青空でさえ知っている
02
イベント実行委員は、一クラス最低五人は確保しなくてはならないが、逆に言えば、五人以上も可能と言うことだ。ただし、上限は十人と決まっている。イベントの企画発案から実行、片付け、報告とたくさんのことをこなさなければならないため、人数は多くても困らない。その上、お祭り好きの九重生には、直接準備段階からイベントに関われる実行委員のポストは、引く手あまただった。
その人気職のはずのイベント実行委員が、二年J組において最後に、なかなかなり手がいなかったのには、訳があった。安里はそれを、すぐに知ることになる。
――いや、知らなかった自分がにぶいというかなんというか。
あまりに自分とは違う世界だと、無関心に近い状態だった自分を、安里は猛烈に反省した。
安里を除くJ組の実行委員四人は、みんな一年次から仲の良い、友人――というより、よりしっくりくる言い方をすれば仲間――だったのだ。
日尾は、一年の前期からイベント実行委員をしていた。そこで、四人のうちの一人、二葉信吾(ふたば・しんご)と会い、意気投合したらしい。去年の「五月の節句対決」では、既に日尾の片腕のような役割を果たしていたということだった。その二葉と寮で同室だったのが、綿内篤弘(わたうち・あつひろ)だ。
綿内はその頃から映画好きで、二葉に何か映画のイベントができないかと相談を持ちかけた。そこで、日尾と二葉の協力で、野外映画上演会を企画し、見事成功をおさめた。夏休みに入ったばかりの頃に開かれたその上演会を、安里も良く覚えている。大きな白いスクリーンが校舎正面に張られ、観客は大階段に坐って、迫力のあるその画面を見つめた。圧巻だったのは「注意! 少しでも怖がりな人は、絶対に来ないで下さい」と赤文字で宣伝されたホラー特集で、あれは最高に怖くて、面白かった。
あれが、一年の企画だったのか……。
安里は、酷く驚いて感嘆した。あの夏以来、野外上演会は熱望され、何度も開かれている。もちろん、安里は毎回見に行っていた。
その上演会の中心となった綿内と、最後の一人、吉岡路(よしおか・みち)は幼なじみということだ。小柄で繊細な顔立ちをした吉岡は、外見とは裏腹に、空手をしている元気な人物だ。だからイベントの度に血が騒ぐそうで、綿内が期間途中からイベント実行委員になった後を追って、自分も入ったらしい。この四人は一年の実行委員の中心となり、去年は大いに活躍した。
これら全ての情報を安里に話してくれたのは、図書委員長の守谷だった。
二人は向かい合って、新しい蔵書に透明なカバーを貼り付けているところだった。今年度一回目の図書委員会は、委員長以外の役職決めや当番決めはさっさと終わらせ、新たな蔵書の整理整頓に大幅な時間を割いていた。何しろ、新学年のお祝いと、五百冊以上に及ぶ寄贈が重なり、仕事は山積みだった。
本当は、安里は実行委員会もあったため、会議が終わった後はそちらに向かっても良いと言われた。だが、安里本人が断ったのだ。
実行委員会はとにかく忙しい。そのため、通常の委員会よりずっと早くに第一回の委員会は開かれていた。新学期になって二週目だというのに、今日は既に第三回。三日に一度の割合で開かれている。
第一回のときから、安里には、その場に自分がいることへの違和感があった。自己紹介は誰もがはきはきと元気で、一年生でさえ、堂々としていたように安里には思えた。それが自分は、小さな声で怯えるように名前を言っただけで、かろうじて「よろしくお願いします」と付け加えられたのは、奇跡だったと思っている。
場違い。それがもっとも的確な言葉だと安里は思う。推薦したからには責任があるからか、日尾はそんな自分に気をつかって話し掛けてくれる。だが、親密で全部を言わなくても分かり合えているような雰囲気が四人にはあって、安里は二年J組の実行委員たちといるときでさえ、場違いな場所にいる気分になった。
