* 02




青空でさえ知っている

01

 頭の中で音楽が流れていた。実家に帰るたびに聴かされ、カラオケで歌わされ、あげくに勝手に着メロにまでされた曲だ。と言っても、その曲は嫌いではなかった――むしろ好きだった――から、今もまだ、姉からの着信はその曲に設定している。
 ――えーと、なんだっけ?
 ど忘れした。歌ったのは数年前で、歌詞もおぼろげにしか思い出せない。でも思い出しておかないと、「サザン命」の姉にどつかれる。安里(あさと)は足で小さくリズムを取りながら、懸命に曲名を思い出そうとしていた。
 朝の教室は少しだけ緊張していて、少しだけだらけている。新学年になって、新しいクラスの仲間にどことなく気の抜けないような気持ちはある。だが、学校も寮生活も二年目にもなると、ほとんどの顔は見知っているから、目新しい興味はない。例えば今現在、教壇に立っているクラス委員長は、寮の関係上、一年の時に既に選ばれていた十二人の一人だ。誰がどのクラスになるかは、始業式の今日にならなければわからなかったが、つまりは信頼の置ける生徒であると、学年全員が知っている。
 この委員長のように、一年の終わりに既に「職」が決まっている生徒は何人かいる。安里は同じクラスではないが、一年のときに入っていた図書委員会では、三年生ではなく、同じ新二年生の守谷雅道が委員長となることが決まっていた。
 委員長だったり、部長だったり、どれだけ小さくても二年生以上の「組織」の長は一人部屋となる南寮が宛がわれる。そのために、前年度中に長を決めるのが九重の慣わしだった。ちなみに安里が属する二年J組は西寮だ。
 音楽はまだ流れている。もの凄く有名な曲なのに、どうして忘れてしまったのだろう。部屋に帰れば、姉から勝手に送られてきたCDがあるから、すぐに判明するはず。だが、頭のつむじ辺りにもう答えが顔を出してきている気がする。
 ――うー、気持ち悪い。
 もう少しなのに。安里は頬杖をついて、ぼんやりと前を見た。目は副委員長が黒板に書いている文字を追っているが、頭の中は曲名のことばかりを考えている。
 黒板には、〈図書委員 中ノ瀬安里〉の文字がある。一年に続いて無事図書委員になることができて、安里は今日一日の使命を終えた気分だった。といっても、他になり手がいなかったため、ごくすんなりと、何の問題もなく決まったのだが。
 ここ、九重大学附属高校は、山の中腹にある全寮制の学校で、周りに娯楽施設はない。下の町までバスで三十分はかかるし、帰りのバスは予約をしなければならない。そんな状況だから、放課後を有意義に使わせようと、九重では部活動または委員会に入ることが義務付けられていた。
 安里には格別入りたい部活動がなかった。部活必須だった中学時代は、最も自由な美術部で、一年に一枚、文化祭に向けて絵を仕上げれば良かったから、活動時間は高が知れていた。それさえ提出すれば、顧問も仲間も何も言わなかったから、安里にとってはとてもありがたい部活だった。空いた放課後は、ひたすら大好きな読書に励んでいたからだ。
 委員会に入らなければならなくなった去年、だから安里は図書委員に立候補した。九重には、「図書室」ではなく「図書館」がある。校舎と廊下で繋がれてはいるが独立した二階建ての建物で、ちょっとした市立図書館並に広い。毎年のようにOBからの寄贈があるため、蔵書も多い。安里にとっては夢のような場所だった。
 入ってみれば、図書委員会は別名「図書クラブ」と呼ばれるほどに、本好きの人間の集まりだった。司書の先生は新刊情報のチェックに余念なく、本も恐ろしいほど読んでいる。先輩たちもそれぞれ得意分野があって、情報交換が活発だった。自分も結構本を読んでると自負していた安里は、彼らにはまだまだ及ばないことを、最初の一日で悟った。
 その先輩たちと対等にやりあっていたのが、今年の図書委員長、守谷雅道だった。実用書から恋愛小説まで、興味のあるものなら何でも読み、そのタイトルから作者、内容までを覚えているから、委員会の中では「歩く目録」と呼ばれていた。先立って行われた委員長を決める会議では、三年生も含めて、全員一致で委員長に決まったのも当然だった。
 その守谷を始めとする「図書クラブ」の面々は、安里にとって唯一気兼ねなく話ができる人たちだった。安里がどれだけ熱く本のことを語っても誰も引いたりなんかしないし、話題はほとんど本のことだ。中学時代、ゲームやテレビ、芸能関係の話題についていけずに友達ができなかった安里にとって、「図書クラブ」は居心地の良い場所だった。
 委員会のことを考えていたら、音楽はいつの間にか消えていた。こうやって、他のことに気を取られて、その話題をちょっと忘れてからまた思い出すと、結構すんなり名前がでてきたりするんだよな、と安里は思って、また頭の中で音楽を再生してみようとした。
 ――出だしは確か、風に……。
