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風の匂い 番外編01

「あれ、難攻不落の秋姫じゃないか」
 驚いたように呟かれた言葉に、春日は写真を手分けしていた手を止めて振り仰いだ。
「中野さん?」
 授業では朗々とした声を聞かせてくれるが、報道部の部室で聞くのは珍しい声に、春日は首を捻る。それから、その手に持たれた写真を見た。
「あれ、真己のこと知ってるんですか?」
 先日のバスケ部の試合を映したフィルムに余りがあって、もったいないからと保育園の子供と真己を撮った、その写真だった。
「真己って……上柄真己だよな、やっぱり」
 いつも飄々として、生徒を小馬鹿にするのが娯楽と言ってのける中野の呆然とした表情に、春日は面白いものを見た、と内心で笑った。
「ああそっか……同級生か」
 中野のプロフィールを思い出して、春日が呟く。中野も真己も九重の卒業生だと知っていたのに、少しも考えたことがなかった。
 珍しく固まったようにじっと写真を見て動かない中野に、部室に入ってきた宮古もその手元を覗き込んだ。
「お、美人さん」
 その声にようやく我に返った中野は、「ああ、おまえを探してたんだ」と宮古に言った。
「それよりそれ、誰ですか?」
 にやにやと笑う宮古に、中野が苦笑する。それから、片眉を上げるだけの嫌な笑いをした。
「報道部長が知らないのか?」
 その言葉に、宮古が写真をなお覗きこんだ。春日は嫌な予感がして、それをひらりと取り上げる。
「俺はそれより、難攻不落の秋姫の写真をどうして春日が持っているのか、知りたいな」
 難攻不落の秋姫。そう言えば、さっきもそんなことを中野は言っていた、と春日が目を眇める。
「え、この人があの?」
 宮古がそう言って、春日の手から写真を取ろうとする。それを春日は避けた。
「あ、おい、春日」
「あのって?」
 目を眇める春日は怖い。普段が優しそうなだけに、こう言うときの迫力が増すのだ。
「三年間秋姫をしながら、誰にも落ちなかった真己姫……」
 中野がぼそりと呟く。それには春日が一瞬惚けた。三年連続で姫をしたというのは、今まで二人しかいない、と聞いていた。一年生で姫をするのは、非常に珍しいのだ。
 それを、あの真己が。
「春日、写真見せろよ」
 伸ばされた手に、春日は我に返って、仕分けしたバスケ部の写真を「はい」と載せた。
「卒業生の写真はアルバム以外は一切残さない、が裏校則だろう?なんでおまえが持ってんだ」
 宮古の声に、春日は素知らぬ振りをする。こう言うときの春日は全く持って可愛くない、と宮古がいつも言う顔だ。
 裏校則など関係ない。これは最近撮ったものだから。
「いや、それ、最近の真己姫だろ?春日知り合いか?」
 中野が二人を面白そうに眺めながら言う。春日はそれにも答えず、写真を丁寧に胸の内ポケットにしまった。
「大学に入ってから彼女作ったからな、それで落ちなかったのか、って言われてたんだが……」
 中野の目が問うように春日を見た。真己の写真嫌いを承知しているのだ。それに、あの満面の笑み。
 春日が、惚れ惚れするような柔らかさで、にっこりと笑う。これで、下級生は落ちてしまうのだ、と同級生がため息をつくその顔で。
「おい、マジか……」
 国語教師にあるまじき言葉を吐いて、中野は絶句した。
「ちなみにこれは、子供に向けた顔ですけどね」
「子供?」
 中野が眉根を寄せた。その言葉をどう誤解したのかわかった春日は、くすりと笑う。
「保育園のね、保父をしてるんですよ」
「あ、ああ……」
 大学まで一緒だったなら、大体の想像はつくはずだ。
「春日、それ本当に本当か?」
「そこ!二人だけでわかったみたいな会話しないでくれませんか?春日、俺に隠し事をするとは良い度胸だ」
 ん?と肩に手を置かれて覗き込まれても、春日は動じない。伊達に宮古の副を勤めてきたわけではないのだ。
「実は俺の子供がその保育園に通っててね」
 言った途端、部室の空気が固まった。にっこりと笑う春日に、宮古がはあっと大げさなほどのため息を吐く。
