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風の匂い 番外編02

「ほら、水」
 春日が冷たい、と真己は思った。迎えに来てくれて嬉しかったのに、今はちょっと怒っている。タクシーでも、目が合わなかった。
「春日……?」
 受け取らずにいたら、グラスはテーブルにことりと静かに置かれた。それから、春日は無言でバスルームに向かっていく。あまりに不安で、真己はソファーに預けていた身を起こした。
「飲みすぎだ。ったく」
 春日はちらりと振り返ってそれだけ言うと、バスルームに今度こそ消えてしまう。ぽつりと残された真己は、ぼんやりとその後を見つめていた。
 確かに酔ってるなあ、とちょっと思う。ちょっとどころじゃないのだが、一応意識はあるのだから、などと考える。そもそも。
「何で里見がおまえの身体を誉めるんだ」
 むしゃくしゃを洗い流そうとシャワーを頭から浴びていた春日は、不機嫌にそう言ってバスルームの扉を開けた真己に呆気に取られた。
「里見……?」
「あのエロ教師だ」
 ああ、中野のことか、とシャワーを止めて春日はため息をついた。中野がエロ教師……学校でそんなあだ名は付いていないが、なんとなく、納得する。今度からそう呼んでやろうか、と心中ほくそえむ。
「真己、シャワー浴びたいんだけど」
 春日の声に、浴びれば?と真己が言う。
「ドア、閉めてくれないと水が飛ぶ。それとも、一緒に入る?」
 嫌にお兄さんぶる真己は、でもセックスになると途端に初心さを見せることがある。それを春日の若い故の奔放さだと真己は言うのだが、ばっと赤くなる真己の顔を見ていると、それは違うんじゃないかと春日は思っていた。
 でも、今日はどうやら違うらしい。
 ぶすりと機嫌の悪い顔をしたまま、真己はその場で服をぽんぽん脱ぎだした。昔からの一軒家の上柄家は、風呂場もそれほど広くないのだが……。
 春日はありがたくこの酔っ払いを頂くことにした。普段、未成年だからと春日に飲ませない分、真己自身もこれほど酔うことがないのだ。
「で?中野さんがなんだって?」
「おまえ、身体見せたのか?」
 言っていることがちっともわからない、と春日は首を捻った。坐れとイスを指されて、大人しくそれに従う。そこにシャワーを突然かけられた。
「うわっ。真己っ」
「里見がおまえに色気がついてきたって。良い身体だって言ってたぞ」
 春日の抗議など聞く気がないらしく、真己はしばらくシャワーを春日にかけると、ようやくそれを止めてシャンプーに手を伸ばした。
「うわ、マジでエロ教師だな」
 春日の言葉に、真己が髪を引っ張った。
「いて。こら真己」
「里見に何かされてないだろうな」
 何かって何ですか、と春日は思いながらため息を吐いた。
「あのねえ、俺より可愛い生徒なんて一杯いるから、わざわざ俺に何かするわけないでしょ?」
 大丈夫、と言おうとしたところで、また髪を引っ張られた。それも思い切り。
「痛ーよ。禿げたらどうしてくれる」
 思わず抗議をしたら「それでも可愛がってやるから安心しろ」と言われて春日は閉口した。
「で?その可愛い下級生に人気なんだって?春日のお兄さんは」
 ああ、どうせ酔っ払いを頂くならさっさと頂くんだった、と春日は半ば風呂になど入ったことを後悔し始めていた。いくらなんでも、ここでは狭すぎて何も出来ない。
「真己だって難攻不落の秋姫だったんだって?」
 仕方なく、春日は話題転換に努めた。それに、真己の手が止まる。
「里見の馬鹿か……」
「それも、熱烈に求愛してた先輩がいたんだって?それでもって、難攻不落だったのが、大学に入ったら彼女が出来たって?」
 畳み掛けるように言うと、真己が無言で撫でるように頭を洗い出した。人の手で髪を洗ってもらうのは気持ちがいいが、春日はうっとりと目を閉じながらも口は閉じない。
「彼女いたなんて、知らなかったなあ……」
 少し傷ついたように呟くと、髪を洗っていた手が頭を撫でた。
「長く続いたためしがなくって」
「なんで?」
「なんでって……」
 シャワーのお湯を触っているうちに、少しばかり酔いの冷めた真己は口篭もった。
 言えるわけがない。
 その頃、どうやら春日を思う気持ちは弟とか幼馴染とか友情とか、そう言う感情ではないのだと、気付いたのだから。だから、寄ってくる女の子とその気持ちを誤魔化すように付き合った。それは全く、効果も何もないのだとすぐに知るのだけれど。
「真己ってさ、俺のこといつから好きだったわけ?」
 わかっているのかいないのか。春日は安心しきったように真己に頭を預けたまま言った。
「さあ……」
 真己はそう言うと同時にシャワーを出す。相変わらずだらだらと顔に垂れることなど気にしていない様子で、春日は目も口も開けられなくなった。
 それから、春日が真己の髪を洗い、狭いから絶対無理だろうとお互いに思っていたために、身体はさっさと自分達で洗って、風呂から出てベッドに直行した。
「待てって。髪、まだかなり湿ってる」
「どうせシーツなんて濡れるから良いだろ」
 その言い様に、春日はぷるぷると頭を振った。シャワーぐらいでは酔いは冷めなかったらしい。
 でも、ぽたぽたと垂れそうな雫に、春日はタオルを手離せない。それで真己はそれを取り上げて、俺が拭いてやる、とがしがしとその髪を拭いた。
「うわ、真己っ」
 乱暴な手つきに、春日が抗議の声をあげる。それに、「なに?」と言った真己の声は艶やかに、耳元で響いた。ちゅっと音がして、耳の下にキスをされたのがわかる。
