春の夜を疾走し 01
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春の夜を疾走し

01
 規則正しい笛の音がしていた。梅野は校舎の大階段を下りたところでふと立ち止まって、目の前の校庭を眺めた。夏休みが終わったばかりで、まだ蒸し暑い。
 競技用トラックの端で、二人ずつ並んだ陸上部員がスタートの練習をしていた。スタートラインで片膝をついて構えて、顔を上げる。用意、の声で腰を上げ、笛の音で走り出す。一瞬の張り詰めた空気が見えるようで、梅野はしばらくそれを見ていた。
 黙々と、何度も練習する部員の中に、同室の高居がいた。ついこの間もインハイで決勝まで出たと言う話で、九重の中でも有名人の一人だ。
 二年に上がって、新学期のくじ引きで同室になった高居と梅野は、ほとんど知らないもの同士だった。梅野は運動には全く関心のない生徒だったし、高居は逆に部活にばかり力を入れているような生徒だった。それは今でも変わらず、同じ生活空間で過ごすようになって半年近くが経つと言うのに、二人は全く親しくない。お互い仕切った自分の空間にいることが多いし、互いに関心もないから、話をすることも稀だった。だからと言って他人が心配するように居心地の悪い関係な訳ではなく、用があれば声を掛けたりもする。無関心同士だからこその、理想的な同居人だといえた。
 トラックの高居たちは跳ねたり足踏みをしたりして、身体を動かしている。マネージャーなのか、笛を吹いていた生徒はいつのまにか手にピストルを持って空に掲げていた。
 高居がスタートラインに着く。先刻と同じ動作を繰り返し、ぱあん、と音がして、走り出した。
 まっすぐに、ゴールを目指す。揺れない身体はただまっすぐに、目の前を走り抜けていった。
 梅野はなんとなくそこから目を逸らして、寮へと歩き始めた。


 高居の無関心さに梅野が救われるのは、特に夜だ。点呼が終わってこっそり部屋を出て行っても、一度も何かを言われたことはない。気付いていないのかもしれないし、気付いても放っておいているのかもしれない。どちらにせよ、詮索されたくない梅野にしてみればありがたいことだった。
 東寮の一階、コインランドリーの隣の倉庫部屋は、一部でラブホテルと言われている。先輩の誰かが置いていったソファーベッドがあり、やはり誰かがこっそりと作った合鍵が、とある場所に隠されている。そこに鍵がなければ使用中、ということだ。
 西寮にも同じような部屋はあって、男同士でカップルになるような風習がある九重内で、重宝されているらしい。シーツ持参で、決して汚したり壊したりしないという暗黙の了解のもと、寮長達にも黙認されている場所だった。
 梅野がここにくるのは、二週に一、二回。相手からの呼び出しによる。こんな場所があることは、二年の初夏まで知らなかった。
 明かりの点いていないコインランドリーに入ると、呼び出し相手の古柴は既に来ていた。ちゃりちゃりと静かな空間に響いているのは、鍵の音だろう。古柴は大概、こうして暗い中、鍵を弄びながら待っている。
 古柴は何も言わずにコインランドリーを出ると、隣の部屋を開けた。梅野も言葉を発しないまま、後から倉庫部屋に入る。先輩たちが置いて行った家具類が置いてある部屋は、狭いが整ってはいる。どれほどの利用者がいるのか梅野は知らないが、中には綺麗好きな人間がいるのか、掃除されていることも多かった。
 投げられたシーツをベッドにしたソファーに掛ける。どうせぐちゃぐちゃになると言うのにきっちりと端をマットの下に入れるのは、梅野の習慣のようなものだった。そうやってぴんと張るようにシーツを敷いているとき、何とも言えない気持ちになる。
 こんなところで、何故自分は古柴に抱かれるのか。なぜ――恋人であるはずの男の弟と、こんなことをするのか。
 古柴が悪いわけじゃない。
 最初は、確かに無理矢理に近かった。誰もいない天文部の部室で、下半身を遊ばれて、携帯で写真を撮られて、兄に送ってやると脅された。
 でも、それに屈したのは自分だ。あのとき、必死になって逃げることだって出来たはずだ。そして抱かれたとき、兄弟だけあって似ているこの同級生とその兄を重ねなかったとは言わない。
 ――兄貴に相手にされなくて、淋しいだろ?
