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風の匂い
02
 よろしくね、と笑った顔をぼーっと見ていた。差し出された手を、握っても大丈夫だろうか、と思った。
 お日さまみたい、と子供の俺は思ったんだ。
 あったかくて、思わず笑っちゃうような、幸せな日向にいるときのような。そんな笑顔だった。
 ずっと、見ていたいな。
 俺はおもちゃを欲しがるような無邪気さで、そう願っていた。


 はあっと深いため息を吐いて、俺は学校の机にべたりと倒れ込んだ。いつもなら放課後は部室に直行するのに、今日はあの中に行くのが怖かった。こんな調子でいったら、部長の宮古をはじめとしてからかいのネタになるに違いない。それをかわす気力が、今日の俺にはなかった。
「あれ、春日何やってんだ?」
 がらりと勢い良く開けられたドアから入ってきたのは、バスケ部部長で運動部統括の海田 広だった。ということは、執行部会は終わったのだろう。
「終わったのか」
「いや。まだだろ」
 その答えに、俺は眉根を寄せた。そのらしくない無責任な発言はなんだ。
「追い出されたんだよ。鬱陶しいってさ」
 ああ、とようやく俺は納得する。このところ、海田の様子がおかしい。というより、この間ようやく長い長い片思いを実らせたと言うのにその二人がおかしいのだ。海田はため息を繰り返すし、相手の重藤は東の寮長の部屋に入り浸ってる、ということだった。喧嘩でもしたのかと思ったが、そうでもないらしい。俺は海田と同じクラスということで、報道部の中では海田番として位置付けられているが、あまり記事にすることはない。海田からの圧力がかかるのだ。運動部の情報は、悔しいことに海田が握っている。今回も、部長の宮古から報告のみしてくれ、と言われていた。
「おまえはいいのか?追い出されたって言っても、もう終わりに近かったぞ」
「今日は行く気分じゃねーんだよ」
 俺が机に肘をついて体育館へ繋がる通路を眺めていると、一年だろう。何かふざけながらそこを走っていった。
 無邪気でいいなあ、と思ってしまう自分が可笑しい。たった二年しか違わない。俺と真己など、七年も違うのに。あいつからみたら、俺なんかどれほどガキに見えるだろう。
 だから、あんなことをしたのだろうか。
 ただ、からかうために。
「そういえばおまえも鬱陶しかったな」
 ため息を漏らした俺に、海田がロッカーに坐って膝を立てながら笑った。ガタイが良くて筋肉が綺麗についている背の高い海田がすると、少し嫌味なくらい格好がいい。
「たまには俺が詮索してやろーか」
「なにがたまには、だ。俺だって大して詮索してないだろ?今回のことなんて特に」
 色々見ているうちに、なんとなく海田が考えていることがわかるようになっていた俺は、今回は海田は放っておいて欲しいのだろう、と思っていた。
「まあ、俺の番付きが春日で良かったよ」
 宮古だったら、今ごろのんびりなんてできない、と海田が苦笑する。俺はたぶん、宮古よりお節介じゃないのだ。
「相談っていうより、話を聞いてもらいたいとかさ、そんなんでも、海田番のことを抜きにして聞いてやるぞ?どうせおまえらのこと良く知ってるんだから」
 そう言うと、海田がありがとな、と笑った。
「それよりおまえの方が俺は心配だ。宮古ストッパーがそれじゃあ困る」
「おまえに関して言えば、ストッパーなんかいらないだろ?」
「それでも。俺は脅すか取り引きするかじゃないとあいつを止められないからな。それを説得って形でできるのはおまえだけだろ」
 損な役割だ、と俺が嘆いて見せたら、不運だな、と慰めにならない言葉を海田が言った。
「副なんてみんな損だろ。うちの松にも迷惑かけてるからなあ」
「おまえらの腹立つところはさ、そうやって迷惑かけてるってわかってるところだよ」
「だから、たまには力になりましょうか?って言ったんだけど」
 苦笑する海田に俺は、言葉はともかく、内心で海田がきちんと心配してくれたことがわかった。
「いや……大したことじゃないんだ。ほっとけば多分勝手に解決する」
 あれがからかいだというのなら。
 気にする必要は何もないのだ。
 ちょっと酔って、からかって―――それだけだ。
 ただ俺を困惑させるのは、真己がまるで挑発するように笑ったと思った自分だ。濡れた髪から落ちる雫が、その肌を滑るのを見ていられなかった自分だ。
 あんな格好など見慣れているはずなのに、目を逸らさずにいられなかった、そんな自分だ。


