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どこかわからない遠い場所でサボテンを抱きしめる夢を見た
02
紺色のタオルを机に置いて、俺はどうしようかと思っていた。いつもは週半ばと週末にしかしない洗濯を、前日したばかりなのにして、柔軟剤まで入れてふわりと乾かしたタオルは、昨日深山先輩に借りたものだ。三年の教室、それも今いるところとは反対側の、A棟に行く勇気は俺にはない。
「何やってんの、おまえ」
タオルを前に考え込む俺に、同じクラスで友人の西嶋哲平が話し掛けてきた。一年から同じクラスで、くじ運がいいのか悪いのかわからねーな、と二人で言い合ったものだ。
「いや、別に」
やはり放課後に渡そう、と決めて、俺はタオルを仕舞いこんだ。同じ時間に、きっとあの辺りにいるだろう。学校の中の植物達の、どこからどこまで園芸部が手掛けているのか俺は知らない。ただ、食堂前のテラスの花壇は、確か園芸部だと言っていた。昨日も、その辺りにいたのかもしれない。
「なんだよ、怪しいなあ。何?そのタオル」
「なんでもないって。ちょっと借りただけ」
「ふーん。誰に?」
「誰だっていいだろ」
東の寮長、なんて言ったらびっくりするだろう。何しろ俺たちは西寮。今のところは対決らしい対決はしていないが、東はライバルなのだ。お祭り騒ぎが好きな哲平は、どうやらその対決を楽しみにしている。
「ま、まとまったら教えろよ」
哲平がにやりと笑ってそんなことを言う。哀しいかな、枯れても腐っても俺も九重生。その言葉の意味も笑いの意味もわかってしまう。
そんなんじゃねーよ、と俺は言いながら、思わず昨日の先輩の笑顔を思い出してしまっていた。
軽くアップをしていると、高居先輩が一緒にやり始めた。週一回の部対抗マラソンに出る気らしい。
部対抗マラソンは、運動部がみんな集まって学校の周りを三周する、というものだ。常に全員参加ではないが、かなりの数になる。特に一年は強制参加で、上位を狙うことを上級生に課せられる。のんびり自分のペースで走るのは二、三年生だ。俺は短距離なので、常にのんびりだ。もちろんこれも練習の一つだから、手を抜いたりはしないが、練習の範囲でしか走らない。
今日もいつものようにスタートラインのトラックよりずっと後ろにいたら、深山先輩が水道に水を汲みにきたのが見えた。俺は一瞬迷ってから、ちょっと抜けます、と高居先輩に言って、集団から抜けた。どうせ自分のペースで走るのだから、スタートから遅れても問題はない。
俺はベンチに置いてあった紙袋を持って水道へ向かった。でももうそこには深山先輩の姿はなく、後ろで部対抗マラソンのスタートの音が聞こえた。ばらばらと聞こえる足音を背に、俺はカフェテリアに行くために、大階段に向かった。校舎への入り口のようになっているこの階段は、五段ほどしかないが、とにかく横に長い。写真撮影のときなどは便利だ。
「深山先輩」
カフェテリアのテラスに行くと、ポロシャツ姿の先輩がいた。春の麗らかな陽気に、先輩はでも額に汗を光らせていた。足元の土は掘り起こされて、花の苗が傍らにたくさん置いてある。これをこの人一人で植えるのだろうか。
「先輩?」
声は届いているはずなのに、返事をしない先輩に、俺は首を傾げた。熱心にぱらぱらと何か蒔いていて、気付いていないのだろうか、と思ってもう一度呼びかける。それでやっと顔を上げた先輩はでも、やはり何も言わずに、じっと俺を見つめている。
「えっと、先輩?」
なにやら責められているような気がして、俺は途惑った。こっちまで汗をかきそうになる。
「あの、タオルありがとうございました」
とにかく用事を済ませてしまおうと紙袋を差し出すと、先輩が目を眇めた。普段優しい印象があるだけに、少し怖い。
「昨日教えたのになんで忘れるかな」
それから、そんなことを言う。俺はえ?と惚けた顔をした。教えた?何を?
