夏果て
02
やることはやった。何となくすっきりした鴇田は、のんびりと帰路を歩いた。途中、寄り道もした。
「すぐに来い、って言った人がいないって言うのは、どう言うことなんですか」
部屋の前に立つ長身に、鴇田の頬が緩んだ。予想に反して、スーツ姿だ。部屋に帰っていなかったのだろうか。どこかで食事でもしていたのかもしれない。だからこんなに早く着いたのだろう。
どうやら相手は随分怒っているようだが、鴇田は構わなかった。反応も返ってこない、顔すら見えない状況より、ずっといい。
「途中でコンビニに寄ってた。悪かったな」
袋を掲げてみせる。だが、夏目の険しい目は緩まなかった。自分が住んでいるマンションにいると言うのに、場違いな場所に来てしまったような気分になる。鴇田はポケットから鍵を取り出すと、ドアを開けて夏目に中に入るよう促した。
「飯は? 食べたか?」
もう一度、コンビニの袋を掲げてみせる。夏目は睨むような目のまま、頷いた。
「じゃあ、飲むのは付き合え」
コンビニ弁当と、グラスを二つテーブルに出す。立ったままの夏目に坐るよう言うと、一瞬躊躇したようだが、ソファーにどさりと腰をおろした。足に両肘をついて、頭を抱えるようにする。それから小さな溜息を一つ零すと、腕の間から鴇田を見上げてきた。
「結局、鴇田さんには敵わないんだ」
ビールを注ぎながら、鴇田は首を傾げた。
「来い、なんて言われて、舞い上がって来てみたら部屋にいなくて。俺は怒って帰ればいいのに、結局待ってしまう。一言言わないと気がすまないから、って言い訳してみても、坐れと言われれば坐ってしまうんだから、文句を言うも何もない」
夏目のひどく自嘲気味なセリフに、鴇田はまじまじとその顔を見た。
「どうせ、鴇田さんはわかっていないんでしょう? 俺が何でこんな気持ちになってるか」
揶揄するような、責めているような口調に、鴇田は困った顔をした。
「今日、メールにも電話にも応えてくれなかった理由は、わかってるつもりだが……」
夏目がすっと目を細めた。鴇田は苦笑を返す。
「噂、聞いたんだろ。俺の見合い話」
「正確には、結婚話です」
「どっちも変わんねえよ。ガセ何だから」
「……大きな差があります。それに、見合い話は本当のことでしょう?」
納得していない様子の夏目に、鴇田は田上にしたのと同じ説明をした。
「だから、見合いもガセ。あれは余興みたいなもんだ。おまえ、俺が見合いすると本気で思ったのか」
夏目は目を伏せ、手をつけていなかったビールを煽った。
「鴇田さんに見合い話がきても、おかしくはないとは思ってます」
「夏目、質問には正確に答えるように、って指導されてないか」
夏目が顔を上げた。気まずそうな、だがどこか鴇田を非難するような表情だった。夏目は鴇田がこの部屋で、仕事と同じ態度を取ることを嫌う。
「正直、わからないんです。鴇田さんが見合いなんてするわけがない。そう信じたいと思っています。でも、そう思うということは、心のどこかでは、見合いをするかもしれない、と考えているってことでしょう?」
夏目の目が不安げに揺れる。
鴇田は、無性に腹立たしい気持ちになった。ビールを一気に飲む。今まで二人で過ごした時間はなんだったのだろう。
だが、ではその時間の蓄積がどれだけ二人の間を強固なものにしているかと考えれば、その強度は鴇田にも自信がなかった。
二本目のビールを冷蔵庫へと取りに行きながら、鴇田は溜息を隠せなかった。
恋愛と言う言葉ですら気恥ずかしい鴇田は、夏目には言葉を与えない。夏目はといえば、ときどき、こちらが恥かしくなるようなセリフを吐くときがある。特に抱き合っている最中には、刷り込むように夏目の気持ちを囁いてくる。思い出しても赤面ものだが、その言葉に、ある種の媚薬めいた効果があることは認めなければならない。そう考えると、言葉とは随分大切なものなんだろう。
鴇田はビール缶を取り出すと、プルトップを引き上げて直接口をつけた。少しばかり火照り始めた身体を冷やすように、ごくごくと勢い良く飲む。
吐いた息が熱い。参ったな、と苦笑する。まるでガキだ。