「それなら、中ノ瀬がいいな」
 突然自分の名前を呼ばれて、安里はびくりと身体を小さく震わせた。何? と顔を上げてみたら、委員長が「どう?」と微笑んだ。
「え?」
 話が見えない。というよりも、安里はすっかり話など聞いていなかった。慌てて黒板を見ると、全ての委員の下に名前が書いてあり、後は最後のイベント実行委員を決めるだけになっていた。だがそれも、既に四名の名前が書いてあった。
「実行委員は最低五人。生憎、このクラスは部活持ちが多いから、忙しい実行委員になれって言うのはちょっと酷だろ。委員会のほうでは掛け持ちも了承してて、その場合はもう一つを優先してもいいことになってる。だから」
 中ノ瀬、やってみない? と言われて、安里は呆然と発言者を振り返った。その相手は、にっこりと笑っていた。その爽やかな笑みは、健康的に日焼けをした、整った顔に嫌味なくらい似合っていた。安里は思わず、どきりとする。
 彼もまた、一年次に南寮行きが決まっていた人物だ。花形といわれる、イベント実行委員会の二年代表、日尾理(ひお・さとる)。一年のときはクラスも寮も違ったが、彼の噂は安里の耳にも届いてきていた。曰く、カリスマ性のあるお祭屋。盛り上げるためならなんでもするが、統率力もあり、目配りも忘れない。安里たちが一年のとき、入学式で「団結」するのに失敗した自分たちが、すぐ翌月の五月と言う早い段階で学年の団結力を高めることができたのは、この日尾理のおかげ、と言われていた。
「え? 俺?」
 なんで、と怪訝な表情で日尾を見てみるが、彼は笑って頷いただけだった。少し、困ったような顔もしている。入って欲しいんだ、助けてよ。そう言われているような気分になる。
 何も言えずにいる安里と、黙った理を見ながら、クラス委員長が頷いた。
「確かに、部活にかけてる奴らに実行委員は勤められないよなあ。今決まってる内訳でいけば、掛け持ちなしの完全フリーが、日尾を入れて二人。映研の綿内は、どうせ映画イベントを増やしたいっていう下心があるんだろ? ってことは、実行委員の奴隷だし」
 奴隷って、と綿内が絶句した。それから、大きなため息を吐いて「限りなく事実だと思うと泣ける」とがっくり肩を落とした。がたいが良くて、熊を思い起こさせる綿内がため息を吐くと、しょんぼり感が倍増する。クラスには、くすくすとした笑いが漣のように広がった。
「三人がフルでできるなら、後の人間の負担はかなり減るよな。兼業でもやれそうだな」
 委員長の言葉に、日尾も頷いている。安里はどうしたらいいのかと、二人を交互に見つめた。イベント実行委員――自分に、最も遠い委員会な気がする。
「それに、この四人はみんな実行委員経験者だろ? 中ノ瀬も図書委員は経験者。なんとかなると思うんだけど。駄目もとでやってみない?」
 発案者は熱心だった。今やクラス中の注目を浴びて、安里は固まってしまっていた。
 どうして。なんで。疑問だけが頭の中を回っている。イベントの度に話題の中心にいる人物が、どうして自分を指名しているのか、安里には本当にわからなかった。接点はない。今まで、話したこともなかった。そもそも相手が、自分を知っていることに驚く。一年のとき、彼が活躍するイベントでは、安里は隅で覗かせてもらう――そんな感じだった。
「さっきも言ったけど、図書委員優先でいいからさ。俺はありがたくないことに、二年代表だから、ある程度融通もきかせられる。それとも――嫌か?」
「嫌ってことは……」
「どう? 反対の人、いる?」
 委員長の声に、誰も手は挙げなかった。
「じゃあ、とりあえず、中ノ瀬やってみてくれないか? 何かあったら、日尾がみんな責任とるし」
「何だよそれ」
「おまえが頼んでるんだから当たり前だろ? 両立、無理そうだったら俺にも相談して」
 ね? と委員長に言われ、安里は思わず頷いてしまった。そしてそれが、引き受けると言う了承の印にもなってしまった。
 呆然と日尾を見ると、よろしく、と笑顔で言う。安里はそれに応えることはできずに、目をぱちぱちさせると、前に向き直り、左手で前髪を掴んだ。
 頭が混乱している。さっきまで、また同じ一年が始まると思っていた。勉強をして、本を読んで、図書委員の仕事をして――イベント事は、こっそり控え目に、自分なりに楽しんで。そう言う、平凡だが穏やかな一年間が待っていると、思っていた。それが、突如その中心に立てと言われるとは。
 ――なんか、突然の大波に呑み込まれた感じ……。
 そう思ったら、さっきまで欠片も思い出さなかった曲名が、ぽんっと頭の中に浮かんだ。
 ――ああそうだ。「TSUNAMI」だ……。
 頭の中はすっきりした。だが、気持ちは混乱と不安で一杯で、安里の顔が晴れることはなかった。


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