 春日は普段苛められてばかりの教師の間抜け面を拝められて、機嫌が良かった。
 さらに、中野が驚くほど頑なに落ちなかった真己が、自分の手の中に落ちてきたのだと、知ったことに。
 でも、それは少し違うのかもしれない。
 落とされたのは、自分の方だと、少しばかりは自覚がある。
「春日、その冗談にならなそうな冗談はやめろよ」
「ああ?どう考えたって冗談だろ?子供なんているかよ」
「春日先輩もある意味難攻不落ですからねー。これはもうきっと良い人がいるんだって、噂だったし」
 隣の机でなんだ冗談なのか、とやはりため息を吐いたのは一年の水野だった。
「そうそう、春日ちゃんってば身持ちが固いから、お父さんなんて言われたら信じちゃうだろ?」
 水田まで、そんなことを言う。それにさすがに春日は憮然とした顔をした。
「年寄りくさいってことか?」
 そうじゃなくてさ、と水田は苦笑した。
「おい、そっちは誤魔化せても、俺は誤魔化されないぞ?本当なんだな?」
「先生……もしかして真己に惚れてたとか?」
 春日のにやりとした笑いに、中野はやれやれ、最近の子は可愛くない、と思いながら首を振った。
「違うよ。でも、あいつ本当に徹底的に無視と言うか拒んでたからさ。一つ上にそれはそれは熱心な先輩がいたんだよ。大学行っても諦めなくて……社会人になって離れてようやく諦めたような、ね」
 へえ、と春日が目を眇めた。その表情に、ようやく少し中野は満足する。ガキはガキらしく、可愛い顔をしなければいけない。
「それにしても、あの真己がねえ……」
 報告しなくては、と言った中野に、春日がひょいっと片眉を上げた。
「おまえも来いよ。奢ってやるから」
 中野がにやりと笑う。それに、春日はとても嫌な予感がした。だから、丁重にお断りをした。
 でも。
 まだまだ敵うはずがなかったのだ。
 この、元報道部長に。


 真己のもとに高校、大学の同級生から電話がかかってきたのはその週の金曜日のことだった。同窓会をするから明日出て来い、という、半ば強制的なその誘いに、真己は首を傾げた。久しぶりだし、強制されなくても行こうかと思ったのに。
 でも、行った先で、散々飲まされて、ようやく理解した。
 なぜ、それほどまでにして連れ出されたのか。
「で?どうやって落とされたんだ、あの春日の坊やに」
 昔話から最近の話、仕事の愚痴なんかを言い合って、いい加減昔の感覚が戻ってきた頃だった。居酒屋一軒借り切っての同窓会は、真己が想像していたものより大規模で、あんな電話一本で幹事は良く企画したものだ、と思っていた。
 その部屋中が、しんっと静まり返った。
「さ、里見、なんで知って……」
 酔っていなければ、それも少し頭に霞みがかかるほど飲んでいなければ、適当に誤魔化せたはずだった。でも、思わず反応を返してしまった。
 ばっと赤くなった真己に、マジかよー、と叫ぶ声が聞こえる。静まり返ったのは一瞬で、今度は異様に騒がしくなった。
「マジで、ほんとのほんとに、年下の、それも高校生に落とされちゃったの?」
 隣の小倉が一人で喚いている。それに真己は口を押さえて真っ赤になっているだけだ。
「うわあ、その顔は反則だろ、真己姫……」
 酔っているのは何も真己だけではなく、真己が嫌がるために本人の前では決して言わなかった昔の呼称が誰かの口から滑り落ちた。でも、それを怒る余裕も今の真己にはない。
「里見、おまえ」
「春日は俺の可愛い生徒だからねえ?」
 そう笑う里見は面白そうで、でも酔っているようには少しも見えない。
「春日ってなんで名前で呼ぶんだよ」
 突込みどころはそこか?とみんなが思っていることなど知らず、真己は里見をじとっと睨んだ。
「そんな赤い目で睨まれても怖くないよ?真己」
 里見がくつくつと笑う。正直、これほどとは思っていなかったのだ。春日からは、実はあれ以上の情報を得られなかった。どうやら隣同士の幼馴染らしい、ということしかわからずに。
 どうやって、あの春日が真己を落としたのか。