「ほら、やり直し」
やり直し……俺はその単語に頭をフル回転させて考える。やり直し、ということは一度やったことだよな……まさか紙袋の差し出し方とか言わないよな……。そんなことを考えているうちに、もしかして、と思いついたものがあった。
「マジですか……」
思わず呟くと、片眉がひょいっと上がった。
「マジって何が?ほら」
「いや、先輩、冗談でしょ?俺、東の奴らに殺されますって」
西の俺が、まさか名前で先輩のことを呼んだりなんかしたら、東の奴らに絶対睨まれる。特に優しい雰囲気のこの先輩の信望者は、結構な数に昇るのだと聞いたことがあった。
「ウチのはそんなに凶暴じゃないよ。って、またちゃんと呼ばなかったな」
だから、と俺が情けない顔をすると、先輩はさも可笑しそうににやりと笑った。
あ、からかわれてる。
俺は盛大なため息をつきたいのを我慢して、どうしようかと思案した。まあ、今なら誰もいないし。
そんなことを考えているうちに、部対抗マラソンの先頭グループが遠くに見えた。いくらなんでもやばい、と俺は焦りだした。
「すいません。俺もう行かないとやばい。とにかく、タオルありがとうございました」
俺が心そぞろでそう言うと、先輩は目を細めたが、俺の視線の先に気付いてああ、と頷いた。
「ちゃんと言えばいいんだよ。ほら」
それなのに、そんなことを言う。俺は紙袋をどこかに置けないかときょろきょろした。ふと先輩のパーカーが低い生垣にぱさりと掛けてあるのが見えて、そこにしようと足を踏み出した。でも。
「先輩……」
がっしりと、手首を掴まれた。泥だらけの手で。でも落とした視線の先、細い指を見ながら、泥にまみれていなかったら、きっと綺麗な手なんだろう、とそんなことを考える。
「だからさ」
先輩がにっこりと笑った。俺にはなんでこんなことに拘るのかわからなかったが、今度はため息を隠さずに吐き出した。
「樹先輩、手を離していただけないでしょうか」
殊更丁寧に言うと、むっとしながらも手を離してくれた。なんだか子供っぽい人だ。本当に、全然印象が違う。
「今回は許す。でも、ちゃんと次は忘れんなよ」
それからそう言って、にっこりと笑った。俺はその笑顔に脱力しながら、紙袋を生垣に置いて、もう一度頭を下げた。
遅れてゴールをした俺に、高居先輩は何も言わずに今日の練習メニューだけを伝えた。普通はそれぞれの種目のリーダーの先輩が後輩には練習メニューを言うのだが、俺には常に高居先輩がメニューを組み立てる。筋力トレーニング、走りこみ。スタート練習が数本。あまりいつもと変わりはない。
こんなできない後輩のコーチなど、楽しいだろうか、と思う。確かにベストタイムは割といい線をいっているが、俺こそ「限界」なんじゃないだろうか、と俺は考えていた。スランプではなく、限界。これ以上走れる気がしない。
黙々とメニューをこなして、最後のスタート練習が終わったところで、いつものごとくタイムを計るのかと思ったら、しばらくタイムは計らない、と言われた。
「え?」
「今の状態で計っても仕方がないだろ」
ベストタイムに少しも及ばない今の状態で。
俺はぐっと奥歯を噛み締めた。確かに、タイムを計るのはどれだけ走れているか計るのだから、今のままでは無意味だ。
今日は終わりだ、と言う先輩にお礼を言いながら、俺はどんどんと落ち込んでいくのがわかった。
今の状況で、先輩に指導されることも苦しい。
遠くで、東郷たちがじっと見ているのもいい加減慣れた。それでも、思わずため息を吐きたくなる。個人競技の陸上を選んだのは自分だ。部内でさえ、ライバル争いをするのはわかりきったことだった。団体競技でも正選手になれるかどうか、という争いがあるのとはまた違う。同じ学校でも、競技会ともなれば敵だからだ。
「坂城」
ふいに高居先輩が俺を呼んだ。顔を向けて「はい」と小さく返事を返すと、じっと見つめられた。
「これ以上、みっともない走りをするな」
俺は、一瞬何も言えなかった。身体の中で、何かを抉られた感じだった。
―――みっともない。
俺は高居先輩の走りが好きだった。綺麗なフォームで、空気の中を流れるように走る、あの先輩の走りが。
唇が震えた。涙などでないと思ったが、目は熱かった。俺はその震える唇で、すみません、とようやく言うと、頭を下げて部室に向かった。
悔しかった。
ただ、悔しかった。
それが何に対してなのか、でも俺にはよくわからなかった。
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