たった一つ欠けたパズルの破片を持っているのは君だろう?
01
東の春姫。
西の秋姫。
誰がつけたか知らないが、おかげで九重生は守るものを手に入れた。幼くて、自分勝手な自尊心をくすぐるこの存在を、俺は割と冷めた目で見ていた。
自分が、そうなるまでは。
思ってもいなかった。
自分が、春姫と呼ばれるなんて。
「ちはやー」
男の子って言うのは、どうしてあんな風に成長してしまうんだろう、と俺は自分のことは棚に上げて思った。たった三年だ。たった三年会わなかった。その間に、隣のおちびの広(ひろ)くんは、俺の背を越えて、がっしりとした、引き締まった肉体を手に入れていた。目元に少し、甘い幼さを残した、それは男らしい顔と共に。
「朝っぱらから元気だな。朝練終わったのか?」
俺は真っ黒なコーヒーをぐいっと飲むと、苦笑交じりに顔を上げた。その目に、かなり場違いな感じのある、バスケ部揃いのTシャツを着た隣の元おちびさん、海田 広(かいた ひろ)が眉根を寄せたのが映る。朝練をしている運動部員たちはもう出払っていて、今は制服姿ばかりの生徒達がいる寮の朝の食堂にその格好で来る広に、それでも東寮生は慣れたようだった。
「千速、おまえコーヒーの消費量が多いんだから、カフェオレにしろっていつも言ってるだろ」
そう言って、ミルクを取りにいく広はやっぱり、ちょっと浮いている。かわいそうに、ちょっとごめんね、とどかされた一年生が怯えてる。体格がいい分、圧迫感があるのだ。
「ブラックじゃないと目が覚めないんだよ。牛乳入れると飲んだ気しなくて、もう一杯飲むから量的に変わんないだろ」
そう言っても、広はそんなことは聞いてくれない。勝手に俺のコーヒーにどぼどぼとミルクを注いで、満足している。
「で?何?部長がこんなところでサボってていいの」
俺は仕方なしにそれを飲みながら、用件を言えと促した。
「あ、おまえのとこの数学、こっちより進んでただろ?ちょっとノート貸して。俺今日の二限に当たってんだ」
一限の休み時間に取りに行くからさ、と広は言うだけ言って、頼むな、と走っていった。ほんとに、元気な奴。と言うか、それを言いにわざわざ体育館から校庭を横切って東寮まで来たのかと思うと、ごくろうなことだ。
「朝から爽やかだねー、海田は」
まだ眠そうな目をしながら俺の隣に座ったのは、寮長の深山だった。本を読んでいて寝不足、などと言っている。
「爽やかって言うか……うるさいだけだろ」
「そうか?あれだけハードな朝練してあの爽やかさはすごいと思うけどな。見てみろよ。一年なんてのぼせ上がってる奴がいる」
新学年が始まったばかりの春のこと。まだおどおどと可愛らしい一年は、それでも西と東の寮対決は知っているのだろう。実際は対決なんて言うのではなく、お互い敵対心を持って楽しんでいるだけだが。ただし、ときどき勘違いする奴もいる。
その対決に加わらない南寮の連中は、ある種の憧れでもって見られることが多い。もちろん、それなりに入寮条件があって、その中の一つ、生徒会執行部に籍を置いている運動部長の広は、優遇されている。
「これで試合とかあると、一気に隠れファンができるからなあ。気をつけろよ」
何に?と聞くための声はため息に変えた。
何でもわかってる、という感じにそれでも嫌悪感がわかないのは、たぶん深山の落ち着いた雰囲気のせいだろう。大人びた笑いなんてされると、納得してしまう。ああ、おまえにはわかってるんだな、って。それで本人は、損をしているのか得をしているのか。
「うちのおひーさんのコーヒーにミルクをどぼどぼ入れる奴なんていないからなあ」
そう呟いた深山に、俺は抗議の意味を含めて、がしゃんっと乱暴にコーヒーカップを置いた。でも深山は、苦笑するだけだ。
白状する。
ときどき、ときどきだけど、深山にイライラするときもある。でもそれは、結局は自分にイライラしてるんだから、始末が悪い。だいたい深山はわかってやってることの方が多い。
俺も、おまえぐらい大人になりたいよ、と俺は心中でため息をついた。
「まだ諦めてないのか?春姫」
「諦めるかって。嫌なものは嫌。今年の一年にだって可愛いのはいるだろ?そっちにまわせよ」
「おまえね、可愛いだけじゃ姫にはなれないって知ってるだろ。それで今年の秋姫がいなくって、大庭が困ってるんだから。こっちにはおまえがいて助かったよ」
何が助かったよ、だ、と俺は内心毒づいた。本人の了解なしに勝手に姫呼ばわりされる身にもなってみろ。俺は男だぞ?