 それが里見の関心ごとだった。
「いやあ、里見が言ってきたときはウソだろうって思ったけど……マジなんだな」
 小倉が呆気に取られたように真己を見ている。真己はそれにふんっと顔を逸らして、ぐいっともう何杯目かわからないビールを飲んだ。
「で?どうやって口説かれたんだ?」
 里見はにやにやと笑って、空になった真己のグラスを満たす。真己はそれもぐっと飲んで、黙り込んだ。
「なあ、その春日ってどんな子?」
 黙った真己を気にしながら、小倉が里見に聞く。周り中も興味津々といった感じに聞き耳を立てていた。
「いや、結構しっかりしてて、背も高いし顔もいい方だな」
「おまえの生徒ってことは、俺たちの後輩だろ?もてる?」
 この話の流れではもちろん、男に、という意味だ。それには真己もぴくりと反応した。
「みたいだぜ。特に下級生に。それも真剣なのが多いとか言ってたな」
 その真己を楽しそうに見ながら、里見が言う。真己がまた、ぐいっとグラスを煽った。
 わかるよ、と真己は心の中で吐き捨てた。あの抱きつき心地のいい春日は、きっと年下にもてるだろう。ついでに、女にも。
「真己、飲みすぎじゃないか?」
 里見が苦笑しながら言ってみるが、じろりと睨まれただけだ。それから、聞こえていないとでも言うように、またグラスを満たす。
「最近の高校生なんて侮れないからなあ。春日も最近色気が増したと思ったら、なあ?」
「色気ってなんだ、エロ教師」
「うわ、真己ちゃんの口からそんな言葉……」
 周りの喧騒は無視だ。それは昔から慣れている。
「色気は色気だろ?あいつ、運動してないくせに、良い身体してるよな」
 そんなことに同意を求められても、真己は頷けない。
「どうしておまえがそんなこと知ってるんだよ」
「だから、春日は可愛い俺の教え子」
 途中までで、里見は口を閉じた。それはそれは恐ろしい顔で、睨まれたからだった。
「だからって、体育教師でもないだろうが。担任でもないよな?」
「真己……冗談だって」
「おまえ、そう言うやらしい目で春日を見てるんじゃないだろーな」
 整っているからこそ、凄むと怖い。里見はからかいすぎたか、と内心焦っていた。
「真己……」
 ずるり、と後ろへ下がったところで、影がさして、誰かが真己の肩に手を置いた。
「何やってんだ」
 呆れたようにため息を吐いたのは春日で、真己がゆっくり振り向いた。それから、一瞬ほうけたように春日を見た後、ほうっとその胸に自分の身体を預けた。
 見苦しい、男達の悲鳴が聞こえた。
「良かった……あやうく殺されるかと思った」
 呟いた里見を、春日が真己を緩く抱き締めたままきつく睨んだ。
「中野さんのことだからあんまり信用してなかったんですけど。どうしてこんなことになってるんです?」
「いや、早かったな、春日」
「もっとゆっくりして、真己に殴られたかったですか?」
 冷ややかな春日の視線に、里見は苦く笑う。ちらりと時計を見ると、春日に電話をして三十分。驚異的な速さだ。
「どう落とし前をつけてもらいましょうか。宮古に借りが出来ちゃったんですよね」
 時計を見た里見を見逃さず、春日が冷えたままの視線で言う。その腕の中で、真己はすやすやと眠り始めていた。
 真己のことは責任を持って送り届ける。ただの同窓会だ。真己に断るように連絡などしたら、宮古たちに真己のことを売る、と脅されて、春日は仕方なく今回の同窓会のことには口を出さなかったのだ。それなのに、真己の携帯から中野の声で、潰れちゃいそうでやばい、と連絡がきた。その割に、悪戯されたくなかったら、探し出せ、と楽しそうに笑ったのだ、この不良教師は。
「いやあ、君が春日くんかあ」
 二人のぴりぴりとした雰囲気を壊したのは、小倉だった。にこにこと、人の良さそうな顔で笑っている。でも、先輩たちのこんな笑顔は危険だと身に沁みてわかっている春日は、警戒を解かない。
「そんな怖い顔しないでよ。俺、真己となんと高校三年間同じクラスだった小倉雅之。よろしくな」
