春の夜を疾走し 02
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春の夜を疾走し

02
 智から連絡が来なくなって、ひと月が経った。それまでは、梅野がメールを送れば二回に一度は返してくれたのに、メールも電話も返って来ない。夏休みの帰省時に一度会ったきりだったから、また冬休みに会えないかと年末前に連絡をしたが、忙しいから無理そうだ、と返って来た。そしてもう二月になる。
 終わりってことだろう。
 そんなことは随分前からわかっていたのに、返事が来る限り、梅野は諦められなかった。智は頼れる先輩で、友達で、優しい恋人だったから。その全てを一度に失うのは、辛すぎた。
 年上の友達、というだけの関係でもいいのに。
 恋人でなくてもいい。ときどき電話をして、ときどき会って。それだけでいいのに。
 ぼんやりと眺めていた携帯電話をテーブルの上に置いて、梅野はため息をつきつつ目の前のうどんを啜った。食欲は全くないが、どんぶりの中身はまだ半分以上残っている。あまりに申し訳ないと思って、梅野は無理矢理麺だけでも片付けることにした。
 ふと、携帯が震える。梅野はどきりとして、急いで画面を見た。メールが来ている。だが、送信者は古柴でも、弟の慧の方だった。
 ――放課後、倉庫裏。
 嫌な文面だった。最近は、夜だけではなく、こうして昼間も呼び出されて抱かれることがある。既に二度ほど、授業をサボらされた。
 放課後と言うだけ、ましなのか。
 梅野はとうとう食欲を完全に無くして、立ち上がった。メールに返信することはない。拒否しても無駄だからだ。嫌だと言ったところで、部屋に押しかけてくるだけだろう。
 最近の古柴は、何を考えているのか全くわからない。無理矢理なことも多くなったし、所構わずにもなっている。寮の自分の部屋で抱くこともあったが、以前は同室者がいないときを狙っていたのに、最近は追い出しているような雰囲気がある。嫌だと逆らえば暴力を振るうことまであって、梅野も困惑していた。あまりに身体が辛くて夜の呼び出しに応じなかったときは、翌日部屋まで来て、散々好きなようにやられた。それなのに、酷く辛そうな顔をすることもある。
 どうしてこんなことになったのか。
 梅野はずっと考えている。でも、わからない。ただ、されるままの自分にも原因があると思う。智との事はもう終わったも同然で、今更古柴が兄に何か言っても、関係ないだろう。自分の恥を晒すだけだ。
 もちろん、あんな写真を送られるかと考えれば、背筋が寒くなる。
 それに、このことで智が負い目を感じてしまうことは怖い。優しい智は、きっとどれだけ言っても、自分を責めることだろう。特に、弟が関わっているとなれば。
 だが一番の問題は、自分が一瞬でも、あの腕を欲しいと思うことだった。それが例え、智のものではなくても。それが古柴を侮辱していることになっても。伸びてくるあの腕を、拒みきれない。
 ――淋しいのだ。
 また自分の周りには誰もいなくなってしまって、たった一人なことが、淋しくて堪らない。温かい腕を知ってしまったから、余計に。
 馬鹿だ、と梅野は呟いた。
 自分はなんて、馬鹿なんだろう。


 古柴の言う倉庫裏とは、テニスコートと屋内プールの裏にある三つ並んでいる倉庫のことだった。以前も一度、昼休み時間中に呼び出されたことがある。そう言う場所の鍵をどうしてか古柴は持っている。
 空は曇っていた。テニスコート付近に人はない。運動部の一斉マラソンの日なのかもしれない。梅野はマフラーを口元までずり上げた。
 倉庫裏に行くと、もう古柴は来ていた。いつものように手の中の鍵を弄びながら、プレハブのドアに寄りかかっている。古柴はそのまま顔を上げずに、倉庫の中に入るよう梅野を促した。
 埃くさい倉庫の中に入った梅野は、薄暗闇に目を細めた。それから、はっとそれを見開く。
「……誰? 何?」
 目の前に、同じ制服を着た生徒が二人いた。どことなく見覚えのある顔だから、同級生なのかもしれない。
 立ち止まって呆然としていた梅野の背を、どんっと古柴が押した。そのままよろりとマットに倒れ込む。ごほりと咳き込むほどの埃臭さだった。
「ちょっと古柴。どういうことだよ?」