「とにかく、俺のことをそう呼ぶな。俺は断固認めないからな」
そう言って、トレイを持って立ち上がった俺の背に、どうしてそうまでして嫌なんだか、という深山のため息が聞こえたが、それには聞こえない振りをした。
姫に相応しいのは、可愛らしさじゃない。綺麗で、凛とした、意志の強さを持つもの。
いつからこんな伝統があったのかは知らないが、これは昔から決まっていたことだそうだ。可愛いだけの幼い姫では駄目で。凛とした美しさ、が春秋姫の絶対条件だった。
それは、ヨーロッパ中世の騎士道に通じる心を九重生に植え付ける。王のためだけではなく、王妃のために。一丸となって、守るのだ。
それを初めて聞いたとき、バカバカしいと思った。だいたい、本当の姫じゃない。姫と呼ばれても、男なんだし、ここは中世ヨーロッパでもない。それでも、数ヶ月経つうちに、俺は認めざるを得なかった。これは確かに、少しは意味のあることだと。団結力を強める、という効用はもとより、まだまだ青き俺達の精神安定剤になりうること、を知った。誰かを守ろう、と思うだけで、人は強くなれる。そうやって、少しずつ大人になっていく、その過程を提供してくれるんだ。わりとお坊ちゃまが多くて、我侭ほうだい育てられた九重生達の、いい教育にもなるだろう。
というわけで、その守られるお姫様もまた、小動物に対する庇護欲を誘うような可愛らしいだけの存在じゃいけない。中世ヨーロッパ的に言えば、命を賭けてでも守る、というような存在なわけだ。大げさだけど。
まあ、これは俺の冷めた目で見た当時の勝手な分析で、実際はみんな楽しんで遊んでいる、という部分も大きいと思う。
でもつまりは、秋姫にしろ春姫にしろ、選ばれたのならそれを誇ってもいいはずなのだ、多分。
実際、俺が入ったときから二年間、春、秋姫と呼ばれた先輩二人は、本当にカッコよかった。綺麗なのに、カッコイイのだ。でもそこに、少しだけ危うさを孕んでいて、お仕えします、と言いたくなる存在感を持っていた。
その前春姫、摂(せつ)先輩に、俺が次期春姫と言われて憤慨していたとき、言われたことがある。
―――大丈夫。おまえなら。それに、世代交代の直前はちょっと大変かもしれないけど、三年になったら楽かもよ?姫って呼ばれるのも。
おまえなら、と綺麗な顔で微笑まれて、嬉しくなかったわけじゃない。それに、三年になったら楽、と言うのも今はわかる。
お祭り好きで閉鎖空間の男子校、九重の悪習の一つ、校内で相手を見繕おう、という呆れるような、それでも広がっている習慣に、先輩の卒業直前は、確かに大変だった。それまでちらほらと「お付き合い」の申し出を貰っては片っ端から断っていた俺に、なんだか猛アタックがかけられた。色々な人から。でもそれも、正式(というか勝手に)春姫となった後は、ぱたりとない。
これは、「姫には手を出すべからず。抜け駆け厳禁」という掟のようなものがあるお蔭らしい。騎士たちが、それこそ姫を守ってくれるわけだ。だから、二年間俺を怒らせて、呆れさせていたわずらわしさは今ない。
でも、俺は春姫と呼ばれたくない。
恐れ多いとか、俺には相応しくないとか、そう言う謙虚な気持ちもある。でも、それ以上に、俺はもっともっと個人的感情で、春姫と呼ばれることを嫌がった。
俺は、春姫なんて大嫌いだった。