実行委員の方はいいの? と訊いてきた守谷に、安里はそのことを正直に話した。彼もなかなか掴めない性格をしているが、相談には親身になってのってくれる。本の知識だけで、二年ながらに委員長に選ばれたわけではないのだ。
だからね、と守谷は布でフィルムと本の間の空気を丁寧に押し出しながら言った。
「四人がまあ、仲が良いのは仕方がないというか。彼らが同じクラスになったなら、実行委員のメンツはもう決まってたみたいなものだよ。周りもそれを期待していたはず。でも、一人足りない。その一人をどうしようか、っていうのは、委員長にも、その本人たちにも、難題だったんじゃないかな。だから、日尾が指名するならそれが一番いい方法だったと、俺も思う」
実行委員の二年代表。つまりは後の委員長といってもいいわけで、その日尾が推薦すれば、確かにみんなすんなり賛成するだろう。でも――。
「なんで俺だったんだろう?」
あまりに上の空だったのがばれたとか? と冗談交じりに呟いてみるが、実際それ以外に思い当たる節がなかった。と言っても、日尾がそんなことぐらいで自分を指名してくるとは思えないし、第一彼は安里より後ろの席で、顔も見えてなかったはずだ。
「上の空って、自分は決まったから、全然聞いてなかったってこと? 中ノ瀬って、ときどきどっか違うとこ行っちゃうよね」
「えー? 別にそのときはどっかに行っちゃってたわけじゃないよ。頭の中にぐるぐるサザンの歌が流れててさ。タイトル、なんだったかなあーって考えてただけで……」
結局なんだったの、と訊かれて、今度は覚えている曲名を答える。守谷が「どんな曲だったっけ?」という顔をしていたので、少しだけ、小さな声で歌ってやる。
「ああ、あの歌か」
「姉ちゃんがすごいファンなんだよね。まあ、CDとか喜々として買ってくれるからいいんだけど」
コンサートに連れて行ってくれたときもあった。そのときは、服まで買ってくれた。それを言うと、守谷は「すごいな」と目を見開いた。安里も思わず苦笑する。
「って、それが原因とは思わないけど。俺、日尾とは話したこともないと思うんだ」
去年は寮も違ったしね、と首を傾げる。
「そんなに気になるんだったら、本人に訊いてみれば?」
ほら、こっち来るし。と守谷がにっこりと笑って、安里の後ろを目で示した。びっくりして振り返ると、数メートル先のカウンターの端で、なにやら紙を手にした日尾が、じっと安里たちを見ていた。
――怒ってる……。
安里には、そう見えた。こっちを見てるのではなく、睨んでる。やっぱり、行かなかったのはまずかったかな。安里は、目を伏せて、俯きながら顔を正面に戻した。
「中ノ瀬、怯えてる?」
からかい混じりの守谷の声がする。そっと上目遣いでその正面の顔を見ると、なぜか頬が緩んでいた。
「だって、睨んでるよね?」
「んー……、中ノ瀬を睨んでるかどうかはわからないけどね」
守谷はそんな、わけのわからないことを言う。彼が睨むなら、会議をサボってる自分に違いない。安里は、もう綺麗にフィルムを張り終わった本の表紙を、所在無さそうに何度も布で擦った。守谷はぺらりと新しいフィルムを台紙から半分剥がし、慎重に本に貼り付ける。空気を抜くために布を手にとって、ぽつりと言った。
「後姿、それも坐ってるのに、中ノ瀬だってすぐわかるんだね」
「俺、日尾より前の席だから」
安里の答えに、守谷が苦笑した。
安里は立ち上がるべきか否か、迷っていた。今更行くというのも、なんだか白々しいよな、と頭を抱えたい気分だった。