「ああもう、わかったよ」
 若さで言ったら春日の方がずっと若いのだ。こんなことをされて、我慢などする必要はないと思った。
 少し乱暴気味にベッドに真己を押し倒すと、真己が満足そうにゆったりと笑う。こういうときだけは、大人だよ、と春日も思う。
 唇を寄せると、頬を挟まれた。そのまま、深く深く口付ける。まるで真己の身体中のアルコールを移されているかのような深い口付けに、唇を離した春日が困ったような顔をした。
「まったく、どれだけ飲んだんだ」
 味した?と真己は無邪気に笑っている。
「文句なら里見に言えよ。大体あいつ、おまえのこと春日って名前でよびやがって」
「中野先生はみんな下の名前で呼ぶんだよ」
 やれやれと宥めるように首筋に吸い付くと、真己が喉をならした。
「おまえは駄目だって言っとけ」
「聞く人じゃないだろ」
「俺が駄目だって言ったって」
 そこまで聞いていて、春日がふっと身体を起こした。真己が不満そうにそれを見上げる。でも、不機嫌な顔をしていたのは春日だった。
「そうしたら聞くのか?あの中野が?」
 敬称が抜けている。真己は突然の春日の変化に、首を傾げた。
「大体、真己だって里見って下の名前で呼ぶし、中野も真己って呼ぶよな」
 ちなみに、あの同窓会に来ていた者たちはみんな真己と呼ぶのだが、春日の嫉妬が嬉しい真己は黙っていた。いつも余裕綽々の春日が拗ねたような感じで、可愛い。
「里見は仲良かったし」
 にっこり笑ってそう言うと、春日がむっとした。真己はくすくすと笑いたくなるほどだった。
「いや?」
「何が」
「俺が下の名前で呼ばれるの」
 どうしようもなく可愛いと思って、真己は腕を伸ばした。今すぐ、抱き締めたい。春日はむっとしたまま、身体を倒してきた。
「別にいいけど。俺もどうしてなのか下の名前で呼ばれるからな」
 それも、先輩から後輩までだ。
 そこまで言ったら、今度は真己のほうがむっとした。
「後輩にまで呼ばせておくなよ」
 押し付けられた唇が動いて、笑っているのがわかった。
「春日っ」
「でも」
 するりと唇が下がってきて、鎖骨の辺りをきゅっと吸われる。
「ハルって呼んで良いのは真己だけだ」
 ああ、さっきまでの可愛い春日はどこに言ったのだろう、と真己は思いながらも、顔が緩むのは止められない。その呼び方も、滅多にしないが、抱き合っているときは必ず一度はその名を呼ぶ。そうすると、春日が理性を少し手放すのを真己は知っている。
「ハル」
 呼んだら、口付けられた。そのまま、舌がするりと絡む。
 何度も角度を変えて、口付けるというより何かを食べているかのように、唇を合わせる。歯列の裏をずるりと舐められて、真己は思わず鼻をならした。
 いつもならするすると全身をくまなく撫でてくれる手が、今日は髪ばかりを撫でる。まだ濡れているのを気にしているのだろうか、と真己は馬鹿なことを考えた。
 口付けだけではじれったくて―――その上それはひどく激しく官能的で―――真己は知らず足と腰を春日に擦り付けていた。絡ませて、押し付けて。それでも春日は動いてくれない。
「春日……いやだ」
「何が」
 何が、と言われて、どう答えていいのか真己はわからなかった。率直に気持ちを言葉にするのは、非常に躊躇われた。春日は時々、こうして意地悪をする。それに翻弄される真己を見るのが嬉しいというのは、年下を気にする春日の可愛いところだと思うのだが、こういうときは遠慮したい。
「ハル……もう」
 するり、と顎を伝ってのど元に春日の唇が落ちた。首の付け根を軽く噛まれて、真己は細い声を上げた。
 両手で腰を撫でられるその手の感触だけで、真己の腰は震える。先を期待して、自分が勝手に反応するのがわかる。
 春日と、こんな風に抱き合う日が来るとは、真己は夢にも思っていなかった。手に入れたいと思いながら、一方でずっと、春日は真己にとっての聖域のようになっていた。
 もちろん、真己は聖人君子でもなければ、清く正しいことだけでは生きていない。
 ふいに。
 真己は涙が込み上げてきたのがわかった。本当は、春日はこんな秘密めいた恋などする必要はなかったのではないかと、何度も思っては隠してきた。そう思ったところで、今更手離せないとわかっていたからだ。
「真己?どうした?」
 ふいに哀しげに目を潤ませた真己の顔を春日が上から見下ろした。そっと、瞼の上を長い指が撫でる。
「……どうもしないよ。春日が意地悪なだけだ」
 こんなに近くに体温があって、それを分け合う。そうできることの幸福を、春日はどれだけわかっているだろう。
 真己はそっと促すように春日の腕に触れた。春日は微笑んで、今度は焦らすことなく、真己の欲しいものを与える準備を始めた。
 繋がる、その感覚に、真己は何度も泣きたくなる。
 痛みや快感や、流されるような感覚よりも、もっと激しく、春日を感じる。そのことに、嬉しくて、そして切なくて、泣きそうになる。春日はそれをどこまでわかっているのか、いつもそっと瞼の上に口付ける。
 いつか。
 この温もりや熱さを、失うかもしれない。
 でも、そんな先のことは考えずに、二人でその熱を分け合う今を、真己も春日も大切にしていた。
 知っているからだ。
 時を積み重ねる、その愛しさを、二人は二人の時間で、知っているから。


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