home モドル * 02

風の匂い
01
 見上げられた瞳が綺麗だった。ガラス片とか、ビー玉とか、おはじきとか、宝物のようにして持っていたそれらのものより、絶対触らせてもらえない、母親の形見のアクセサリーに揺れる宝石より、ずっとずっと綺麗だ、と思った。
 それを、どうしても欲しいと。
 ―――祈るように思った。


 人などあっけない。
 それをわかっていたつもりが、納得できないでいる。もう動かなくなった、父親を見ても。不自然に眠る父親が、そのうち起き出すんじゃないかとどこかで俺は思っていた。
「通夜番、変わるから、少し休んだら」
 ふいに聞こえてきた声に顔を上げると、柔らかい顔をした春日(かすが)が立っていた。いつのまに、こんなに大きくなったのだろう、と思う。つい最近まで、俺の後を必死で追いかけていたような気がするのに。
「ああ、ありがとう。でも、ここにいたいから」
 そう言うと、春日は柔らかい表情のままその隣に坐った。幼かった春日がそんな大人の表情をするのが、なんだか不思議だった。
 あぐらをかいて坐った春日の横顔をなんとなく眺めると、目尻が赤かった。泣いてくれたんだ、とその目を見つめる。
「なに?」
「いや、泣いてくれたんだなって思って」
 自然と微笑みが浮かんだ自分に、俺は驚いた。哀しくて哀しくて、でも泣けないのに、微笑むことが出来ることに。
「うちの親がなんて言って俺を学校から呼び出したか知ってる?」
 春日が穏やかな声で言う。かわらないな、と俺は思った。小さい頃から、春日はいつも温かい声で話す。
 まきちゃん、と俺を呼んだ、幼いのに温かい声が好きだった。
「親戚のお葬式でって。だから忌引きなの、俺」
 実際、俺のもう一人の親のようなもんじゃん、と春日は言った。その視線は、目の前に横たわる白い布団の上に注がれていた。
 死んでしまった人間は、どうして小さくなってしまうのだろう。病気でもないのに、なぜ。
「ああ、ありがとうな」
 俺はそう言うと、こてりとその頭を横にいる春日の肩にのせた。春日が、一瞬びっくりして、でもそっとその髪を梳いてくれた。
 年下に甘えるなんて、と俺は一瞬思ったが、でもその手が優しくて、がっしりとした肩が安心で、離れがたかった。
「やっぱり疲れた?向こうで」
「いや、ここがいい」
 言葉を遮って呟いた俺に、春日はそれ以上何も言わずに、肩を貸してくれていた。
 触れる体温が温かくて温かくて、俺は少しだけ瞳を濡らした。


