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ソクラテスとソフィストの優しい関係について
01
智は、放課後の図書館が好きだった。別に本を読むわけでも、勉強をするわけでもなく、北側にずらりと並んだ窓から見える山を見たりするのが好きだった。そのために、よく二階の窓際の席に座っていた。その日も、見せ掛けのためだけにノートや教科書を机に広げて、ぼんやりと窓から外を眺めていた。
あのちらほらと点在する白い花は、一体なんだろう。
そう思ったところで、智は自分に誰かが近寄ってくるのが分った。足音と気配で、誰だかわかった智は、そのままぼんやりと外を眺めつづけていた。そうだ、こいつならあの花が何か知っているかもしれない。
「智」
呼ぶ声は低く穏やかで、大きくないのにとても良く耳に響く。容姿も頭脳も優れたこの男が、声までいいのは少しずるい、と智はその声を聞くたびに思った。どこか少し分けてもらいたい。
「閉館だよ。……また真っ白じゃないか。それなら広げなければいいのに」
雅道の呆れた声を気にするわけでもなく、智は窓の外を指差して聞いた。
「ねえ、あれ何の花?」
「……おまえは、俺が何でも答えられると思ってるな」
「知らないの?」
「藤だよ。今年は早いな。まあ、まだ一房二房ってところみたいだけど」
ほら、やっぱり知ってる、と智は思いながら、白いのは見たことがない、と言った。
「ああ、藤と言ったら紫だよな。でも白もいいもんだよ。間近で見るとちょっと花房が大きいけど」
「見たの?」
「俺は目があんまり良くないんだ。ここから見ただけで藤なんてわからない」
この山は立ち入り禁止じゃなかったっけ?と智はわずかに首を傾げた。それを小突いて元に戻した雅道は、内緒な、と笑った。
「ときどき緑が恋しくなるんだ。天気のいい晴れた日に、山でする読書は俺のストレス解消法」
「山で読書って……なんだか似合わないな。もったいない」
「間近に山があるのに行かない方が、もっともったいない」
それもそうだ、と智は思って、それなら今度連れて行け、と雅道にねだった。
「晴れたらな」
季節は梅雨に近くなっている。連れて行く気がないのならあんなこと言うな、と智は思ったが、ちらりと見た横顔は少し残念そうで、智はすぐに視線を逸らした。
「ほら、疑問が一つ解決したところで、帰るぞ。片付けろ」
雅道はそう言って智を促した。笑った顔が、どこか優しい。
そんな雅道の顔を見るたびに、智が戸惑うことを、わかっているのだ。でも、雅道はそれをやめない。
嫌だと、跳ね除けられない方法で、雅道は智を追い詰める。それをずるいと智は思うが、本当にずるいのは、それでも嫌だとはっきり拒絶しない自分なのだとわかっている。
だって、雅道は必ず答えてくれる。
わからないことに、必ず、答えを与えてくれる。
たった一つのことを除いては。
そればかりは、自分で考えなくては駄目なのだと、雅道にも言われた。
わからないことは嫌いだ。
でも、わかっている。
こればかりは、自分でしか答えを出せない。
雅道が好きなのか、どうか。
この気持ちが、恋なのか、どうか。
雅道と智が同じクラスになったのは、二年になってからのことだった。でも、全寮生の学校のこと、朝から晩まで一緒に過ごす仲間の顔を、覚えないわけがなかった。ただ、智は自分が関心を持たないとみんな忘れてしまう性質で、入学後一年経っても、クラスメートの顔と名前がようやく一致したくらいだった。
それでも、雅道のことは知っていた。涼しげな目元の端正な顔と、ときには先生まで言い負かしてしまう頭の切れ、それなのに好きな部分の勉強しかしないために、テストでの点はひどく不安定で、それが生徒たちの良い賭け対象になっていること。好奇心丸出しで囁かれるそんな噂が多々あったが、そのためではなく、ただ、図書委員だった雅道が、当番のときに、よく閉館時までいる智に声を掛けたからだった。
「閉館だ」
「ちょっと待って、もうちょっとなんだ」
その日は珍しく、智は宿題を片付けていた。どうしても解けなかった数式が、もう少しで解けそうな気がしたのだ。
「無駄だな。それじゃあいつまで経っても解けない」
じっと見ていた雅道がそう言って、智は初めて顔を上げた。視界に入る限り、もうどこにも他の生徒はいなかった。
「えー、そうなのか。これも駄目なのか」
せっかく解けそうだと思ったのに、とがっくりと肩を落とした智に、雅道が早く片付けてくれ、と催促した。
「ねえ、どうやったら解けるかわかるんでしょ?教えてよ」
「図書委員は教師じゃない」
「そうだけど。ヒントぐらいいいじゃないか」
