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どこかわからない遠い場所でサボテンを抱きしめる夢を見た

01
「11秒02。落ちてんな」
 淡々とした口調で言われた言葉が痛い。俺は膝に両手を当てて睨むように地面を見ながら、呼吸を整えていた。足が重い。疲れた。そんなことばかり思う。
「こんな時期にスランプか?余裕だな」
「もう一本……」
「無駄だ」
 俺の言葉を途中で遮って、高居先輩はそれだけ言うとくるりと俺に背を向けて部室へと歩いていった。俺はそれを視界の隅で見ながら、ちくしょう、と声にならない声で呟いた。
 腹が立っているのは、先輩にではない。自分にだ。インハイの県予選が間近に迫っているのに、少しもタイムの上がらない、自分自身に。
 尊敬する高居先輩に指導してもらっているという焦燥感もある。それなのに、先輩が呆れるような走りを俺はした。ちくしょう、ともう一度呟きそうになって唇を噛み締める。
 息が整ってきたところで、俺は重たい足を引きずって水道へと向かった。途中でパーカーを羽織ったが、早く着替えなければいけないと思いつつ、ダウンをする前にすっきりとしたかった。
 走るのが楽しくない。
 伸びない記録にイライラして、走っても走っても爽快感がない。ほとんど義務のようにメニューをこなして、挙句にこれだ。自分のベストタイムよりコンマ10以上遅い。先輩に呆れられても仕方がない。
 俺は水道で勢い良く水を流して、頭からその水を被った。身体を冷やすと怒られるな、と思いながら、でもそうしたくて堪らなかった。幸い今日は春の太陽が惜しみなく日を照らしていて、気温も高い。もうすぐ日は落ちようと言う頃だったが、この時期にしては生温かい空気が息苦しいほどだった。
―――余裕だな。
 そう言った先輩の声が頭の中で繰り返し聞こえる。違うと言いたくても、俺はいつもその言葉を飲み込んでしまう。
 走りたくても、走れない、先輩。
 春休み明け、夏のインハイを前に、100メートル走で全国にまで名前を響かせる先輩は、突然引退宣言をした。限界を感じたから、という理由にみんなが首を傾げつつ、何も言えないぴりぴりとした雰囲気の先輩に、それ以上の理由を聞くものはいなかった。
 俺が本当の理由を知ったのは偶然だ。休日で、たまたま街に出たときに、街の大きな病院から出てきた先輩を、見てしまったから。
 走らないのではなく、走れないのだ、とそれで思った。病院なんてお見舞いかもしれないけれど、きっと違うとなぜか思った。普段は身体の不調を感じさせることはない。ときどき一緒に走ったりもする。ただ、全力を出すことは絶対になかった。トップスプリンターだった先輩が、ただ走ることに満足をするはずがない。それは俺自身が、とてもよく理解できる気持ちだった。咄嗟に隠れた電柱の陰から、じっと何かを見つめるように、道を歩く先輩を、俺はただただ呆然と眺めた。
 だから、俺は先輩のじりじりするような気持ちに申し訳なくなってしまう。皮肉も、嘲笑も、受け止めようと思ってしまう。
 最も辛いのは、先輩自身だと、わかっているから。
「わっ」
 いつまでもいじけているわけにはいかない、と吹っ切るようにばっと顔を上げたら、誰かが叫んだ。向かい合って二列に並ぶ水道の斜め前に、制服姿の生徒がいた。
「うわ、すいません」
 俺が突然濡れた顔を上げたものだから、水しぶきがかかってしまったのだろう。慌ててタオルを探すが、ぼんやりしていて持ってくるのを忘れたらしい。いつも置く場所に、タオルなどなかった。
「ああ、びっくりしただけだから。それより君の方がびっしょりだよ?」
 ふわりと笑った顔が優しくて、俺はぼうっとその顔を見つめてしまった。温かい人だ、と初対面なのに思う。
 ほら、と頭からタオルを被せられて、ようやく俺の思考が動き出した。タオルは忘れたはずだ。なのにどうして?
「え、あ、これ」
 少しも言葉にならない言葉でタオルとその人を交互に見ると、ほらほら早くしないと冷えるよ?とがしがし頭を拭かれる。確かに、だらだらと水が零れてパーカーの胸元が思い切り濡れていたが。
「あの、大丈夫です。自分で……」
「あーあ。こんなに濡れちゃって。高居に怒られるんじゃない?」
 俺の言葉を遮って呟かれた言葉に、俺は目の前で頭を拭いてくれている人を見た。高居先輩を呼び捨てるのだから俺より一つ上の三年生。
 気付かない方がどうかしてる。
「寮長……」
 俺はようやく拭き終ったのか離れた手にほっとしながら呟いた。本当に、気付かない方がどうかしている。東の長、深山寮長だ。こんな間近で見たことなんてないからすぐにわからなかった。この間見たのも壇上だったし。
「あ、それ禁止。先輩って言いなさい」
 深山先輩はそう言ってまたあの柔らかい笑みを披露してくれた。なるほどなあ、と思う。寮長に選ばれた理由がわかった気がする。うちの寮長とは全然違う意味で。
「えっと、じゃあ深山先輩」
 言ったところで、それも却下だな、と呟かれた。え?と俺は驚いてその顔を見る。先輩はまるでいたずらっ子のように笑っていて、俺は自分勝手に作り上げていたイメージと違う先輩に、どきりとした。
「だって、それじゃあ何て呼べばいいんですか?」
 寮長がだめ、先輩って呼べって言ったのは先輩自身。それも駄目って言うのは……どうしろというのだ。
「坂城(さかしろ)は俺の名前知ってる?」
 うーん、と一瞬俺は脳裏を探った。苗字ではなく下の名前だろう。聞いたことがあるのだ。確か、園芸部長の先輩にぴったりだ、と誰かが言っていた。
「樹(いつき)先輩」
 思い出して口に出したら、先輩は目を大きく見開いた。自分で振っておいて何を驚いているのか、この人は。それに、先輩が俺の名前を知っているほうがびっくりだ。
「俺もいい加減有名なのかね」
 くすりと笑ってそんなことを言う。寮長なんだから当たり前です、と俺は内心つっこんだ。
「で?」
 笑顔のまま問い返されて、俺は微かに眉根を寄せた。それからすぐに、ああ俺から呼びかけたのだった、と思い出す。脱線して忘れていた。
「あの、タオル、ありがとうございます。洗って返しますから」
 俺がそう言うと、先輩は少し考えてから、わかった、ありがとう、と言った。なんだか照れたようなその顔が、やっぱりギャップを感じさせて、しばらく俺の頭から離れなかった。


