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あふれ出る言葉など何の役にも立たない
01
春の孤独は痛い。そう言ったのは誰だったか。
芳明(よしあき)はふとそんなことを思って、バスの外を眺めた。木々の間から時々のぞく眼下の街並みに、淡く浮かぶ桜の花が見える。バスは緩やかな山道を、のんびりと、という感じに登っていた。それも、春だからだろうか。
山の麓から、最終停留所でもある芳明の目的地まで、停留所はない。本当に、何もないのだ。このバスが山をこんな風に登らなければならないのは、ただひたすらに、芳明のような学生のためだけなのだ。
そうなると、今バスに乗っているのは同じ学校の生徒達なのだろう。今日は臨時便が出ているといっていたから、それほどバスの中は混んでいないが、それでも立っている学生もいる。ただ、みんな誰かとは知り合いのようで、話の花が咲いていた。
今日は入寮式を兼ねた入学式で、在校生も入学式には自由参加で、入寮式には全員参加で出席する、と聞いていた芳明は、ここにいるほとんどは先輩なのだろうと思った。ちらほらと見える年配者は、保護者だろう。全寮制の高校への入学式だ。普通なら、新入生には誰か保護者がついてくるものなのかもしれない。でも、そう言う経験のない芳明には、よくわからなかった。羨ましいわけではないし、もう高校生になったのだから、という思いもあった。
長かった、と思う。高校生になるのを、どれだけ待っただろう。小学校三年生の頃からずっと、ただひたすらに時が過ぎるのを待っていた気がする。
小学校にあがってすぐ、芳明は両親を事故で失った。貧しかったが温かい家庭で、芳明は笑ってばかりいた。それを失って、そしてそれはあまりに突然で、芳明はその頃のことをあまり覚えていない。ようやく記憶がはっきりし始めるのは、一年ほど経ってからだ。いつまでも両親の帰りを待ちわびる芳明に、根気強く付き合ってくれた母方の祖父のおかげだった。あとで知ったことだが、両親は結婚を反対されて、駆け落ち同然で家を出たらしい。それをいつまでも許さなかった、許さないまま逝かせてしまったことを、祖父はずっと悔いていた。
でも、その祖父もまた、二年後には亡くなった。祖母はもうとっくに亡くなっていて、二人暮しだった芳明は、突然今度は父方の親戚の家に引き取られた。そのとき初めて、父親の実家がかなり大規模な会社経営をしていることを知った。多分に世間体を気にしたのだろう、ということは幼い芳明にもわかった。小学校三年生と言っても、博学で本をたくさん持っていた祖父のおかげで、周りより大人っぽいと評されていた芳明には、父方の家が自分を疎ましく思っていることは容易に知れた。
もう、長くないということを祖父は知っていたのだろう。信頼の置ける弁護士に遺言を託していた祖父は、芳明に全ての遺産を残してくれた。それでも、義務教育を終えるまではと木田の家が芳明を預かることにしたのは、母方の親戚は遺産をすべて横取りした形となった芳明のことなど、見向きもしなかったからだ。
九重大付属に行くといったとき、反対はされなかった。金銭面は祖父の遺産でなんとかなると芳明が言ったら、ようやくその意図を悟ったようだった。
お世話になりました、と出てきたその家に、二度と戻らないつもりだった。淋しくなどなかった。祖父が死んだあのときから、自分はいつでも一人だったのだから。
「おー、久しぶりだなあ」
誰かがそう言って、ふと顔を上げると、バスはゆっくりと角を曲がるところだった。視界が突然広がって、学校へ着いたのだとわかる。
バスを降りると、遠く高台に校舎が見えた。入試は街中にある大学で行われるために、学校に来たのは初めてだった。なんだかリゾート地の娯楽施設を詰め込んだホテルみたいだと芳明は思った。と言っても、そんなところに縁があったことはない。写真で見たことがあるだけだ。
「遠いじゃん……」
ふと呟いたら、隣の学生と目が合った。みんなわりと軽めの荷物だが、新入生の芳明は荷物が多い。これでも宅急便で荷物は送ったのだが。
「新入生?」
人懐っこい笑顔に頷くと、にっこりと笑われた。程よく日焼けした、とても端正な顔をしている。身体のバランスがひどく良く、何か運動をしていることはすぐに知れた。その顔を、どこかで見た気がすると芳明は頭の隅で思い出そうとしたが、呟かれた言葉に思考が流れる。
「寮までは近いけど、まだ部屋決まってないもんなあ。それ持って体育館まで行くのかあ……」
そう言って、その生徒は芳明の荷物をふむと眺めた。入学式のある体育館は校舎横、と書いてあったから、ここから高台に見えるあの校舎まで歩かなければならないのだ。
仕方ない、と苦笑しながら芳明が荷物を持ち上げると、その生徒がちょっと待って、と引きとめた。
「俺はもう南に部屋が決まってるからさ、そこに置いておく?」
ちなみに、南寮はすぐそこ、と右手を指す。確かにこの荷物を持っていくのは、いくら体力に自身のある芳明でも、非常にためらわれた。
「いいんですか?」
「構わないよ。君も今日から俺の後輩なんだし」
目の前の生徒はそう言って、歩き出す。芳明はありがたく、その好意に甘えることにした。
荷物を置いて寮を出ると、やばい怒られる、と言いながら、快く荷物置き場を提供してくれた先輩は、走っていってしまった。芳明はまだ集合時間には余裕があって、のんびりと校庭を校舎に向かって歩いていく。野球場にサッカー場、400メートルトラックまで入っている校庭は、とにかく広い。そこを囲むように整備された歩道があるのだが、先ほどの先輩は校庭のど真ん中を突っ走っていった。