智がそう言うと、雅道はため息をつきながらも、さらさらとノートに解法を書いた。
智はそれを感心したように見ながら、そうか、そうすれば良かったのか、とようやく解けた数式に顔を綻ばせていた。
疑問が残ることは嫌いだ。解けないものなんて、この世にあっては困る。
そうじゃないと、智は気になって仕方がない、という性分だった。
ほら早く、とまた促されて、智はにっこりとお礼を言いながら、急いでノートと教科書を鞄に詰めた。
「大体さ、数学なんて答えは一つなのに、なんであんなに面倒なんだ」
鞄を持ち上げて、ふいにそう呟くと、雅道が小さく笑った気がした。
「だってそうだろう?それも、実生活で因数分解なんて絶対使わない」
「数学嫌いの常套句だな」
雅道は智と一緒に階段を下りながら、そう言った。
「役に立たないって?」
「そう。でも、そう言ったら全てのものが役立つかどうかなんてわからない」
「そうかなあ」
「英語だって、ここなんてフランス語までやるんだぞ?それが将来役立つかどうかなんてわからないじゃないか」
「でも、少なくとも英語を話す人もいればフランス語を話す人もいる。その人たちと意思の疎通ははかれるだろ?」
「そう言う人たちと、意思の疎通が必要なときがきたときは、ね。それなら数学だって、役立つときがあるかもしれない。言語よりはっきりした状況ではないかもしれないけど。でも、答えは一つでもそこに至るまでの過程が大切だって、先生はいつも言ってるだろ?その過程を考える、という行為そのものが役立つかもしれないじゃないか」
「算数だけじゃだめかなあ」
「算数は、それこそフランス語より実生活には役立つと思うけどな。それに、1+1=2、って言うんだって、色々あるだろう?」
「どんな?」
「例えば、ここに林檎があるとする。それが丸々一つずつあっても、それは二個だし、一個の林檎を二つに割っても、そこに林檎半分が二つあるだろう?それは全く違うことでも、同じ数式、つまり1+1が当てはめられる」
「うーん……二つ目は、1÷2じゃないの?」
智がそう言うと、隣の生徒はにっこりと笑った。背が高いから、というだけではなく、大人っぽい雰囲気に、もしかしたら先輩だったのか、と今更ながら智は少し焦った。
「それは、林檎を二つに割った、という過程を知っているからだろう?」
言われて、智の頭からは「先輩かも知れない」などという小さな心配は吹き飛んだ。
「そうか、だから過程が大切なんだ」
ぱあっと光が広がるような感じがして、そのままに智が笑うと、雅道が目を細めた。
「はい、今日はこれで講義終わり」
いつの間にか図書棟を出て、学校の玄関まで来ていた。智はどこか嬉しくなって、「ありがとうございました」とにっこりと笑った。
「なんで急に敬語なの?」
「え?えーと、先輩だったのかなあと」
智がそう言いながら自分の下駄箱を開けると、くすくすと笑いながら、雅道もその向かいの下駄箱に手を伸ばした。
「あれ?同じ学年?」
「そう、よろしくね、長倉 智くん」
どうして自分の名前を知っているのだ?と眉根を寄せたところで、コンッと雅道が下駄箱を叩いた。そうだ、そこには名前が貼ってある。
「こちらこそよろしく、守谷 雅道くん?」
それが、二人の出会いだった。
それから良く、雅道の当番の時には必ずと言っていいほど智は図書館に行き、色々な話をした。話といっても、智が質問しては雅道が答える、ということが多かったが、そうやって自分の聞くことを煩がらずに、それもきちんと聞いて、きちんと答えてくれる雅道といるのは、智にはとても楽しかった。
それは、今でも変わらない。二年生になって同じクラスになって、もっと一緒にいる時間が増えた。図書委員長をしている雅道は南寮で寮は違うが、学校にいる間はほとんどと言っていいほど一緒にいた。二年で理系と文系に分かれるのだが、くじ引きでクラス分けをする九重大付では、クラスはホームルームのみの役割と言っていい。あとはそれぞれの選択した授業に行くのだ。それでも、智と雅道は同じ文系で、選択授業も同じだった。
雅道のテスト結果の賭けは、未だに行われているらしい。本人は全く気にしていないし、賭け対象には協力費として食券が贈られるため、助かるとさえ言っていた。
そう言うところが雅道は面白い、と智は思う。好きな科目、ではなく、好きな分野なのだ。だから、歴史でも興味のある時代は満点さえ取るし、数学も面白いと思ったら勉強する。それに、本を読むのが趣味で、それで勉強をしていると言っても良かった。附属大に進みたいから、それさえクリアすればいい、と本人は思っているらしかった。