 俺の父親の事故死と言う突然の死から一週間が経っていた。葬式は訳がわからないままも、なんとかこなした。そうやって忙しくしているうちは良かったが、色々終わってしまったら、俺はぼんやりと家の中を見渡すしかなかった。
 就職をして三年経っていた。母親は俺が幼い頃に亡くなっている。面影を覚えているようで、それは写真で後から見た記憶なのかもしれない、とも思う。いつだって、思い出すのは父親の部屋に飾られたあの写真の笑顔だったから。
 平屋の家が、俺を小さくしている感じだった。誰もいない、俺だけが住むこの家。人がいないから、広く感じるのだろうに、俺はそれを認めたくないのか、自分が小さくなったように思った。縁側のあるこの少し古めかしい和風の家をいいと言ったのは、母親だったそうだ。でも、その俺の母親は結局この家で過ごしたことはない。
 よく手入れされた庭をぼんやりと眺めた。この後、一体誰がこの庭の面倒を見るのだろう、と思った。この庭を丹精こめて世話をしていたのは親父だった。もともとは、母親が好きだったらしい。そう言えば、黄色い花は連翹だと教えてくれたのは母親だろうか。
「真己?上がるよ」
 もう日も落ちたと言うのに電気もつけずにいる俺を不審に思ったのか、遠慮がちな声が玄関から聞こえた。門から玄関まで、垣根に遮られて縁側は見えない。俺は「ああ」とだけ答えると、そのまま縁側に坐っていた。
「母さんがご飯持ってけって。何やってんの?」
 春日がタッパや鍋を持って立っていた。それから、そのまま台所へそれを置きに行く。
「なんだ、春日帰ってたのか」
 俺はその後を追いながら声をかけた。隣の不破家の息子、春日は今年高校三年生になった。全寮制の高校のために、滅多に姿は見なかった。
「うん。一辺にやっちゃったけど、初七日だし。ゴールデンウイークだし」
 親父の初七日は、親戚の都合もあって葬式の日に一緒に済ませてしまったのだ。それでも墓参りをしようと思ったのだろう。そういう真面目でしっかりしたところに、春日だな、と思う。
「ああ、俺も明日行く」
 明日は日曜日で、勤め先の保育園も休みだ。俺は端からそのつもりだった。
「一緒に行ってもいい?」
「もちろん」
 春日は慣れた手つきで夕食の支度をしていた。用意のいいことに、炊き上がった米まで持ってきている。
「なんだ、おまえも食ってくの」
「だからご飯も持ってきたんだよ。俺はもうはらぺこ」
 並べられた二人分の食事に、俺は少し困惑していた。淋しいとか、そんな同情が嫌なわけではない。春日と、二人きりだからだ。
 まいったな、と思った。どうしたって、人肌恋しいときがある。手を、伸ばしてしまいそうになる夜が、ある。
 目の前に、好きな人間がいたら、余計に。
 俺はため息を隠しつつ、箸を出したり、味噌汁を盛るのを手伝った。何かしていないと、その広い背中に抱きついてしまいそうだった。
 一通り用意を終えて、冷蔵庫にビールを見つけた春日は、俺のほうを見てそれを掲げてにやりと笑った。
「未成年が。それが目当てでうちに来たな」
「いいじゃん。真己だって二人で晩酌した方がいいだろ?」
 俺は苦笑しつつも、一本だけな、と釘を刺した。俺は別に構わないが、お隣の両親に申し訳ない。
「おまえ、三年だっけ?」
 向かい合って食事を始めてから、俺は少しだけ居心地の悪さを感じながら、それでも目の前で勢い良く飯を掻き込む春日に目を細めた。
「うん。受験生」
「なんだ。内部進学じゃないのか?」
「そうだけど。それはそれで大変だって真己も知ってるだろ」
 春日の通っているのは大学附属の高校だ。もともと、その大学に行く気がある生徒を多く取る、ということで有名な学校だった。俺もそこの卒業生で、大学もそのままエスカレーターに乗っかった。
「学部は?」
「社会学部。報道関係に就きたくてさ。高校でも報道部なんだ。OBに結構記者とかやってる先輩がいる」
 へえ、と俺は次々とおかずを平らげていく春日を見た。小さかったはずの春日が、将来のことを語るとは。
「それなら別にOBなんて言わなくたって、おじさんがいるだろ?」
 春日の父親は新聞記者だ。
 俺がそう言うと、春日が箸を止めて顔を上げた。なんだよ、と俺が眉根を寄せると、春日が困ったような怒ったような顔をした。
「やーな大人になったな、真己。まあ、そういうコネとか親の七光りとか?使えるもんはなんでも使うってのに抵抗はないけどさ。そんなことが嫌だって言うほど俺もガキじゃないし。でも、男として親父の力の下って悔しいじゃん」
 その言い分に、俺は苦笑を返した。そうだよ、俺はもう社会人になってしまった。就職の大変さも、入ってからの社会の厳しさも、味わってしまった。
「そう言ってるの自体が、ガキかも知れないけどさ。まだ足掻きたいじゃん」
 俺にはそう言って拗ねるような春日が眩しかった。小さい頃から、変わらない真っ直ぐで強気な目だ。
 それでいい、と俺は言った。
 変わる必要なんて、少しもないと思った。


