前編
引越しをしよう、という話になった。
そうは言っても、全寮制高校の生徒である二人の引越しなんて、引越しと言うのだろうか。
「なんで?俺いいよこのままで」
栖坂の言葉に、浅木一穂は面白くない顔をした。普段は割と無表情の浅木のこういう顔を見られるのは、珍しいのだと栖坂はわかっていない。
「光己は良くっても、俺が駄目。南寮に来いって」
西寮なんて、狼の巣窟にいるようなものだ。それを全くわかっていない栖坂に、浅木の気苦労は絶えない。
「なんで浅木が駄目なんだ?大体さ、何でおまえ南寮に入れたんだよ」
生徒会関係、委員会委員長などの「お偉方」しか入れないはずの寮に、何の役も持っていないそれも二年生の浅木が入っているのは、九重の七不思議の一つだ。
「うーん、取り引きと言うか……」
浅木はその辺りをはっきり言わない。それに、栖坂が今度は面白くない顔をした。
「俺は一人部屋のほうが良いし、お預けな俺たちにもこの方が良いだろ」
恋人同士になったと言うのに、栖坂の傷の所為で当分抱き合わないことになっている。いつまで持つやら、と栖坂は思っているが、なるべく長く持って欲しかった。もうちょっと、あと一ヶ月半ほど経てば、完全には消えなくても、今よりましなはずだ。
「お預け食らってんのは俺だろ。ったくガード硬いったらねー」
お互いなのに、と栖坂は言うが、浅木の果敢な挑戦にも関わらず、絶対駄目だと言う。
「とにかく、俺が南にいけるわけないし、ここ結構気に入ってるからいいじゃん」
南寮に空いている部屋があるとは聞いていない。一人部屋がいいと我侭を言ったのは栖坂で、更なる我侭なんていえない。
「俺の部屋に来ればいい。……そうじゃなかったら、俺がこの部屋に来ようか……」
呟くように言われた言葉に、栖坂は今度は盛大なため息をついた。
「やだね。俺は一人が良いって言っただろ?」
「なんでそう言うこと言うかな、恋人に向かって。だいたい、それじゃあ心配でこっちが眠れない」
「何の心配してんだよ」
「あのな、おまえは決して認識してないが、ここはおまえを狙う狼の巣窟なんだよ」
少しも自覚がないのは困ったものだ、と浅木は思う。まあ自分が綺麗だとは露とも思っていないし、それを言えば過去の傷を抉るようで言うに言えないのだが。
「よく言うね、その狼の先頭切ってるような奴が」
なかなか諦めない浅木に、栖坂はため息混じりにそう言った。だいたい、孤高の狼と呼ばれているのだ、浅木一穂は。
同じ部屋なんてなったら、こいつは絶対襲う。栖坂だってそんなことがわからないはずがない。それに、自分だって流されそうで怖い。
「ひどいな。好きな奴を抱きたいって言うのがそんなに悪いか」
浅木が切羽詰ってきているのは、栖坂も薄々感づいている。でもだからこそ、駄目だって言うのに。それに、浅木の言うほどの心配があるとは栖坂は思っていない。男を抱こうって奴が、そうそういてたまるか、と思う。
これについては、九重の生徒一同、浅木に同情するしかなかった。栖坂は知らないのだ。栖坂には絶対知られないように、という言葉の元に、自分が「西の秋姫」と呼ばれているのを。
全寮制の、それも街にはバスで片道30分は掛かる場所にある男子校だ。男でも綺麗だったり可愛かったりすれば、十分恋慕の対象になる。というより、お遊び的な九重生だけのモラル破りを一年時から洗礼されつづけるのだ。最初は驚いたり気味悪がったりする生徒も、遊びと祭りごとにだんだん慣らされていく。ひどく閉じられた世界だと言うことを、栖坂は忘れている。
西の秋姫、というのは西寮の姫のことで、寮のアイドル的存在だった。それを守ることで、団結力を強めようと言うのだ。ちなみに東寮には、東の春姫がいる。
その西の秋姫が、ここ半年ほど不在だった。どうにも姫と呼ばれるに相応しい存在がなかったからなのだが、そこに現れたのが、見た目は繊細で綺麗な、内面の強さを瞳に偲ばせる栖坂光己だった。西寮には例外的な、東棟に通う栖坂をそれでも西に、となんとか留めようと西寮の生徒達が必死だったのは、そんなわけがある。
もちろんその辺りのことを、栖坂は知らない。ようやく落ち着いてきたが、転入当初は触れたら切れるんじゃないかと思うほど緊迫した雰囲気を持っていた栖坂は、自分のことで手一杯で、周りを見るような余裕はなかったのだ。
「悪くない。でも、今は駄目なんだから、離れていたほうが良いって。夜なんて、とくにさ」
な、と困ったように笑って自分を見上げる栖坂に、浅木は泣きそうになった。そういう、可愛い顔をしないで欲しいのだ。日に何度、こういう衝動を押さえてると思うんだろう、こいつは。