わからないのは、と智は珍しくため息を吐いた。
今日は委員会会議があると言って、雅道はいない。むっとする湿気は、開けた窓から入ってきているのか、それとも出て行っているのか、わからなかった。
「あれ?マサは?」
窓から腕を出してぶらぶらとさせていた智に声を掛けたのは、サッカー部のエースの西沢 稜だった。雅道とは一年のときに同窓生で、仲が良いいのだと紹介されていた。明るく大らかな稜は、智にもいい友人となった。
「委員会会議。まだあと三十分は帰ってこないんじゃない?」
サッカー部のジャージを着た稜は、その智の隣に立って同じように外を見た。
「ちぇーっ。せっかく明日の英語のノート借りようと思ったのに」
英語やフランス語は言語として興味がある、と雅道は言っていた。それで勉強をするために、予習などはきちんとやってあるのが雅道だ。
「稜は部活は?」
「休憩」
中に居ても暑いなあ……と零して、稜はシャツの胸元を持ってぱたぱたと煽いだ。
「じゃあ、俺言っておこうか?」
智がそう言うと、横でうーんと稜が唸った。
「智に伝言を頼むと、マサに怒られるからなあ……」
「なんで?たかが伝言するだけじゃん」
伝言、というより、二人で話した、という事実がどうやら気に入らないらしい、とは稜もさすがに言えない。雅道のその独占欲は稜には面白いのだが、ときどき困る。そもそも、独占欲を出せる仲ではないと雅道自身わかっていて、智には隠しているのだ。
「そうなんだけどな……」
「ヘーんなの」
智がくすくすと笑う。こんなところを見られたら、殺されるなあ、と稜は思った。あの飄々とした雅道が感情を丸出しにするのが、稜には楽しい。食えない奴、と一年の頃から思っていたが、智のことに気付いてからは年相応の純情さを見せたりして、楽しい。理詰めで相手をどんどん追い込んでいく雅道が、ただ待っているのだ。智などきっと簡単に落とせるだろうに、それじゃあ駄目なんだ、と雅道は切なそうな顔をする。
「智、答えでた?」
もう、半年近くなるはずだ。よくこんな関係を続けている、と稜などは思う。智が、ではなく、雅道が、だ。
「答え?」
窓枠に頭をのせたまま、顔だけ横に倒して智が稜を見た。突然の質問のわけがわからない。
「マサが、唯一答えをくれない質問の答え、だよ」
稜がそう言うと、え?と言いながら、智がさあっと赤くなった。その反応に、おやおや、と稜は内心笑った。智は素直だ。だから、雅道は惹かれたのだろう。
「し、知ってる?」
「知ってますよー」
くすくすととうとう耐え切れずに笑うと、智が耳まで真っ赤になる。今度こそ、こんな場面を見られたら問答無用で殺される、と稜は思わず周りをちらりと見てしまった。図書室二階の窓際の奥の席、他には誰も居ない。
「智、真っ赤」
「え?えぇ?」
「なんだよ。答え、出てるじゃん」
そう言うと、智が何か言いかけた。でも、階段を登ってくる音がして、稜は嫌な予感がした。どうやら退散した方がいいらしい。
「伝言、いいから。あとで寮まで行く。今日俺がきたのは内緒な」
稜はそう言うと、そろりとそこを離れて、本棚の影に回りこんだ。そして、やはり階段から上がってきたのは雅道だとこっそり確認すると、逃げて良かった、とため息をついた。智はまだ赤味の残る顔で、ぼんやりと立っている。雅道は絶対不審に思ってどうしたのか尋ねて、あの様子では智は自分がいたことは喋ってしまうだろう。でも、とりあえず今逃げられたのだけでも稜は良しとした。
突然一人残された智は、稜の言葉を頭の中で反芻していた。
答えは出てる、と稜は言った。この半年というもの、ずっと考えていた。その答えが、出ているのだという。でも、自分にはそれがわからない。稜に聞こうと思ったら、なぜかそそくさと帰られてしまった。
「どうしたんだ?」
ふいに声が聞こえて、智はどきりと心臓が鳴ったのがわかった。冷めかけた熱が、また顔までのぼってくる。
「あ、えっと、意外に早かったね」
「ああ、定例会だからな。それより……真っ赤だぞ」
雅道が、眉根を寄せて手を伸ばしてきた。智はそれにもどきどきして、思わずぎゅっと目を閉じた。
「智……?」
その様子に、困惑したように雅道が伸ばしかけた手を戻す。
わからなかった。智には、どうしてこんなにどきどきするのか、わからなかった。でも、それを雅道に聞くのは戸惑われた。また、わからないことが増えたのだ。
わからないのは、自分の気持ち。
そして、なぜ雅道が自分を好きなのか、ということ。
智は赤くなったまま、大きくため息を吐いていた。
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