「春日先輩っ」
 海田が部活に行った後もまだ教室でぼうっとしていた俺を、後輩の水野が呼びに来た。どうでもいいが、何故俺だけ名前で呼ばれるんだ。
「何やってんですか?部室に来てくださいよ」
「あー、俺今日はサボり」
 はあ?と首を傾げられる。いいだろう?俺だってたまには休みたい。
「先輩に来てもらわないと困ります。海田先輩に苛められたみたいで、部長が機嫌悪いんですよ」
 だから俺を呼びに来る、という辺りが嫌だよなあ、と俺はため息だ。それでも仕方なく、俺は立ち上がった。
 部室に行くと、確かに宮古が笑いながら後輩達をからかって苛めていた。これを機嫌が悪い、と表現した水野はなかなかの目をしてる。
「あ、春日。何やってたんだよ」
「別に」
 俺はそう言って、自分のパソコンを立ち上げた。九重月報の締め切りが近づいていることを思い出した。
「おまえこそ記事も書かないで何やってるんだ?締め切り近いぞ」
「今月はおまえが書け。海田のことで良いから」
「そんなこと言って知らねーぞ。後で痛い目に遭っても」
 遭うのはおまえだろ、と宮古は笑ったが、海田のことだ。俺だけじゃなく宮古にも責任追及を必ずする。その上、報道部そのものに圧力をかけるに違いない。
「おまえの記事でもいいけどな」
 ふと、面白そうににたりと笑った宮古が言った。俺はそれに目を眇める。俺のネタなどないはずだ。
「うわ、もう忘れてんの?かわいそうになあ、あの子。結構可愛い子だったじゃないか」
 言われて、それがゴールデンウイーク前のことを言っているのだとわかった。
 海田と重藤のカップルが公認になって、俄か告白ブームのようなものがあった。それに俺も巻き込まれたのだ。話したことのない一年の後輩から、付き合ってください、と言われた。可愛らしい顔はしていたが、俺には男と付き合う趣味はない。九重に三年もいて、それでも俺はその気にはならなかった。
「俺は別に構わないけどな。あの子がかわいそうだろ?」
 俺がそう言うと、宮古がため息を吐いた。
「優しいのか酷いのかわかんねーな、おまえは。どうしてこんなのがもてるのかね」
「もててないだろ、別に」
 実際、告白されたのはあの一度きりだ。宮古の方がよほどそんな機会があるんじゃないだろうか。見た目だけはいいからな。
「あのな、自覚がないのは罪だよ、春日」
 ね、とふいに振られた水野が、苦笑している。
「春日先輩のファンは晩生って言うか、生真面目と言うか……。宮古部長のファンはノリで告白できても、春日先輩のファンは無理ですもんね」
 そんなことを言う。なんだそれは。大体、俺のファンがいるとは知らなかった。
「それだけ真剣ってことでもあるのかもしれないですねえ」
 のんびりとした口調でそんなことまで言われて、俺はため息を隠せない。まあ、行動を起こさないでくれた方が助かる。断るのも申し訳ないし。
 俺がそう言うと、水野にまで「優しいのか酷いのかわからない」と言われてしまった。
 そんなことを話して数日後、俺は少なからずそのファンとやらの存在を認めざるを得なくなった。その日は俺は一人残って最後まで記事のチェックをしていて、部室を出たのは夕飯ぎりぎりという頃だった。学校ももうすぐ閉まってしまう。
 鍵を閉めているところで、春日先輩、と小さな声で呼ばれたときは思わずびくりとした。真っ暗の廊下で、誰もいないと思っていたからだ。
「ああ、びっくりした。どうしたんだ?」
 そこには、報道部の一年の新見がいた。もうとっくに帰っていたのと思ったのに、どこにいたのだろう。
「先輩を待ってたんです」
「それなら言ってくれれば。外で待ってたのか?」
 こくり、と新見が頷いた。細くて、まだ伸びきっていないのだろう身長に、動作も幼さを見せる。俺も一年の頃はこんなだっただろうか。まあ、入学してすぐに身長は伸びたけど。
 そう言えば、真己にも制服に着られてるみたいで可愛いなあ、などと馬鹿にされた。
「なに?話?」
 どうもすぐ真己のことを思い出すな、と苦笑しながら、帰りながらでもいいだろうと促すと、新見はすっと息を吸ったようだった。歩き出さずに、じっと見つめてくる。
「先輩。俺、先輩が好きです」
 薄暗い廊下で、黒い瞳が艶やかに光っていた。真剣なその目に、俺は一瞬言葉を失った。
 真っ直ぐなその想いが、俺を途惑わせた。答えは決まっていたが、ちゃかして宮古たちと話したようには、断れない。
「新見……」
「先輩には迷惑だってわかってます。でも、先輩のファンが一杯いて、この間告白した人がいるって聞いて……。俺もどうしても自分の気持ちを伝えたかったんです」
 震えるような声は泣いているようだったが、目はしっかりと開かれて、濡れてはいなかった。
「ごめん」
 俺はそれしか言えず、目を伏せた。そんな真っ直ぐな気持ちを向けてもらえる人間だとは、思っていない。
「いえ。聞いて頂けただけでも嬉しいです。ありがとうございました」
 強いな、と俺は思った。そんな真っ直ぐさが、少し羨ましい。それから、寮まで一緒に帰ろうと言うと、困った顔をされた。
「気持ちはわかるけど、俺は心配。特に一年は危ないから。俺の我侭だけど、聞いて?」
 海田の相棒、重藤の例もある。あれが起爆剤のようになって、一年も悪さをし始めなければいいが、というのが三年の心配事だった。
「春日先輩って、やっぱり優しいのか意地悪なのかわからない」
 諦めたように歩き出しながら、新見はそうため息をついた。
「新見まで言うなよ」
「優しいんですよ。優しすぎて、残酷なんですよね」
 それにはどう答えていいかわからず、俺は苦笑しただけだった。
 階段を下りながら、俺はありがとな、と新見に言った。
「俺は自分が優しすぎるってほど、人に優しくしたことなんてないし。おまえに、真剣に思ってもらえるほどの人間じゃないとも思う。人としては海田の方がずっとでかいと思うし」
 総総代の瓜生も、生徒会長の佐々野もすごいと思うが、俺の中では懐の大きさでは海田が一番だと思っていた。だから運動部長などやっているのだろうが。
「でも、新見にそうやって真っ直ぐに思ってもらえたのは、嬉しいよ」
 少し、自信が出る。そう言ったら、新見がひどく困った顔で俺を見上げた。
「だから、それが残酷なんです」
 そう笑った新見の目が、ゆるく潤んでいた。



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