 取り留めのない話をしながら春日は結局缶ビールを二本あけた。酔っている感じではなかったが、飲んだのはばれるかもなあ、と俺は困った顔をしていたのだろう。春日もちょっと困ったような顔をして、泊まっていい?と聞いてきた。
 それに、俺は狼狽した。今夜は危ない。さっきからそんな警告が頭の中でなっている。
 春日が泊まるなんて、昔は珍しいことではなかった。不都合なんてなかった。隣にちょっと電話をすればいいだけの話だ。
 ただ、俺が困るだけの話で。
「明日休みだろ?どうせ一緒に墓参りだし」
 いいじゃん?と無邪気に言った春日が憎らしかった。
 人の気も知らないで。
「夕方久しぶりに虎太郎の散歩に行ったら、一緒になって遊んじゃってさ。結構汗かいたから風呂は入ってきたんだ」
 丁度良かった、などと言っている。虎太郎は春日の家のゴールデンレトリバーだ。捨てられていた子犬だから雑種かもしれないと春日は言っていたが、優雅な長い毛を持って、優しそうな顔をしている。それなのにその名前は可哀相だといつも思う。
 いや、今はそんなことより春日をどうにかしなければならない。
「じゃあ、自分で客間に布団敷けよ」
 俺は仕方なしにため息をつきつつそう言った。見えなければ、大丈夫。そう思ったのだ。
 それから俺は風呂に入った。春日は家に電話をして、テレビを見ているらしい。父親が死んでから、一人だったから、人の気配にひどくほっとしている自分がいる。まだ、慣れないのだ。
 父親とそれほど仲が良かったわけではない。大学生になった頃から、毎日顔を合わせるような日々はなくなった。それでも俺は親父の淋しがりやな性格を知っていて、家を出ることはなかった。男手一つで俺を育ててくれた恩を、そうやって返す以外の方法を俺は知らなかった。
 あっけなさ過ぎる、と俺は風呂につかりながら思った。
 もっと色々な話だって出来ただろう。酒だって一緒に飲めただろう。恩なんて、少しも返せていない。
 俺は緩みそうになった涙腺を叱るように、風呂の湯をばしゃりと顔にかけた。
 今夜ばかりは、淋しがってはいけないのだ。
 風呂から上がると、俺はトランクス一枚で、タオルを肩にかけたままぺたぺたと台所に向かった。少し飲み足りないと思いながら、冷蔵庫からビールを出す。普段より酒量が多いが、明日は休みだしいいだろう。
「あ、いいなあ」
 隣の居間でテレビを見ていたはずの春日が、ずるずると這ってきた。結局二本も飲んだ奴が何を言う。
「おまえは飲みすぎ」
「真己と同じ量だろ」
 膨れた春日に、俺はゆったりと笑った。そう言うことは、正々堂々飲めるようになってから言え。
「生意気だな。飲んで親に怒られる年だってのに」
「俺は別にいいけどさ。真己が嫌なんだろ?」
 おや、と俺はその生意気なガキを見た。随分なことを言ってくれる。
「当たり前だ。お兄さんは不破家のご両親にはいい子なんだよ」
 にっこりと笑うと、春日が目を逸らした。なにがお兄さんだ、とぶつぶつ言っている。
「大体っ、そんな格好してんなよ。風邪ひくぞ」
 ふーん、と俺は酔った頭で思った。春日の耳がうっすらと赤い。それに悪戯心が湧いた。
「何?お兄さんの大人の色気にやられた?」
「馬鹿言ってんじゃねーよ」
「ハルちゃんは男子校だもんねー。それも全寮制。溜まってんの?」
 ハルちゃん、というのは俺が幼い頃に春日を「かすが」と読めなかったことからついたあだ名だった。あのとき俺は、「はるひ」と呼んでいた。そんなあだ名も、久しぶりに呼んだ。
 春日はむっとしながら仰向けになってため息を吐いた。
「あのなあ。親父くせーぞ」
「親父で悪かったね。おまえらから見れば25なんて親父だろ」
 自嘲の笑みが零れる。俺も何をやっているんだろう。
 こんなガキが―――
 ―――こんなガキが欲しいなんて。
 俺は残っていたビールを煽って、ゆっくりとその春日の上に覆い被さった。
 あの目が、部屋の明かりにきらきらと輝いていた。
「何やってんだよ……」
 口の端からビールを零しながら、春日が呆然と言った。俺もわからなかった。どうして、そんなことをしたのか。
「ビール、飲みたかったんだろ」
 にやりと笑ってやる。
 でも、泣き出しそうだった。後悔がどっと押し寄せて、謝ってしまいそうだった。なかったことにしてくれと、言ってしまいそうだった。
 その口付けが苦かったのは、ビールの所為だったのか、それとも何か違うものの所為だったのか。
 見開かれた黒い瞳は、驚いて、困惑したように、俺を見つめていた。



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