結婚話に女子社員が悲鳴上げてたけどな」
「聞いたんですか」
「え?」
「悲鳴」
 平澤がぎこちなく目を逸らした。聞いた、のではない。噂話をして、悲鳴を上げさせたのだ。
「いや、今朝は俺、まだ酔ってたんだよ。で、鴇田課長がお見合いするってほんとですかあ、って訊かれたからさ」
 つい、訊かれもしないことまで喋ったのだろう。平澤は若い女子社員たちと話すことに、職場での生き甲斐を見出している人種だ。
「大体、そのとき既に若手の間では噂になってたみたいだぞ」
 緊急連絡網のことだ。一体何人、その連絡網に参加しているのだろう。
「だったらちゃんと訂正しておいてくださいよ」
 コーヒーと一緒に、溜息も飲み込む。同じ役職でも、先輩は先輩だった。
「いや、まあ、見合いしてもいいんじゃないかなあ、と思ったんだよ。おまえも、そろそろ落ち着いてさ」
 潮時だった。鴇田は温んだコーヒー牛乳を一気に飲み干した。手の中で、紙コップをぺこっと潰す。
「平澤さん、机に来月の備品購入の申請書、置いておきましたから、よろしくお願いします」
「締め切り、明日だろ。なんで、明日直接島岡に渡さないんだ?」
 言いながら、平澤は顔を歪めた。自分が発した問いの答えを、聞かなくても察したのだろう。鴇田は笑って頷いた。
「パソコンが一台、まともに動かないんです。システムにも見てもらったし、初期化もしたんですけど、どうにも」
「でも動いてるんだろ?」
「……動かなくなったら、考えてもらえますか。本当はそうなってからじゃ遅いんですけどね。まあでも、今月中に壊れますよ」
 微かに笑って言うと、総務課長は頭を緩く振った。
「おまえのことだから、ほんとに壊れる――っつうか、壊すんだろうな」
 鴇田は何も言わない。やれるだけのことはやって、駄目だったから申請しているのだ。それでも渋るなら、今のパソコンにきっぱり引導を渡すのに躊躇いはない。戦々恐々と原価計算などをしている課員を放っておくわけにはいかない。
「次に台風が来たら、俺が飲みますから」
 言うと、平澤は「その言葉、忘れんなよ」と渋々頷いた。


 会社を出て、さてどこに行こうか、と鴇田は立ち止まってしまった。途方にくれる。
 夏目からは、やはり返信がない。もう一度送ってみようかと思ったが、送信画面を呼び出しても、指が動かなかった。メール事故だとか、気付いていないということはないはずだ。それなら、向こうから連絡が来る。留守電も聞いてみたが、メッセージは一つもなかった。
 鴇田は夏目の携帯電話に掛けることにした。呼び出し音を聞きながら、駅に向かって歩き出す。規則正しい音が鳴り続ける。夏目は「着メロ」なるものに興味がないようで、デフォルトの音をそのまま使っている。だから、同じような音が鳴っているはずだった。だが、一体どこで――?
 鴇田は、真っ黒のディスプレイに、自分の番号と、アルファベットのTの字が浮かんでいるのを想像する。携帯番号とメールを登録するとき、夏目がしばらく逡巡して入力した字だった。「鴇田」でもなければ「鴇田課長」でもない。馬鹿げた夏目の葛藤を、だが鴇田は笑うことも切り捨てることもできなかった。
 呼び出し音がぶつり、と音を立てたとき、鴇田は思わず立ち止まった。期待したのは一瞬で、耳には機械的な留守番電話サービスの声が流れ込んできた。
 鴇田は一言だけ携帯に吹き込むと、ぱたんと閉じた。




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