人の流れに沿っていけば迷うことなく、体育館に着いた。全校で1500人程の生徒がいるはずで、在校生は自主参加と言えども、朝から臨時バスが出るほど結構な数の生徒が来ている。体育館の前はひどく混雑していて、なにやら順番待ちをしているようだった。新入生はこっちです、と叫ぶ声に、入るのに並ぶのか、とため息をつきつつ、芳明も列の最後尾に並んだ。
クラス分けも寮の部屋割りも、この入学式で決めるのだと書類には書いてあった。それを読んで、なんだかのんびりしていると芳明は思ったのだが。
「くじ引き……?」
体育館の前で並んでいたのは、ただ体育館に入るためではなく、くじを引くためだった。はい一枚取って、と言われて指差されたのは四角い箱で、丸い穴が開いている。そこに手を突っ込んで中身を一つ取ると、きちんと三角に折られた紙が出てきた。
「それ持って中に入ってね。中に受付けあるから、そこでそれを見せて」
そう言われて体育館に入ると、確かに机が並んだ受付があった。その中の新入生と書かれたプレートがある机に並んで、芳明は先ほどの紙を開いてみる。
『1−A 309』
1−Aは、クラスだろう。ということは309が部屋なのだろうか、と芳明が考えていると、後ろに並んだ生徒がひょいと覗いて来た。
「お、同じクラスじゃん」
そう言って、自分の紙をひらりと見せる。そこには確かに、『1−A 428』の文字があった。
「それにしても、クラス分けがくじ引きとはなあ」
後ろの生徒のその声に、芳明も苦笑した。
「俺、水野基一(みずの きいち)。よろしく」
そう言ってにっこり笑った水野は遊び人のような風貌で、芳明は戸惑いつつも、こちらこそ、と笑った。過不足なく整った顔だが、少し明るめの髪が芳明にそんな風に思わせたのかもしれない。あまり得意なタイプではないが、笑った顔は憎めないものがあった。
「俺は木田芳明。こちらこそよろしく」
芳明がそう言うと、基一はぽんっと肩に手を置いた。気安い性格のようだ。
周りは随分とざわついている。自由参加の割には在校生の姿が多く、再会を喜んで騒いでいる。反対に、新入生たちがいる辺りは、どちらかと言えば緊張感が漂っていた。
「はい次の人。名前言ってね」
そう言われて自分の番が来たことに気付いた芳明は、手にしていた紙を目の前の生徒に見せた。机には二台のパソコンがあって、どうやらそこに今決まったばかりのクラス分けを打ち込んでいるようだった。随分面倒なことをする。
「木田芳明です」
そう言うと、目の前の生徒がちらりと芳明のほうを見た。その視線が意味ありげで、芳明は思わず首を傾げた。何か不都合でもあるのだろうか。
「統括ー。尋ね人ですー」
わりと華奢な印象のある体からは想像できないハスキーな声で目の前の生徒がそう叫ぶと、後ろで生徒たちを並べていた男が振り返って走ってくる。その顔を見て、芳明は思わず頭を下げた。
「お、やっぱりおまえが木田か」
そう言ってにやっと笑ったのは先ほど荷物を部屋に置かせてくれた生徒で、どうやら芳明を知っているらしい。自分も、この人をどこかで見たことがあると思ったのだから……。そう考えると答えは簡単だった。
「海田先輩、ですね?」
見たことがあると思ったのは、バスケットボールの試合を映したテレビや雑誌だ。芳明自身、中学時代はバスケットボール部で良い成績を残している。
「なんだ、知ってたのか」
知っていた、と言うより今思い出したのだがそのことは言わずに、芳明は先ほどはありがとうございました、と頭を下げた。
「いいって。言っただろ、俺の後輩になるんだからって」
それが、この学校の後輩と言うだけではなく、部活の後輩の意味もこめられているだろうことは芳明にもわかって、苦笑を返した。高校に入ってからもバスケを続けるかどうかは、正直迷っていたからだ。木田の家と縁を切ったように思っていても、それは生活面のことだけで、実際戸籍などは木田のまま、保護者も木田の祖父になっている。体面ばかりを気にする家が、どうして勘当同然だった息子の子供の籍を再び木田に移したのか、芳明にはわからない。当時、まだ子供だった芳明には、相談なくなされたものだった。
体面が大事だからこそかもしれない。そもそも芳明を引き取ったのも、世間体を考えていたからに違いないのだ。
――この家に入ったからには、木田の家に泥を塗るような真似はするな。
芳明は、そう言われ続けてきた。そして、父親はまさに木田家に泥を塗ったのだと祖父は言った。それから、「自分はその息子なんだと、自覚しろ」。そう、言われた。
その木田が、自分が目立つことを快く思うはずがない。中学時代も、スポーツ雑誌の取材などは断るように言われていた。幸か不幸か、九重大付属高校のバスケ部は全国でも名が知れていて、やるならレギュラーを狙いたくなることはわかっているからだ。
芳明のはっきりとしない表情に、海田は一瞬眉根を寄せたが、遠くから「ナンパは後にしろっ」と怒鳴られて、仕方なく戻っていった。
バスケは嫌いではない。それで食べていくことは考えていないが、この九重の選手達とプレーをしてみたいと思うのが、正直な気持ちだった。あの海田の、スピード感溢れる、それでいて豪快なプレーをはっきりと覚えている。
自分が木田でいる限り、自由になどなれないのだと、芳明は改めて実感した。
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