浅木はなんだか哀しくなって、わかった、と言うと、ひらひらと手を振って部屋を出て行った。最近じゃ、キスさえできない。その先を、押さえられる自信がなさ過ぎて。
「心配するな、栖坂には誰にも手を出させねえから」
西寮を出ようと言うところで、浅木は寮長の大庭に会った。あごで誘われて、ロビーの椅子に座る。
「俺がそう言われて、嬉しいとでも思うんですか、先輩」
剣呑な目をされて、大庭は肩をすくめた。自分の恋人は自分で守る、と言いたいのだろう。だから、自分が傍にいたい、と言っているのに、当の本人がそれを許さない。
「思っちゃいないが……喜んでもらわないと困るかな。それぐらいさせろ」
西の秋姫を、孤高の狼に攫われて、姫の騎士達が悔しがらなかったはずがない。でも、怖いくらいの冷たい笑顔か、さもなければ仮面のように隠すための笑顔しか見せなかった栖坂の、本当の笑顔を取り戻させたのがこの狼なのだから、諦めて静かに見守ろう、ということになったのだ。眠れず、いつまでも消えなかった明かりを、西寮生ならみんな知っている。
「邪魔はしない。でも、西から連れ出すのはなしだ。おまえが来るのは……まあ構わないと言えば構わないが、南を出るのはもったいねえだろ?それに、瓜生が許さねーな」
おや、と言う顔を浅木がして、そろそろそう言う話も出てるんだよ、と大庭は言った。確かに、もう二学期は始まり、年が明けて少し経てば、今の三年はいなくなるのだ。次期生徒会の選挙も、年明けすぐにある。
「俺は……一人が良かったからこの条件を飲んだ。でも、今はどっちでもいいんですよ」
一人が良くて、全室個室の南寮に入りたいと思った。でも、今は栖坂と同じ部屋のほうがいいのだ。南寮に拘りはない。
「だから、それを瓜生が許さねえって言ってんだよ。今更な」
南寮に入る条件は、たった一つ。九重の裏の実力者、そしてまとめ役である、次期総代になること。現総代、瓜生静貴と交わされた約束だ。
あの頃は、ただただ一人の空間が欲しかった。孤高の狼と言われようが、なんでも良かった。家との確執や、将来のこと、そういうことをゆっくり考えることのできる空間と時間が。
でも、今はいい。栖坂といるほうがずっと楽しくて、穏やかだ。栖坂と会って、ようやく気づいた。一人が良かったわけじゃない。誰か、絶対的に寄り添い合うことの出来る、ただ誰か一人が欲しかったのだ。
一人になりたくて、この条件をのんだ。でも今は―――
「約束を反故にする気はないから大丈夫ですよ」
これほど、光己を守るのに有効な力はない。
浅木がそう笑うと、大庭は一瞬呆れた顔をして、それから敵わねえな、と笑った。
「まったく……西の秋姫が、南の狼に掻っ攫われるとは思わなかったぜ」
ぶつぶつと、そんなことを言った大庭に、浅木は立ち上がりながら、ゆっくり笑った。
「俺は何と呼ばれようと構いませんが、それ、あいつに絶対知られないようにしたほうが良いですよ。怒って、出て行くなんて言いかねませんからね」
俺としてはそれでも良いんですけど、と言う浅木に、大庭は大きなため息を吐きながら、ご忠告ありがとさん、と苦笑した。
我慢比べだな、これは。
と、栖坂は思っていた。二人の気持ちを確かめてから、三週間が過ぎようとしていた。浅木が我慢しきれずに襲うか、自分が我慢しきれずに頷くか。たぶん、何かきっかけがあったら、ぷつんっと緊張の糸が切れて、雪崩れ込むだろうと思う。幸いなのは、不眠の症状がかなり和らいで、薬に頼らずとも、そして浅木に頼らずとも、なんとか眠れるようになったことだ。まだときどき悪夢は見るにしても、以前よりずっといい。
それにしても、性欲って単純なものじゃない、と栖坂は思い知った。食欲とか、睡眠欲のように、とりあえず、が効かない。一人で処理してみても、それじゃあ足りないと自分が言う。常に身体の奥深くで燻るものがあって、決して満たされない。
まだしたわけじゃないのに、大丈夫か俺……
栖坂は放課後の屋上で一人、ふーっとため息を吐いた。金網に右肩で寄りかかって、校庭をぼんやりと眺めていた。
女の子との経験はある。もう少しバランスよく筋肉のついていた頃、アメリカでも結構もてたのだ。それも、年上に。でも、今の状態で誰かを抱いてみても、満足しないんだろう、と思うとため息しか出てこなかった。
カシャッと音がして振り向くと、宮古がカメラを構えていた。栖坂は怒鳴ろうと身を起こしたが、そのまま、かしゃんっとまた金網に半身を預ける。