「うるせえよ。お前はやれれば誰でもいいんだろ? そう話したらこいつらがやりたいって言うから、連れてきただけだ」
 梅野はさあっと血の気が引くのがわかった。色々されては来たものの、複数だったことはない。そんなことを考えたこともなかった。
「冗談じゃない。俺は嫌だ」
 言いながら立ち上がろうとしたが、胸元を掴まれてマットに押し付けられる。
「誰でもいいなら、大した変わりはねえよ。いつもみたいに、股開いてろ」
 かっとして、思い切り起き上がろうとした。だが、所詮は運動に一切縁のない身体はひょろひょろで、力がない。古柴も運動などしていないはずだが、遺伝のおかげか良い体格をしている。しかも相手が複数となれば、叶うはずがなかった。
「ほら、おまえらこっち押さえてろ」
 両手両足を押さえられ、口には用意されていたのか、タオルを押し込まれた。声さえ上げられれば助けも呼べたかもしれないのに、これでは何も出来ない。
 ――呼んで、どうしようっていうんだ。
 ふと、今まで自分がしてきたことが思い返されて、梅野は身体の力が抜けていくのがわかった。ここで騒ぎになれば、古柴とのことを話すことになる。今回のことだけを問題にするのは無理だろう。
 それに、今日回避したからと言って、次がないとは限らない。
「大人しくなったな。最初はどうなるかと思ったけど」
「言っただろ? 挿れてくれれば誰でも良いんだよ」
 古柴たちの会話が頭の上で交わされる。反論したくても、声が上げられない。そもそも、完全な反論などできない。
 誰でも良いなど言ったことはない。だが、古柴との関係はそう思われても仕方がないものだ。
 これは、今まで自分がしてきたことの報いなのだ。梅野は諦めて目を閉じた。これは当然の、報いなのだ。


 運動部の部対抗マラソンは、週に一度の行事だった。もともと持久力強化や筋力強化のためにどの部も長距離走は練習に取り入れている。それがいつしか部対抗になって、かなりの人数が一斉に走るようになった。上位十位までは得点になっていて、特典の多い部は運動部議会の時などに、わがままを言えたり、休み中の食事を他の部から貰えたりする。ただ、その上位争いは、一年生に課せられた課題であることが多い。上級生は、自分のペースで走るのだ。
 短距離選手であっても、長距離の練習はする。もちろん筋力強化が目的だが、ただひたすら自分のペースで走り続けるのも、たまには楽しいものだった。結局、自分は走ることが好きなのだと、高居は深いため息をついた。
 たぶん、だらだらと走る分にはまだ大丈夫だろう。だが、今日は走る気にならなかった。走り始めた集団を横目に、高居はなんとなく校庭から離れていった。
 誰かが走る姿を見るのも、辛い。
 いっそうのこと、この足が動かなければいいのに。そんな馬鹿なことまで考え始めて、高居は歩きながら足元の小石を蹴った。
 ――普通の生活には支障ないよ。ただ、激しい運動ができないだけだ。
 医者の言いたいことはわかっているつもりだ。普段の生活は滞りなく出来る。それだけでも、幸せだと思うべきなのだ。わかっている。
 ――走ることを知らなければ良かった。
 走る喜びも、自己記録を更新したときの昂揚感も、あの風を切る気持ち良さも。全て知らなければ良かった。
 走れなくなるなら、なぜ、自分はこんな足を与えられたのか。それに見合う心臓を、与えられなかったのか。
 高居はぎっと唇を噛んで、再び小石を思い切り蹴飛ばした。かしゃりと音がして、テニス部のフェンスにぶつかって、ころころと転がる。
 走りたい。
 思い切り、駆け抜けたい。
 それをどうやって解消していいのか、高居はわからなかった。
 なんとなく人気のないところを選んで歩いていた高居は、体育用具倉庫まで来ていた。三つあるうちの一番端、校庭に近い倉庫は陸上部用の倉庫で、高居もときどき使うことがある。一年生のときは、毎日行き来していた。まだ大丈夫。どうしてか、そう確信していた時だ。
 ふと物音がして、高居は眉根を寄せた。耳を澄ますと、一番奥の倉庫から音が洩れ聞こえるのがわかった。最も使われていないはずの倉庫だ。
 ゆっくり近寄ってドアに耳を当てると、人の声が聞こえた。何人かいる。洩れ聞こえてくる様子から、あまり良い雰囲気ではないことはわかった。
 ――梅野?