 軽く筋肉を解すようにダウンをしてから部室に戻ると、同じ100のスプリンターの東郷がいた。他の短距離走者もいる。運が悪い。
「珍しいな、こんなに早く上がるの。余裕なんだ?」
 にやりと微かに笑ったような顔を見たくなくて、俺は「別に」とだけ答える。調子が悪いことなど、練習を見ていればわかるだろう。俺はなるべく手早く着替えを済ませ、荷物を担いだ。
「高居先輩がついてるんだもんな。速くなって当たり前だよな」
 別の誰かがそう言うと、くすくすとみんなで笑う。嫌味のつもりなのだろうが、俺は答えない。
 高居先輩がどうして俺にだけ専念しているのか、実のところ俺にもわかっていない。引退宣言をしてから少しの間、先輩はみんなの練習を見ていたのだが、あるとき突然、俺の専任コーチになると言ったのだ。顧問もキャプテンも了承していて、それなのに本人の俺への確認などせず、勝手に決まっていた。
 もちろん、他の部員がそれを快く思うはずがない。三年の先輩は自分達なりにやっているから気にしていないようだったが、二年の、特に同じ100メートルのスプリンターである東郷は、思い切り抗議をしていた。それに追従するように、他の短距離のスプリンターも納得していないようだった。
 気持ちはわかる。
 俺も高居先輩に憧れていたし、東郷はそれこそ盲目的なまでに先輩を尊敬していた。そのために、ここを受けたのだと公言するくらいに。
 何も言わない俺に苛ついたのか、鋭い視線を感じたが、俺はそんなことは気付きもしない振りをして、お先に、と部室を出た。
 上手く行かないものだな、と思う。
 高居先輩にそれこそコーチをしてもらいたい、そしてそうしたらきっと記録が伸びるに違いない東郷たちではなく、何故か俺がコーチをされて。だからといって、俺は高居先輩に満足してもらえるような走りも出来ない。みんなから回りしている感じだ。
 高居先輩や、顧問にそれとなく言ってみたこともあるが、先輩は頑として俺の意見など聞かないし、顧問の石神はにやりと笑って「面倒見てくれ」と訳のわからないことを言う。そのうち俺も面倒になって、今に至っている。
 はあっ、と吐きたくもないため息が出た。トラックにはまだ部活仲間が残っているし、西寮への通り道のサッカー部は今日も元気に叫び声を上げている。いつもいつも、すごく走り回って、へとへとになっているのに、楽しそうだ。
 それがなんだかひどく羨ましくて、俺はとぼとぼと寮への道を歩いていった。



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