たった一つ欠けたパズルの破片を持っているのは君だろう?
02
天変地異より驚くことなんて、世の中に溢れていると俺は思う。特に、自分に対して。
例えば、隣のおちびさんが大きく、頼もしくなって俺の前に現れたこと。
それがやたらいい男になっていて、俺は置いていかれたように淋しくなったこと。
それがいつのまにか―――好きだという気持ちに変わっていったこと。
でも、隣で泣いていたはずの広は、そのときには俺の手なんか振り解いて、どこか遠くにいた。
手を伸ばしても届かないのに、俺はその手を伸ばすことすら、躊躇った。
あいつの視線が、俺には向いていなかったから。
誰か違う人を、追いかけていたから。
俺に残されたのは、幼い、大きな目をきらきらさせて俺の後を付いて歩いていた、小さな広の思い出だけだった。
「よっ、ノートありがとな」
学食と言うよりカフェテリアと言っていいだろう食堂で昼飯を食べていると、広が文化部統括の宮古、総代の瓜生、生徒会長の佐々野、副会長の高原といった派手な連中と一緒にトレイを持ってやってきた。屋根から窓まで総ガラス張りのテラスの、日の当たる気持ちのよい席は三年の特等席のようなもので、一、二年生はあえてこっちにはこない。特に目の前の花壇を丹精こめて手入れしている深山と一緒に食事をする所為で、この席は今や俺達の指定席のようになっていた。その席が、南寮の連中で埋まって、一気に注目の的になる。俺は目立つのが嫌で、そうそうに立ち上がった。
「おまえ、少しは自分で予習しろよ」
「何?もう行くの?」
広は人の話など聞いていないかのように、(というよりわざと聞こえない振りをしたんだろう)隣に立って俺の肩を掴んだ。
「……派手過ぎんだよ、おまえら」
俺がそう呟くと、宮古が今更、と笑った。
「重藤だけでも十分派手だから気にすんな」
どこが?と俺が睨むと、宮古は肩をすくめて見せた。隣の広はそんなことお構いなしに、俺が手に持っているトレイを覗いて、不機嫌な顔になる。
「大体、おまえ半分も食べてないじゃないか。しかもまたブロッコリー残してる」
俺は少食と言うより、味にうるさいのだ。食欲だけで食べる、または食べなければやってられない体育会系の広とは、ちょっと違う。それでも広は、いつもうるさい。
その広の言葉を面白そうに聞いていたのが、宮古だ。
「へえ、姫はブロッコリーが嫌い、と」
さすがは報道部長、と一瞬は思ったが、呑気に感心してはいられない。
「それ、やめろよな」
「なにを?ブロッコリーが嫌いだってことを公表して欲しくない?」
わかっていてすっとぼけるのだ、こいつは。
「公表するようなもんじゃないだろ、そんなことは。それより、姫って呼ぶなって言ってるだろ」
この報道部が絶対に煽っている、と俺は思っていた。こいつらが面白おかしく書き立てなければ、俺が春姫なんて誰もきっと見向きもしない。もともとお祭り好きの九重生は、ゴシップやちょっとしたイベントごとに全力をかけている節がある。その盛り上げ役としての「姫」は、報道部には欠かせないのだろう。
「おまえらいい加減座れ。気だるい昼休みに余興を提供するのはいいけどな」
佐々野がそう笑って、俺はようやくただでさえ目立っていたのに、さらに注目の的になっていることを悟った。仕方なしにもう一度椅子に座る。
「重藤はなんでブロッコリーが嫌いなんだ?」
「インタビューなら金取るぞ」
「……いいよ、海田に聞くから」
宮古がそうにっこりと笑って、俺はますます不機嫌になった。なんでそこで広なんだ。
「重藤のことなら海田だろ」
俺の心中を読んだように、宮古が言う。
「おいおい、俺も金とろうかな……じゃない。突っつくな。ちゃんと食べろよ。味は別に嫌いじゃないんだろ?」
ふてくされたように俺がフォークでブロッコリーを転がしたのを見て、広が眉間にしわを寄せる。自分は豪快にカツ定食を食べている。それがまた、美味しそうに食べるんだ。見惚れるくらい。俺は広がものを食べるのを見るのは好きで、飯を一緒に食べるのは正直嬉しい。