 最初に古柴が言った言葉も嘘じゃない。卒業と同時に、古柴先輩とはほとんど会わなくなった。
 いっそうのこと、きっちり振ってくれれば良かったのに。
 そう思いながらも、梅野は自分から離れることもできないとわかっている。ときどき電話を掛けてしまうし、相手から連絡がくれば嬉しくて仕方がない。会っても決して以前のような甘い雰囲気にもならなければ互いに物言いたそうな顔をし合っているのに、梅野はまだ、古柴智を諦めきれていなかった。弟の慧(けい)に抱かれているのも、いい証拠だ。「先輩でも、兄貴の名前でも、好きな風に呼べばいい」古柴のその言葉に従うことは少ないが、ときどきどうしようもなくて、頭の中で「智先輩」と叫んでいるときがある。それが洩れ出てしまうときがあることを、梅野は気付いていなかった。
 ふっと風を感じて顔を上げると、窓が開いていた。夜になれば山の中のここはそれほど暑くないが、締め切ってあっただけあって、確かにすこしむっとする。だが、こんな風に開け放して事に及ぶなど梅野にはできなかった。
「何してるんだ」
 窓に向かったところで、手首を掴まれた。
「窓、開いてるから」
「閉めたら暑いだろ」
「でも、声が……」
 ふんっと、鼻で笑う声がした。そのままぐいっと手を引かれて、ソファーベッドに引き倒される。見上げたところに、古柴の人を小馬鹿にしたような顔があった。
「今更だろ」
 言いながら、古柴の手が梅野のパジャマのズボンをずり下ろした。下着の上から撫で上げられ、梅野は目を閉じた。そのまま手が中に入ってきて、後ろを探る。ぬるりと、指が入ってきた。
「――しっかり用意までして来てるくせに、今更だろ」
 ぐいっと荒々しく腕を引かれて、起き上がる。古柴の顎がくいっと動いて、梅野を促した。
「して欲しいなら、こっちの準備もやれよ」
 梅野は表情のないまま、古柴のズボンと下着に手を掛け、中のものを取り出した。そのまま躊躇いもせず、口に含む。手と舌を存分に使って、それを立ち上げる。
 二年前まで、こんなことは知らなかった。これを口に含む行為も、含まれる行為も。どうしたら男が喜ぶのか、そんなことは、知らなかった。教えたのは、全てこの男の兄である、古柴智だった。
 同じ天文部で、優しい先輩だった。口下手で無愛想で人見知りの激しい梅野に、苛立たずにじっくりと付き合ってくれた。色々な本も教えてくれたし、夜中に一緒に星を見ながら、色々な話もした。
 人の輪になかなか溶け込めない梅野にとって、智は初めての、心から安心できる、一緒にいると楽しい相手だった。二歳しか違わないはずなのに、天文学については驚くほどの博識で、尊敬もしたし、憧れもした。
 それがいつ恋になったのか、梅野は覚えていない。夜に二人で星を見ているときにキスされて、嫌ではなかった。それが自覚した瞬間だった。
 無心で舐めていたら、急に髪を掴まれて、引っ張り上げられた。突然口に含むものを取り上げられた梅野はぽかりと口を開けたまま、唾液と先走りをそこから垂らした。古柴の怒ったような苦しいような目が見えた。
 乱暴に、倒される。手荒い動作で両足を持ち上げられて、梅野は来る衝撃に目を閉じた。意識して、力を抜く。それでも貫かれる瞬間は、いつも痛さと気持ち悪さが抜けきらない。
 古柴は梅野の様子を見ることもなく、自分勝手なままに身を進めた。それから間を置かずに、動き出す。梅野はただ痛みと圧迫感と気持ち悪さを、懸命に逃がすことに集中する。
 古柴がいつから、こうして乱暴に抱くようになったのか、はっきりは覚えていない。最初も乱暴だったし、その後も決して優しかったわけではない。でも、傷つけるようなことはしたことがなかった。事務的なほどの手順で後ろを解し、きちんとコンドームもつけて、ゆっくりとことを運んだ。それが、いつからか、それらの手順を一切省くようになった。
 初めて慣らしもせずに挿れられたのは、夏のことだ。お互い帰省から寮に戻った後だった。そのとき、最初から機嫌の悪さを隠していなくて、梅野は初めて古柴を怖いと思った。あのときのことを思い出すと、今でも身体が竦む。何度かそんなことがあって、梅野は自衛のためにも、学校が始まってからは自分で前もって準備をしていくようになった。こんなことで、学校を休むわけにはいかない。それだけは寮生活の不便なところで、休むことを風邪だなんだと誤魔化すことは難しい。
 一方的なまでに自分の快楽だけを追っていった後は、古柴は今度は梅野の快楽を引きずり出すことに集中する。ときには、懇願して、泣いて、ようやく許してもらえることもある。そんなときの方が、梅野はぐったりと疲れてしまう。
 今日も散々堰き止められて、うわ言のように「いかせて」と懇願して、ようやく解放された。そのあまりに鮮烈な快楽に、梅野は意識を飛ばした。
 目を覚ましたときには、古柴はもういなかった。梅野はぐちゃぐちゃのままのシーツにくるまって、精液に塗れていた。
 ため息しか出てこない。どうしてこんなことになったのか、わからない。
 古柴が何故、兄と付き合っている人間を抱こうと思ったのか、それもわからなかった。最初は、好奇心かと思った。あんたも放って置かれて可哀想に、と言われて、変な同情をしているのかとも思った。でも、古柴は一度も梅野を抱く理由を言ったことはない。
 今は、ただの性欲処理――。
 そう思ってでも、自分も大して変わらないんじゃないか、と梅野は自嘲の笑みを浮かべた。在学中は智には随分と可愛がってもらっていたから、今は身体の熱を持て余してしまうこともある。
 ――淫乱。
 やられている最中に、古柴が言った言葉が胸を刺す。言い返すことなど、出来なかった。
 のろりと立ち上がって、梅野はパジャマを着直し、シーツを適当に丸めた。次のときには、自分がこれを洗って持って来なくてはならない。
 ――次なんて考えてるのか、俺。
 自分の馬鹿さ加減に、梅野は笑いたくなった。
 慧は、智ではない。ちょっと大人の雰囲気も、天文に関する知識もなければ、優しくもない。ただちょっと目が似ている。手や腕の逞しさが似ている。それだけだ。
 ――それだけ。
 梅野はふらふらと窓際に向かっていった。戸締りも、ここの使用条件の一つだ。そう思ってふと、引っかかった。
 それならば、窓は何故開いていたのだろう。決して良い意味で使っているわけではないから、みんなひどく神経質なまでに条件を守っている。閉め忘れた、ということは考え難かった。
 ――古柴が前もって開けていた?