 会ったことあるんだけど、覚えてる?そう差し出された手を、それでも春日はにっこり笑って握り返した。間に、眠っている真己を挟んで。
「ええ、覚えてます。駅前で会いましたよね」
 そうそう、と小倉が頷いた。そうか君だったんだ、と一人納得したように頭を動かしている。
「いや、ほんと。最近の高校生って大人っぽいんだな」
「嫌味なくらいな。俺の苦労がわかるってもんだろ?」
「いや、こんな不良教師を一応はたてる生徒の苦労をわかって欲しいですよね、こちらとしては」
 春日はかなり怒っているのか、全く笑わない目で、でも顔だけにこやかにそんなことを言う。
「春日……おまえも化けの皮かぶってんなあ」
「能ある鷹は、って言うでしょう?」
 皮ではなくて爪なのだと春日は笑った。それから、腕の中の真己をそっと起こす。
「ほら、帰るよ」
「春日?」
「うん。迎えにきた」
 にっこりと春日が笑うと、真己がほっとしたように、その手を取った。大人しく従う真己に、周りは唖然としている。そんな親密さを見せながらも、春日は酔っ払ったお兄さんを迎えにきた弟のように、真己を抱きかかえていた。腰に回されない手も、少し困ったような顔も、二人の関係を知らない人間から見たら、見事に兄弟のように見える。
「いや、真己が落とされたのがちょっとわかったかも」
 隣で、小倉がしみじみとそう言った。真己のことを考えて、なんて大人な態度でこのガキは真己を連れて行くのだろう。
 それに、いえ、と春日がにっこり笑う。
「悔しいことに、俺が落とされたんです」
 少しも悔しくなどなさそうな口調で、春日は最後にそんな爆弾を落としていった。
 やれやれと、里見は首を振る。
 目論見は全部成功した。真己から話を聞き、さらには絶対に不参加と言った春日をなんとかお披露目し、ついでに二人の仲むつまじい姿などを見てみたい、という目論みは。
 でも、なんだか見事に当てられた気がするのは、気のせいだろうか。
「いや、本当に、おまえも苦労してそうだな」
 小倉が去っていく二人の背中を見てため息を吐いた。あんなくそ生意気なガキどもがごろごろいるかと思うと。
「春日は良いほうだろ。普段は大人しくしてるし」
 真己が絡んだから、あんな不穏な空気を纏ったのだ。それはそれで可愛らしい。
「げえ。やだやだ。あれより上がいるのか?可愛くないねえ、最近のガキは」
 小倉の言葉に、里見は苦笑しただけだった。
 自分達だって、十分可愛くないガキだったはずだ。でも、今の生徒たちの本当に可愛くないところは、結局自分達は大人の掌で遊んでいる、と自覚していることだった。
 春日もさっき言っていたように。一応でも大人をたてるのだから。
「さて、真己はいなくなっちゃったし。飲み直すか?」
「そうだな。おーい。今日は真己の驕りだから、遠慮しなくていいぞ」
 里見の声に、歓声が上がる。
「真己の驕りって、なんで?」
「賭け金だよ。今回の賭けは全員はずれだからな。本来なら真己のものだ」
「でも、あの真己がこの賭けのことを知ったらどれだけ怒るやら……」
 里見たちにとって、それは卒業記念の賭けだった。「難攻不落の秋姫」が、いつ、誰に落とされるのか。その賭け対象に、先輩も巻き込んでの、大掛かりな賭けだったのだ。
 その中に、七つも年下の高校生に落とされる、という賭けをしたものはなかった。
 そもそも、年下に賭けた人はいなかったのだ。その性格から、落とされるとしたら年上、せめて同年だろうと思われていた。
 それが、ものの見事にはずれた。それも、真己が落としたと、春日は言った。
 真己のことを、よくわかっているつもりで、実はわかっていなかったのだと、里見も小倉も少しばかり悔しく思った。
「そういうことだ。だから、今回は全員への配当ってことで」
 まあ、そうじゃなければなんだかやってられないよな、と小倉も肩を竦めた。
 それだけ予想外だったと言うのに、あの二人は、あまりにも隣り合うのが自然だったのだから。


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