ちらりと後ろを見ると、日尾はカウンターの中にいた図書委員からノートを受け取っているところだった。ああ、コピーしに来たのだ、と安里はその様子をそっと伺う。ノートには名前や使用目的、所属を書く。日尾は記入を終えたところで、くるりと身体の向きを変えて、安里たちの方に向かってきた。安里は慌てて、正面に向き直った。助けを求めるように守谷を見るが、なんだか面白そうに笑っているだけだ。
「中ノ瀬」
呼ばれて、安里はびくりと身体を震わせる。「はい」と小さな声で返事をすると、頭上から溜息が落ちてきた。
「今日、こっちも会議あるって、言わなかったっけ?」
「……聞いた」
「図書委員会は終わった?」
終わったのか? と首を傾げると、また小さな溜息。自然に身体が縮こまる。
「人手が足りてないのか?」
安里が答えずに守谷を見ると、肩をひょいっと上げて「万年人手不足だからね」と言った。
守谷はにやにやと笑って、安里の頭上を見ている。安里は怖くて振り返れなかった。非常に居心地の悪い、沈黙の時間が流れた。
その沈黙を破ったのは、日尾だった。
「抜けられるんだったら、顔出して。節句対決の分担決めがあるから」
もの凄く冷たい声だった。やっぱり怒ってる。安里は「はい」と小さく返事をした。怒っていて当たり前なのだ。なにしろ自分は、会議をサボったも同然なのだから。
日尾はくるりと二人に背を向けて、今度こそコピー機に向かって歩いていった。
「おっかないねー」
守谷はそう言いながら、くすくす笑っている。安里はまだ身を小さくしたまま、その顔を睨んだ。
「なんか楽しそうだね、守谷は」
「まあねえ。人の事は楽しいよ。それにしても、治らないね、中ノ瀬の人見知りは」
安里はふうっと息を吐き出して、ようやく緊張を解いた。
「治るのかな、これ……」
昔から、安里は極度の人見知りだった。子供の頃には母親も相当苦労したようで、それなのに全寮制の九重に入ると言ったときは、心底驚いていた。と言っても、この春卒業した三年生に、兄のように慕う従兄弟がいた。そうじゃなかったら、安里だって九重に入る気など起こらなかった。従兄弟の話す高校生活はそれは楽しそうで、地味で大人しい中学生だった安里は、とても憧れた。それに、人見知りも治せるかも……と淡い期待を抱いたこともあった。
「まあ、何度も顔を合わせれば、そのうち普通に話せるからな。慣れるのが一番じゃないか?」
守谷はそう言って、安里の目の前の本を持ち上げて、フィルム張りが終わった本の山にぽんっと置いた。とっくにそこに積まれなければならなかった本だ。それからきょろきょろと周りを見て、三人一組となっていた一年生の一人に声をかけて、呼んでいる。
「え? 守谷?」
「中ノ瀬は終わり。さっき、顔出せって言われただろ? ついでに、早く慣れて来い」
ほら、と目線で指し示された場所では、日尾が一人でコピーをしていた。一クラス五人と考えても、全部で百八十人。コピーしたい書類は何枚かあるようだから、相当な数だ。それを一人でやっているのか……そう思ったら、安里も立ち上がらないわけにはいかなくなった。
日尾は出てきた紙を、とんとんっと隣の机で揃えていた。それを見て、指、長いんだな、と安里は思った。
三種類の書類を並べて、順番に一枚ずつ取る。三枚で一部の資料を作るのだろう。安里がそれを手伝おうかと思ったとき、コピー機からピー、ピー、と音がした。紙がなくなったらしい。日尾はちっと舌打ちをして、くるりと振り向いた。それから、目を丸く見開く。すぐ後ろに安里がいたことに、気付いていなかったようだ。
「中ノ瀬?」
「あ、紙。持ってくる」
コピー用紙は、カウンター裏の倉庫にある。基本的に図書委員以外は出入りできない。安里は急いでコピー機横の倉庫に入り、A4のコピー用紙の束を抱えた。
紙をセットすると、ありがとう、と声が聞こえた。屈み込んでいた腰を伸ばすと、優しく微笑む日尾がいた。