漠然とだが、四十も半ばになれば、もっと余裕のある性生活を送っていると思っていた。淡白でもなく、かと言って精力旺盛なわけでもない、そんな普通の夜だ。だが、実際はベッドの中のことを思い出して、身体を疼かせている。頭の中の映像だけで気持ちが昂ぶるなど、もうとっくに出来なくなっていると思っていた。
カウンター越しにリビングの方を窺うと、夏目はグラスを手にしたまま、じっとそのグラスを見つめていた。鴇田が隣に立っても、顔を上げない。
言えるわけがない。
鴇田はぐっと握られているグラスに、持ってきたもう一本の缶からビールを注ぐ。夏目がグラスを大きく煽った。鴇田も立ったまま、ビールを流し込む。
言えるわけがない。言葉だって、人を選ぶ。
「俺が見合いをすると、本気で思ってんのか」
同じ質問をぶつけられて、夏目が僅かに戸惑った顔を上げた。一瞬、目が合う。鴇田はビールを飲んで、ふいっと目を逸らした。まともに目を合わせられない。
覚悟を決める。こんなことに覚悟なんてものを必要とする自分が可笑しかった。少し笑ったら、気が楽になった。
「あのな、おまえがいるのに、俺が見合いするわけないだろ」
「鴇田さん……」と夏目が掠れた声で名を呼んだ。途端、猛烈な羞恥心が沸き起こる。
「なんだ。そんなのは当たり前だろ」
またビールを煽る。ぶっきらぼうな口調になった。
夏目は、また頭を抱えて大きな溜息を吐いた。その溜息の後に「鴇田さんはずるい」と言う。
反論はない。確かに自分はずるいのだろう。
「俺、今日は帰りませんよ」
唐突に夏目が言った。鴇田は僅かに口元を綻ばせた。帰るつもりだったのかと思うと可笑しくなる。確かに、身体への負担を考えて、今は週末にしか夏目は泊まっていかない。鴇田は別段、平日に泊まってもらっても構わないが、何もしないでただ隣で寝るだけって言うのは拷問です、と夏目に真顔で言われてからは、休みの前日以外は誘っていない。まったく夏目はいつでも律儀だ。
手首を掴まれる。「帰りませんから」と再び言われた。
鴇田は引っ張られるままに、ソファーに坐った。顎を掴まれ、口付けられても、もちろん抵抗などしなかった。
抵抗はしなかったが、色々気になることはあった。その一つ、ベッドへの移動は認められたが、スーツを脱ぐことは却下された。皺になる、と抗議はしてみたものの、クリーニングに持って行ってくれているのは夏目だ。
それでもベッド脇で、さすがに上着だけは脱がされた。だが、夏目はそれをばさりと床に放り投げた。鴇田の目はその後を追ったが、口づけを受けると、ようやく諦めがついた。そのまま、ベッドの上に倒される。
布越しの愛撫はもどかしい。夏目が自分の上着を脱ぐために上半身だけを起こしたところで、鴇田はネクタイに手を掛けた。すかさず、夏目にその手を掴まれる。
「駄目ですよ」
両手首を一纏めに持たれた。夏目の手は大きい。もちろん、抵抗すればすぐに解けたが、鴇田はされるままだった。
夏目がもう一方の手で自分のネクタイを緩めた。良く見れば、鴇田があげたものだった。あげた、と言うのは正確ではなく、新エンジン開発メンバーになったお祝いをあげようと言ったら、夏目がこのネクタイが欲しいと言った。鴇田は新しいものを買うと言ったのだが、夏目は「これがいいんです」と譲らなかった。少し織の凝った青いネクタイは安いものだが、夏目が着けるとそれなりに見えるから不思議だ。男前というのは、どこまでも得だと鴇田などは思う。
「何を考えているんですか」
夏目の非難がましい声がした。ネクタイを緩めていた手を、鴇田の顔の横につき、ぐっと顔を近づけてくる。
「おまえ、どこにいた?」
正直に「男前は得だと考えていた」とは言いたくない鴇田は、先刻からの疑問を訊くことにした。
夏目は急な質問に、眉根を寄せた。
「ここ、来る前だよ。会社にはいなかっただろ。今日は早く上がれたんじゃないのか」
ようやく質問の意味がわかった夏目は、ああ、と頷いた。
「飯、食いに行ってました」
「一人で?」
「石村とです」
鴇田は「ふーん」と思わず不機嫌な声を出した。夏目と石村は全く仲が良い。
夏目の手が緩んだ。
「メールに返事をしなかったことは謝ります。でも、俺には結構なショックで、石村が元気がないからと心配してくれて……」
