初嵐
02
考えなかったわけではない。いつか、春日が女の子を好きになること。そしていつか、結婚をすること。家庭を持ち、子供が生まれ、隣の不破家のように、幸
せな家族となることーー。
真己は春日も好きだが、その家族に憧れてもいる。春日を作ったのは、あの家庭だとわかっているからだ。だから今でも、春日のご両親と顔を合わせる度に罪
悪感を抱く。
それでも、どうしても我慢が出来なかった。どうしても、手に入れたいと思ってしまった。だから、もし春日が女の子を好きになったときには、手を離そうと
決めていた。そして何もなかったように、隣のお兄さんに戻るのだと、決めていた。
真己は先ほど見た春日の姿を思い出しながら、無意識にテーブルの上の手を握った。
帰りたいような気分になったとき、するりと隣に誰かが座る気配があった。しかし、待ち人ではない。
「一人? 隣いいかな」
社会人になってから知ったこのバーは、高校時代からの友人が教えてくれたバーだった。大人の雰囲気で、おいしいお酒を出してくれる。そして、何より男同
士で飲んでいても違和感がないことが良いのだと、その友人は言っていた。大人しく飲んでいる分には、誰も周りのことを気にしない。そんな空気が気に入っ
て、真己もときどき通うようになった。そしてときどき、こうして声を掛けられた。比率としては、男の方が多いことに苦笑してしまう。
真己が何も応えないことを了承ととったのか、男はそのままバーボンを注文した。片隅に見える姿では、少し年上の会社員ーーというより、会社経営でもして
いそうな男だ。真己が応えなくとも、気にする様子もなく、余裕さえ伺えるのだから、余程自信があるのだろう。
「待ち人来ず、というところかな。誰かと飲むつもりだったのなら、代わりに俺ではどう?」
真己はようやく、隣の男を見た。確かに、自信を持つような男前だ。落ち着いた雰囲気もあり、お金にも気持ちにも余裕が見える。真己は思わず、ふっと笑っ
た。それを見た男が、目を細める。
真己の自嘲気味で、少し淋しげな笑顔は、艶やかだ。男の手が伸びて来て、長い指が頬をすっと撫でた。真己はその腕を緩慢な動作で払った。
「勝手に触らないでくれる?」
男は面白そうに笑った。反応があったのだから、男にとっては第一歩だろう。真己もそんなことはわかっていたが、今はあまり気持ちに余裕がない。
春日と何もかも違う男だ。だが、比べることに意味などない。なぜなら、この男は春日ではないからだ。男の社会的地位も何もかも、全く関係なく、ただこの
男は春日ではないという一点で、真己にとっては慰みにもならないのだった。
ーー手を離すと決めている。
そんな綺麗ごとは何にもならないことをわかっている。さっきのことも、春日があの女の子を好きだとは限らない。そっと腕を掴まれていたが、ただの仲の良
い友達かもしれない。そう、わかっている。
それなのに、自分はそこから逃げるように立ち去ってしまった。声をかけることすら出来ず、この場所で待つ今でも不安になってしまう。
春日を信じていないわけではない。ただ、未来はわからないと思う。それがどんな未来でも、幸せであってくれたら良い。だからこそ、様々なことを想像し、
様々な気持ちのけりをつける。それがあのとき、春日の手を掴んでしまった、真己の覚悟だった。
「そんなに淋しそうなら、隣で一緒に飲むぐらいはさせてくれないか?」
男の大人な台詞に、真己は口をゆがめた。今日求めていたのは、そんな駆け引きではない。初々しい若者が大人になったことを歓迎し、肩を並べるはずだっ
た。
「誰かと飲みたい気分じゃない」
今一緒に飲むとしたら、たった一人。真己はジントニックを煽り、立ち上がった。待ち合わせ時間まで、まだあと五分はある。だが、ここにいたい気分ではな
かった。
外に出ると、壁に寄りかかっていた人物がいた。ふっとその身体が動いて、真己が隣を見ると、待ち人だった。
「春日……」
待っていた。きっと来てくれるものと思っていた。でも、漏れでた名前の響きが、どこか複雑に響いてしまったのは、真己にはどうしようもないことだった。