 聞き覚えのある声がして、高居は耳に集中した。ほんの僅か、ドアは開いている。締め切ってしまうと、中は真っ暗になってしまうからだろう。
 押さえてろ、大人しくなった、と言う声が聞こえて、高居は嫌な予感が当たったとわかった。そもそも、この体育倉庫ですることに、良い噂はない。
 ちょうどいい。
 高居はそう思って、思い切りドアを横に引いた。思ったとおり、鍵は掛かっていない。高居はあまりの埃臭さに、眉を顰めた。
「何やってんだ」
 驚いて振り返った男三人に押さえつけられるように、梅野がいた。まだ服はほとんど乱れていない。
「古柴に増山に田畑? 三人がかりか」
「うるせえよ、高居。ただのお楽しみだ」
 古柴がにやりと笑う。梅野は蒼白な顔色で、高居から目を背けていた。
「おまえらにとってはお楽しみでも、相手にとって違ったら、犯罪だぞ?」
「こいつだって楽しむんだ。何しろ誰だっていいんだからな。おまえ、同室だろ? やってんじゃないのか」
 梅野が何か言おうと身動きをした。だが、口にタオルを詰め込まれているせいで、声は出てこなかった。
「てめえと一緒にするなよ」
「――梅野は、喜ぶぜ?」
 古柴の表情は変わらない。ずっとにやりと笑ったままだ。だが、手が僅かに動いていた。やる気は十分なようだ。
「少なくとも、これは合意の上には見えないな」
 高居がすっと中に入ったところで、古柴の拳が飛んできた。それをなんとか避けて、反撃する。後は、ただの殴り合いになった。
 増山と田畑はそれを見ても、加勢してこなかった。それで首謀者は古柴だと、高居は確信した。古柴の噂はあまり聞かない。悪い噂も、良い噂も。去年まで、兄がいたということで名前が知られているだけだ。
 曇り空の所為で薄暗い中、埃が舞う。二人はただ無言でやり合った。しばらく殴り合いと蹴り合いを続けた後、高居の膝が古柴の腹部に入って、軽く飛ばされた古柴はふらりと倒れて気を失った。田畑が慌てて後ろに入り込んで支える。高居は荒い息を何度も吐き出して、ずるりと床に坐り込んだ。殴られた頬も痛いし、腹部も結構なダメージだ。
「……俺たちは一応、合意だって聞いてきたんだけど」
 増山が田畑と一緒に古柴を抱えて、ぼそりと言う。
「信じて付いて来たわけじゃないんだろ?」
 そう高居が言うと、二人は無言で古柴を抱えて出て行った。
 高居は大きなため息を吐いて、マットにゆっくりと身を投げた。こんな喧嘩をしたのは久しぶりで、手も痛ければ顔も痛い。口の中は血生臭い味がして、顔を歪めながら唇を拭うと、手の甲に血の痕がついた。それを少し眺めて、ぱたりと腕を投げ出す。
 高居はしばらく、そうして天井を見つめていた。古柴はこんな卑怯なことをしたわりに真っ直ぐに自分に向かってきて、お蔭でなんとなく先刻までの苛立ちが解消されたような気がした。
 ふと影が差して、ひんやりとした感触がそっと顔を拭った。高居は目を閉じて、されるままにした。いつのまに外水道まで行って来たのか、梅野が濡れたタオルで顔を拭いてくれていた。
「おまえ、何やってんの」
 手に付いた血もそっと拭いながら、梅野が呟いた。
「陸上部のエースがこんなことして、やばいだろ」
 擦り切れた手の甲に、タオルをそっと押し付けるようにしてくる。ひんやりと冷たくて、気持ちが良かった。
「俺はおまえを助けてやったんだと思ったんだけど」
「――そうだけど。別に良かったんだ」
「良かったって……」
「古柴だけが悪いわけじゃないってことだよ」
「そりゃ、増山も田畑も悪いだろ」
「違うよ。俺も悪いってことだ」
 どう言うことだ、と高居は訊こうとしたが、梅野は会話を終わらせるように立ち上がった。
「大体高居、部活はどうしたんだよ。なんでこんなとこにいたんだ?」
「……ちょっとな。むしゃくしゃしてて、部活は抜けて来た。そうしたらちょうど物音がした」
「だからって、放って置けよ。喧嘩なんて――マジでやばいだろ」
「喧嘩、したかったんだよ」
 高居はようやく起き上がった。こんな顔では、今日はもう部活には出られない。
 梅野はタオルを持ったまま、突っ立っていた。顔色が酷く悪い。
「むしゃくしゃしてたって言っただろ? だから、ちょうど良かったわけ。おまえが気にすることじゃない」
 言って、帰ろうぜ、と促すと、ようやく梅野は動いた。小さなため息と、馬鹿じゃねーの、という呟きが背中に聞こえた。


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