鴇田は両腕を開くようにして戒めを解くと、右手で夏目のネクタイを掴んで引っ張った。噛み付くように、唇を重ねる。しばらく舌を絡めあった後、離れた口から荒い息が漏れた。
「途中で抜けてきたのか?」
「……はい。でも、仕方がないでしょう? あんな風に呼ばれたら」
鴇田は目を眇めた。留守番電話に残したのは、たった一言だ。それまでメールを無視したように、聞かなかった振りなどいくらでもできたはずだ。
夏目は鴇田の困惑はわかっているのか、苦笑した。
「……初めてだったんです。鴇田さんの部屋に来るとき、命令されたことなんてなかった。いつも、来るか? って訊かれるだけで。なんかそれって、俺次第、って感じでしょう? 鴇田さんはどっちでも良くて、来て欲しいなんて思われたことないのかと思ってたんです」
そうだっただろうか。鴇田にはわからない。鴇田にとっては夏目優先、というだけのことだ。夏目は案外繊細だ。鴇田は真上の顔を眺めた。
その顔が、ゆっくりと降りてくる。同時にわき腹から胸の辺りを弄られた。スラックスの上からは、既に反応しそうなものを膝で押された。
夏目の愛撫は的確だ。布一枚分の厚みさえ計算されているような強さで、鴇田の快感を引き出していく。
唇が顎から首筋へと移動した頃、鴇田は堪らずに口を開いた。
「夏目、そろそろ服を脱がせろ」
鴇田は口淫、という行為が苦手だ。平澤曰く「スマートなセックスをしそう」な夏目が、男の――それもずい分年上の――ものを咥えているなど、会社の人間には想像も出来ないだろう。その倒錯的な気分と、それをされているのが自分である、という恥ずかしさに、鴇田は身悶える。夏目はそれをわかっていて、好んで鴇田のものを咥える。身体は正直だ。複雑な気分は微妙なスパイスになっているようで、やたらと敏感になる気がする。だからなおさら、鴇田はその行為が嫌いだった。
だが抱き合っている間、鴇田の嫌だと言う言葉が聞き入れられたことはほとんどない。本気で嫌がっているのかどうか、見極めているらしい。
「夏目……もう、やめろ」
足の間で揺れる髪を掴む。一瞬動きは止まったが、先端を舐められて呻きが漏れた。
「夏目」と今度は少し咎めるような口調で呼ぶと、ようやく顔を上げた。そのまま無造作に手の甲で唇を拭う夏目の姿に、鴇田の背筋がぞくりと震えた。明日は仕事だ、と言いかけた言葉が出てこなくなってしまう。いつも通りに何度もやられれば、明日辛いのは鴇田だ。
夏目はじっと鴇田を見詰めてから、おもむろにその両足首を掴んだ。それを少し持ち上げると、自分の足をその下に滑り込ませる。鴇田は抱きかかえられているような格好になり、二人の腰が近づいた。両者の軽く立ち上がったものが触れそうになる。
鴇田は息を呑んだ。
触れそう、どころではない。夏目が二つを一まとめにして、両手で
包み込むようにしたのだ。
熱かった。
どちらの熱かわからないが、ひどく熱い。鴇田は二人の間のものを直視できず、夏目の肩に顔を埋めた。両手でその肩を掴む。ぴくり、と夏目の腕が震えて、一瞬手が止まった。
夏目が再び手を動かすと、湿った音が部屋に響いた。見ていない分、それも刺激になった。夏目は自分のものも一緒に持っているが、親指を使って先端を弄ったりするのは鴇田のものばかりだ。だが、鴇田が反応すれば、夏目のものも硬さが増す。そのダイレクトな反応がまた、鴇田を昂ぶらせた。
息が荒い。限界が近づいてきていた。夏目が、追い上げるように手を激しく動かした。
「夏目っ……」
思わず声を上げると同時に、爆発する。しばらく夏目の肩に頭を預けたまま、鴇田は息を整えた。案外居心地の良い場所だ。ふと気付けば、夏目も同時に達していた。
「一生結婚しないって、本気ですか」
一度達した後、夏目は手早く二人の後始末をしてから、ごろりと横になってそう言った。もう終わりか、と鴇田が拍子抜けしたような顔をすると、苦笑された。
「明日仕事だって、忘れてませんから」と言う。どうやら挿れる気はないらしい。覚悟はしていたために、鴇田は複雑な心境だった。その上「週末にたっぷり堪能させていただきます」と言われると、さらに複雑な気持ちになる。
鴇田も、隣に寝転んだ。ダブルベッドだが、男二人にはやはり狭い。