 暑いといっていたから、そうかもしれない。梅野は詮もないことだと窓に手を掛けた。
 窓は、僅かに開いているだけだった。入ってきたときは、全開だったのに。
 その僅かな隙間から、冷たい風が流れ込んだ。梅野は泣きたいような気分になって、ゆっくりと窓を閉めた。


 バスの窓から見える木々はすっかり葉を落として、寒々しい格好をしている。高居はマフラーに口元を埋めて、小さなため息を吐いた。季節はいつの間にか冬になっている。時が流れるのが、速過ぎる。
 ずるりとだらしなく上半身をずらすと、隣でかさりとコンビニの袋が音を鳴らした。中には鍋焼きうどんが二つとお握りが入っている。出かけに、同室の梅野と珍しくキッチンで顔を合わせたから、何か買って来ようかと訊いたのだ。明日の日曜日は、生徒たちは自分で食事を用意しなければならない。
 梅野修平という人物について、高居は他の同級生と大して変わらない情報しか知らない。大人しそうで、真面目で、少し無愛想。男にしては線が細い印象がある。話し掛ければ答えるが、滅多に自分から話し掛けてくることはない。部屋の中でも、いるのかいないのかわからないことも多い。それに加えて、どうやらコーヒーより紅茶派らしいとか、夜更かしだとか、同室者だからこそ知っていることは、かなり少ない。
 そもそもクラスは違うから、教室の中での様子はほとんど知らない。高居自身、部活にばかり身を入れてきたから、他人のことには無関心だ。
 ――なんかでも、それじゃつまんなくね?
 同じクラスの大庭はそんなことを言っていたが、高居にはちょどいい。同室者はただの同居人であり、友人である必要はない。そう言うと、大庭は呆れた顔をした。
 ――お前が陸上競技をしてる理由もわかるよなあ。
 個人プレーだもんな、と頷く大庭はラグビー部の主将で、同級生の相談事から下級生の面倒まで、よくみている。
 陸上だって完全個人競技ってわけじゃないと思うけど。
 部という形をとっていることもあるし、コーチやライバルともなるチームメイトの存在も必要だ。だが、一度走り出せば自分一人だけが頼りになるのは、ラグビーなどの団体競技とは確かに違う。
 高居はそう思いつつも、言葉には出さなかった。その部の中でも、人一倍孤高を貫いていることを、高居は自覚していたからだ。
 限界まで走る。
 これは自分への挑戦であり、自分の戦いだった。誰よりも速く走りたい。そう思ったときから、ずっとそれだけを目標にしてきた。そしてぎりぎりまで、その目標を追いかけるつもりだった。
 ――あのときまで、それは年齢による体力の限界を意味していると思っていた。
 ――お願いだから、もう止めて。もう、走らないで。
 狂ったように泣いていた母親の顔がちらつく。この間の冬休みにも、足取り重いながら帰った実家で、泣かれてしまった。顔を出さなければ余計な心配を掛けることもわかっていたから、無理矢理にでも帰ったのに、結局そうして泣かせてしまう。
 ――大丈夫、絶対に無理はしない。医者に駄目だって言われたら、止めるから。
 何度そう言っても、母親が安心することはなかった。走ることを止めるまでは、絶対に安心しないと、高居もわかっていた。
 仕方がない。
 五年前から、ずっとそう思ってきた。兄を同じ病気で亡くしたときの喪失感と悲しみは、今も高居の中にある。母親の気持ちもだから、痛いほどわかるのだ。
 でも、走りたかった。ぎりぎりまで、兄の分も、走りたかった。その気持ちをわかってくれた父親に、色々な条件をつけられた上で、九重への進学を許してもらった。
 約束は、守らなければいけない。それはわかっている。
 だが、ときどき、どうしようもなく兄が羨ましいと思うときがある。
 好きなことを精一杯やって、死んでしまった兄が。
 憧れのような、憎らしいような、そんな気持ちが湧き上がることがある。そして、ずるいとさえ思うことがある。
 ぎりぎりの力を出し切って、倒れて二度と帰ってこなかった、兄が――。


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