「元気ないねー。お蔭でずいぶんいい写真が撮れたけど」
報道部長で文化部統括、東の青竜と呼ばれる宮古相手に戦うには、栖坂は気力がなさすぎた。それに自分の写真など、今更宮古の興味を惹くものではない、と思っていた。
「おまえがそんな顔をしてるのに、浅木はよく我慢してるな」
「どーいう意味ですか」
「まだしてないんだろ?」
宮古がにやりと笑って、栖坂は一瞬絶句すると、小さくため息を吐いた。
「三流週刊誌並ですね」
「お褒めの言葉と取っておきましょう。でも、その調子じゃあ栖坂は何も知らないな」
宮古の口調に思わず、と言った苦笑が含まれていて、栖坂は眉を潜めた。
「何を知らないと?」
「今の九重生の最大の関心ごと」
栖坂がますます眉間のしわを寄せたのを見て、宮古はとうとう顔を緩めて笑い出した。くすくすと押さえたように笑う声に、栖坂の機嫌がどんどん悪くなる。それさえも、宮古は楽しんでいるようだった。
「ごめんごめん、そんな怖い顔しないでよ」
「こういう顔好きなんでしょ、先輩」
「……きついなあ。せっかく賭けのことを教えてあげようと思ったのに」
「賭け?」
「そう、栖坂は狼にいつ喰われるか」
宮古の言葉に、今度こそ栖坂は絶句した。
「浅木は二ヶ月我慢するか。それともその前に我慢できなくなるか。その場合、何週目に我慢が切れるか……掛け金は食券一枚。あ、これも裏校則でね。現金は賭けないことになってるんだ」
ちなみに、勝利者には「秋姫」の写真も贈られることになっているのだが、そこまで言うほど宮古もお人良しじゃない。
「わりとさあ、二ヶ月持つって方に賭ける奴もいて、それはあれだよな。願望」
宮古は面白そうにそう笑ったが、栖坂は呆れて物も言えない、という顔をして突っ立っていた。
―――人のうちのベッド事情を賭けるなよ……
なんだかひどくバカバカしくて、怒る気力もなかった。
「まあ、おまえらも悪いんだぞ。窓開けっ放しで、でかい声で、二ヶ月我慢しろだの、出来ないだのって痴話げんかするから」
確かに、あの晩は必死だった。二人とも。寮にいることを忘れて、栖坂が理由を説明するまで、言い合ったのだ。それにしても。
「あんたらって……」
大体、どうやって証明すると言うのだ。冗談じゃない。
「ああ、まさか覗いたりはしないから心配しないでね。見りゃわかることだから」
「見りゃわかるって……」
「あのねえ、二人してどう言う顔してるかわかる?そりゃあことを終えたら絶対晴れ晴れして」
そこまで言って、宮古は殺気のようなものを感じて口を閉じた。
「楽しむのはかまわないけど、自家生産しろって言いませんでした?俺」
「だからおまえにも教えたんじゃないか」
「元締めは誰?」
「あ、あのな、これは口コミみたいに始まったんだよ」
それを盛り上げたのは宮古だが、そんなことは怖くて言えない。恐ろしく綺麗な顔が、目の前にあって。
「今更やめるのは無理だぞ。諦めなって」
宮古が顔を引き攣らせて笑った。栖坂はため息を飲み込んで、おもむろに宮古のカメラを手に取ると、フィルムを取り出して、引っ張った。あまりにさらりとやられて、宮古は一瞬気づくのが遅れた。
「うっわーおまえ、それ他にも……」
「撮られたら取り返せ、取り返したら、好きにしていい……でしたよね?」
栖坂がにっこりと笑って、宮古は目を閉じて肩を落とした。
「やっぱり知ってたんだ」
栖坂が睨んだのに、浅木は苦笑しただけだった。
「まあ、な。おまえは入ったばっかりだから仕方ないけど、俺は一年からここだからな。こういうのは慣れたっていうか、諦めた」
賭けなど日常茶飯事、ゲームに勝負事、乗れるものにはなんでものって、楽しむのが九重の伝統のようなものだ。
「……慣れたくねーな。ったく。しかも食券だって?馬鹿にしてる」
「そうでもないぜ。聞かなかったのか?最高100枚は貰える」
「げ……そりゃあすごい」
「正確な人数は知らないけどな。最初は二ヶ月持つか、持たないか。そのうち週単位になって、日付単位になったらしいぜ」
つくづく暇な奴らだ、と栖坂が呆れる。
「なんか悔しいよなあ」
そうむくれる栖坂に、浅木は笑った。冗談じゃない、と思ったのは浅木も一緒だ。賭けはどうでもいいが、賞金に栖坂の写真が含まれているのが気に入らなかった。それでも、きっかけをくれたことに感謝をしなくてはならない。
我慢比べで、賭け事の対象。でも、それは、そんな甘いものではなかった。
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