「俺、そんなこと言ったか」
そんな、約束めいたことを口にしただろうか。そう考えて、ふと、思い出した。田上の緊急連絡網だ。
「おまえもあれに入っているのか」
「中心になっている人たちの一人が、田上さんですから。入れと言われて断れません」
それは確かに断れない。特に夏目を気に入っている田上ならば、強引にでもメンバーに入れたことだろう。
「だから、朝から機嫌が悪かったのか」
「機嫌が悪かった……?」
「朝、挨拶もしないで仕事場に入っていっただろ。俺がいたのに気が付かなかったって嘘は、なしな」
横目で見ると、夏目が目を伏せたのがわかった。それから、「別にあれはそのことで声を掛けなかったわけじゃないんですけどね」と呟いた。
「じゃあ、なんで」
「それに、噂については怒ってたわけじゃありません」
「怒ってなかったって?」
夏目は頷いた。一つ目の疑問には答えるつもりはないようだが、こちらは話すつもりのようだ。顔を向けてきた。
「見合い話は、いつか来てもおかしくないとは思ってましたから。ただ、不安になったと言うか……」
不安。一体、夏目が自分の見合い話のどこにそんな要素を見出すのか、鴇田にはわからなかった。
「なんで不安になる必要がある?」
だから、そう訊いた。夏目は思いがけず真剣な顔で鴇田を見つめてきた。
「結婚ですよ? 俺はそれに対抗する術を知りません」
鴇田は言葉を与えない。それは、そんなものは、結局何の役にも立たないと知っているからだ。結婚と言う約束も、同じだった。
「結婚に対抗しなけりゃ駄目か? そんなに確かなものか? 結婚と言う約束があれば、一生ずっと一緒にいられるか?」
天井に向かって放った自分の言葉に、鴇田は心の中で「そんなことあるか」と毒づいた。約束は何も保証しない。鴇田は、わかりすぎるほど良くわかっていた。
夏目の手が、鴇田の手首をぎゅっと掴んだ。
「俺が、馬鹿でした」
夏目はきっと、鴇田が誰を思い浮かべたのか、察したのだろう。握られた手首は、痛いほどだった。その痛みを甘受しながら、鴇田は口を開いた。
「俺は、一生結婚しないつもりだよ。もう誰とも、約束はしない」
もちろん、夏目とも将来の約束を交わすつもりはなかった。それが無意味だと考えているということもある。だがそれ以上に、この若者を縛り付けたくはなかった。
夏目は何も言わない。夏目のことだ、「誰とも」には、自分も含まれているとわかっているに違いなかった。それがどこまで正確に伝わっているのかはわからないが、鴇田は説明するつもりはない。起き上がると、あれほど強く握られていた手首は簡単に解放された。身体を横に向け、足を降ろす。足元には、二人分のスーツが散乱していた。
「シャワー、浴びるか」
そう言えば夕飯も食べていない。夏目に先に入ってもらって、自分はその間に飯でも食べるか――そう考えながら振り返ると、夏目も起き上がっていた。その表情は、意外なほど穏やかだ。きっと傷つけた。そう、思っていた。
「約束は、いりません。傍にいてくれれば、いいです」
真っ直ぐ鴇田を見ながら、言った。それから、シャワー浴びさせていただきます、とベッドを降りた。
滑らかな肌の広い背中を、鴇田は惚けたように見つめた。それが遠ざかり、扉の向こうへ消えると、鴇田は長い息を吐いてベッドへ身体を投げ出した。晒された肌が、僅かに冷えていく。もうすぐ、夏も終わる。
約束はしない、と言った鴇田はでも、だからと言って他に何か与えたわけではなかった。言葉すら拒否した。それなのに、夏目は穏やかに笑って、傍にいればいい、と言う。
敵わないのは、俺の方だ。
鴇田はひとりごちた。今ごろシャワーに打たれているだろう夏目には、聞こえるはずがない。だが、それで良かった。
乱れた布団からは、自分以外の男の匂いがした。嫌悪感はもちろん、違和感すら感じない。いつの間にか、すっかり馴染んだ匂いだった。
鴇田は一際大きく深呼吸をすると、勢いをつけて立ち上がった。それから、散乱する服を呆然と眺めた。
この服をもう一度身につけて、食事をするか。それともシャワーを浴びてから、遅い夕食をとるべきか。鴇田はしばし本気で、悩んでいた。
(了)