「やっぱり知ってるんじゃん」
深山が隣でぼそりと呟いて、テーブル中の苦笑を誘った。
「何でも形と言うか、この小さな蕾が密集してるって言うのが嫌なんだってさ。そんなの目瞑ればわかんないって」
広がそう言いながら、とにかくもう少し食べろ、と俺を促す。俺の食欲はもうなかったが、仕方ないと、広の皿のカツに手を伸ばした。
「あ、おいっ。自分の食べろよな……」
呆れたような広は無視だ。うん、いい具合に揚がっていてうまい。
そんな俺達を見て、みんなが笑っていた。みんなって言うのはみんなで、食堂中がこっちを見ている。だから嫌なんだよ、おまえらといるのは……。一緒にいる連中は慣れているのか、そんなことは気にしていないようだった。まあ、確かに気にしても仕方ない。
「なんか重藤、やっぱり春姫だな」
「佐々野まで……やめてくれ」
俺が露骨に顔をしかめると、隣で深山が苦笑した。
「ふーん、マジで嫌がってるって言うのは本当だったんだ。何が気に入らない?」
佐々野がそう言うと、深山が「俺も聞きたいね」と頷いた。
「あのな、何が哀しくて男が姫って呼ばれて喜ぶんだ。その上守られるなんてまっぴらだ」
俺の答えは決まっている。本当はそれだけじゃないのに、本当のことなんて言えなくて、いつも同じ答えを繰り返すだけだ。
西の秋姫だったら、悪態つきながらも我慢したかもしれない。
でも、春姫は嫌なんだ。
―――あの人と同じ名で呼ばれるのは。
佐々野は納得しない様子で、ふーん、と言っただけだった。でもとにかく、ここで追求しようとは思っていないらしい。俺はそれに素直に感謝した。
「あー……全く。おまえらはいいよ。南だからな。こっちは大変だって言うのに……」
俺の隣で、深山がそう言って深くため息をつく。
「まあな。今年は西のがいないからな。東だけでもいてくれないと、志気が落ちる」
「そうなんだよ。だからどうしても、重藤には納得してもらわないと困るんだ。大庭からも頼まれてるし。嫌なら姫とは呼ばない、守るって言ってもこっちの自己満足だから、嫌なら目立たないようにするってことで寮生の了解も出てるって言うのに、本人これだもんなあ」
守るのは自己満足、なんてよくわかってるじゃないか。だったら個々人で誰か見つけろ、と俺は思う。でもそう呟いたら、「オフィシャルな姫って存在の意味を、おまえが一番わかってると思ったけどな」と佐々野に言われた。
わかってる、と思う。でも、それと自分が姫を引き受けるのは別問題だ。大体、自分の気持ちを犠牲にまでして学校に尽くそうなんて気はさらさらない。
さらに、俺の説明が納得できないものなのだと言うこともわかっていた。一年生ならいざ知らず、三年にもなれば九重のこれらの奇妙な伝統にも慣れてきている。今更、男なのに姫なんて、と言っても仕方がない。
本当のことは……言えないな、と俺は思う。我侭な理由を、我侭のまま言わないのは、正直心苦しいが、とてもプライベートなことだ。
「また転がしてる。食べ物で遊ぶなっていつも言ってるだろ。カツ、もっと食べるか?」
今まで聞いてるだけだった広がまたおせっかいなことを言った。俺はそれに首を横に振る。広のおせっかいは優しさだ。わかっていて、俺はちょっとばかり楽しんでいるのだから、本当はおせっかいなんかじゃない。そんなことを思っていたのに。
「何が気に入らないのか、こればっかりは俺にもわかんないけど。いいじゃん、千速。春姫になっておけよ」
広がそう言った途端、俺は思わず立ち上がっていた。テーブルが揺れて、がしゃんっと食器の音がしたが、そんなことは構わなかった。
―――おまえが、それを言うのか?!
でかかった言葉は飲み込んで、それでも俺の腹は納まらず、気付いたときには叫んでいた。
「わからないなら口出すなっ」
広だけじゃなくて、みんなが驚いた顔をしていたのはわかったけど、俺はそれどころじゃなかった。
―――春姫になっておけよ。
広のその声が、何度も聞こえた。悔しいのか、悲しいのかわからないまま、俺はそのまま駆け出していた。
泣いてしまう。
そう、思った。