初嵐
01
7つの歳の差は、言うなれば小学校に上がったときには、相手は中学生になっているということだ。子供にとってのそれは、とてつもなく遠い遠い距離であ
る。
そう言えば、中学に上がる真己に、なぜ待っていてくれないのかと泣いた、と香奈ちゃんから言われたことを春日は思い出した。そのときに、プロポーズすら
していたらしい。覚えていないと言えば真己の機嫌を損ねそうだが、残念ながらプロポーズしたことより、とにかくずるいと思ったことしか思い出せない。何し
ろ、せっかく「学校」なるものに行くようになったのに、真己は別の学校に行くと言うのだ。絶対に縮まらない距離に、泣きわめいた。
いつかは追いつける。そう思っていたのはいつまでだろう? 真己は、高校に行ったときには全寮制の九重に入ってしまい、めったに姿を見せなくなり、その
まま遠い人になっていった。それでも、帰って来るときにはあのきれいな顔で、甘く優しい目をしながら、春日の名前を呼んでくれた。思い起こせば、ずっと追
いかけていたのかもしれない。
春日はそんなことを思いながら、電車の窓に映る自分の姿に苦笑した。着慣れないスーツにネクタイは、就活中の学生がせいぜいいいところだ。高校の制服
だってジャケットにネクタイだったのに、なぜこんなにしっくりこないのだろう。
9月になっても、まだ夏の暑さが残っていた。それでも、夜になればいくぶん過ごしやすい。電車の中は涼しいくらいだが、あまりの窮屈さにネクタイを思わ
ず緩めそうになる。それでも我慢をするのは、今日ばかりは背伸びをしなければならないからだった。
二十歳になったお祝いに、外に飲みに行こうと誘ったのは、真己だった。ごく軽く誘われたから、近所の居酒屋にでも行くのかと思ったのに、メールで送られ
て来た店は、大学生の自分では行きそうもない、少し敷居の高いバーだった。そこで待ち合わせて、軽く飲んでからご飯を食べに行こう、ついでに、誕生日祝い
におごるから、と書かれていて、春日はとても複雑な気持ちになった。
大人の仲間入りを歓迎してくれることが、素直に嬉しい。でも、やはり追いつけはしないのだと、思い知らされる。
最寄り駅に着くと、春日は事前に調べた地図を頭に思い浮かべながら店に向かった。このまま迷わなければ、少し早い時間に着く。
携帯電話で時間とメールの確認をしようと立ち止まったところで、名前を呼ばれた。顔を上げて振り向くと、九重大の同級生だった。さらりとした長い黒髪が
似合う、まだ少女と呼んだ方が良いような彼女は、同じ社会学部で、時折話をする。
「やっぱり不破君だ。スーツなんて着てるから、ちょっと雰囲気違うね」
彼女は、黄色いワンピースに白い半袖のニットのカーディガンを羽織っていた。だが、肩に大きなバッグを掛けていて、飲みに行く雰囲気ではない。
「椎名は? 学校の帰り?」
「そう。ちょっと図書館で調べものがあって。ほら、あのレポート、やった?」
「ああ、鈴岡先生の? うーん、まあ、一応」
「一応ってなによー。あ、先輩に助けてもらったとか? いいなあ、付属の子は」
椎名は首を傾げながら、口調とは裏腹に笑っていた。
九重大付属高校の出身者は、もちろん先輩たちの知り合いが多い。授業のことから先生のこと、果ては学食の美味しいメニューまで、あらゆる情報をサークル
に入ることなく、手に出来るのも付属出身者だ。同じ授業を取っていた先輩にノートを借りたり、レポートを見せてもらったりもする。とは言え、丸写しをはじ
め、自分で考えずに書けばすぐばれる、進級も難しくなる、と脅して来るのもこの先輩たちだった。
「まあ、傾向とか聞いたけど。でも、レポートみちゃうとさあ、却って真似しないで書くのが難しい」
肩を竦めてみせると、椎名は「そうかもね」と笑った。
「ね、これからどこか行くの?」
ふ、と腕が伸びて来て、椎名の細い指が、春日の腕にそっと触れた。ごく軽く触れているようなのに、熱を感じる。春日はその熱には気づかない振りをして、
遠くの時計を見るために振り返った。熱が、離れて行く。
「うん、ちょっと約束してて。ごめん、もう行かないと」
椎名はじっと春日を見ていた。
「……引き止めてごめんね。じゃあ今度、ご飯でも行こうよ」
椎名は良い子だと思う。授業も熱心に聞いているし、明るく、可愛い。でも。
「そういえば、今度できた駅前の新しい店、行ってみようってみんなで言ってたんだ。行くとき誘うよ」
椎名が唇をきゅっと噛む。それでも笑って「うん、待ってる」と言った。大学からの友達の「もったいない」と言う声が聞こえてきそうだ。でも、春日は
「じゃあ」と微笑んで目的地に向かった。
椎名には申し訳ないが、もったいない、とは思わない。春日にとっては、今自分が手にしているものを失うことの方が、よほど恐ろしかった。