――こんな顔もするんだ……。
安里はどことなく顔が赤くなっている気がして、俯いた。
「どうしたんだ? まさか紙がなくなることを予想して来た、とかじゃないよな?」
「え、あ……。あの、手伝う」
安里は机に並べられた書類に手を伸ばす。左から右へ、上ヘ重ねる。いち、に、さん。心の中で数を言いながら、安里は手を動かした。
「図書委員の仕事は? もういいのか」
日尾は新しく吐き出された紙を持ち上げ、机の端のほうで揃える。今度は間近で見ることになった指は、やはり長く、ごつごつとした、男らしい手だった。どちらかと言えば華奢な手の印象がある安里には、羨ましい限りだ。
頷くと、小さな溜息がすぐ隣から聞こえた。途端に、いたたまれないような気分になる。
三枚を重ねて一部となった資料は、縦、横と交互に置く。数はそれほど多くなかった。たぶん、クラスに一つ配られるのだろう。
それが終わった頃には、残りのコピーも終わったようだった。そちらは一人一枚ずつ、このまま持っていって配ると日尾が言う。
日尾にさっき作った三枚一部の資料と、原本の入ったファイルを持っていくように頼まれ、安里はそれを両手で持った。なんとなく、日尾の後ろをついていく。
「嫌だったか?」
ふいに訊かれて、安里は顔を上げた。日尾は図書館から校舎へ続く渡り廊下に立ち止まって、安里を見ていた。
「え――?」
「実行委員になるの、本当は嫌だったのか?」
開け放たれた窓から、風が入って、安里は持っている資料が飛ばないように、慌てて抱えなおした。日尾はじっと、安里を見ている。その強い視線に、思わず、俯いた。
今更嫌だと言って、何か変わるだろうか。強引だったのは日尾だ。だが、断れなかったのは安里だ。
安里が何も言えないでいると、日尾はふいっと目を逸らして、溜息をついた。これで何度目の溜息だろう。安里はひどく哀しいような気分になった。自分は、溜息ばかり聞いている。
「俺が勝手な思い込みをしてただけだったんだな。中ノ瀬は、本当はイベントとか好きなんじゃないかって思ってたんだ。悪かったな」
日尾は自嘲気味に微笑んだ。安里は何度も、首を振った。
「もう時間がないから、節句対決までは、悪いけどとにかく実行委員でいて欲しい。俺もなるべくフォローする。だからそれまで、我慢してくれないか」
日尾が何を言い出したのか、安里にはすぐわからなかった。ぽかんと見上げると、日尾はくるりと安里に背を向けて、歩き出した。
「その後、委員長にも相談してみるからさ。誰か他に、実行委員できないか」
ようやく日尾が何を言っているのか飲み込んで、安里は困惑した。つまりは、やめていいってこと?
嬉しい、とは思わなかった。だが、正直ほっとした。例えばこれから行く会議でだって、安里は意見など言えない。だからこの間までの会議では、記録を取ることに集中していた。議事録を取る生徒は、他にいると言うのに。
日尾はどんどん遠ざかる。安里は慌てて、その後を追った。安里には、実行委員なんて、とてもじゃないが務まらない。だが、委員会を途中でやめるというのは、無責任だ。それならせめて、日尾が言った、五月の節句まではきちんとやる。
安里はそう決めた。
階段の途中で、日尾に追いついた。というより、どうやら日尾が待ってくれていたようだ。
西日が、窓から差し込んでいた。階段に長く、日尾の影が伸びていた。安里は急いで日尾のところまで、駆け上る。待たせてごめん、そう言おうと思った。
「ごめん」
突然耳に飛び込んできた呟きに、安里は目をぱちりとさせて、日尾を見上げた。強烈な西日の陰になって、その表情は見えなかった。日尾が一体何に対して謝ったのか、よくわからない。ただ、ぽつりと落とされたその呟きは、ひどく淋しそうに響いた。