02
「何を言ったんだ、おまえは」
案の定、部屋を訪れた稜に、雅道は不機嫌さを丸出しにした。やれやれ、と稜はため息を隠す。
「別に」
「それで、なんであんなに智が赤くなって悩んでんだ?」
悩んでる?と稜はその言葉に眉根を寄せた。そう言えば、目の前の雅道には照れも見えない。
気付いてないってか……。
思わず呟きかけて、慌ててその言葉を飲み込んだ。
「智はなんだって?」
「おまえが来たのは白状したが、あとは英語のノートを俺に借りに来た、の一点張りだ」
それはすごい、と稜は心中感嘆した。この雅道相手に、逃げ切ったところがすごい。それも、雅道に惚れられているからなのだろうか。
「そうそう、ノートだ。貸してくれ」
わざわざそのために南寮まで足を運んだのだ。手を出したら、ぺちりと叩かれた。
「先に俺の質問に答えろ」
「だから、別に何も言ってないって。赤くなったのは智なんだから、その本人に聞けよ」
これは、本人の口から言わせなくては意味がない。それくらいは稜もわかっていて、すっとぼけることにした。でも、それでは英語のノートは諦めるしかないかもしれない。
「言わないから、おまえに聞いてるんだろうが」
イライラと雅道が言う。本当に、智のこととなると雅道は面白い。
「おまえなら、智から話を引き出すぐらい簡単だろ?やっぱり智には甘いよなあ。そんなんだからいつまでも進展しないんだ」
言ってから、しまった、と思った。雅道が最後の言葉にすっと目を細める。
「それか。なんか言ったのか、智に」
「言ってないって」
「しかも、赤くなったところ見たんだろ?」
今更だったが、睨む雅道が怖くて稜はぶんぶんと音がしそうなくらい首を横に振った。
「見てない。いや、忘れるし」
「見たのか見てないのかはっきりしろよ」
そんなことはわかっているだろ、と目の前で静かに怒っている雅道をちらりと稜は見た。そんな些細なことに嫉妬をしているあたりなかなか可愛いが、されているのが自分では笑えない。
「おまえ、どうしてその勢いで智に攻め込まないんだ……」
思わず呟くと、ふいっと雅道が視線を外した。
「そんなの意味がないだろ」
「でもさ、結果は同じだろ?」
「さあな」
「さあなって……」
雅道は視線を外したまま、小さく吐息を吐いた。
「俺は、このままでもいいかってちょっと思ってるんだ」
「なんで?辛くない?」
「ときどきね。でも、好きだって言って、わからない、って返されたら、答えなんて決まってるようなもんじゃないか」
自嘲気味の雅道を、稜は思い切り呆れた顔をして見ていた。
つまりは、智は雅道を好きではない、と思っているのだ。
「あいつのあれは、友情だよ。そう言って、俺との今の仲が壊れるのが怖いんだ」
こいつは本気でそんなことを思っているのだろうか、と稜は思いながら、でも自分だって、智の気持ちに先刻気付いたのだった、と思い直した。普段の智からは、雅道をどう思っているのかはわからない。確かに、大事な友人、あたりが一番しっくりくる。でもあのときの智の反応は、友情ではないと稜は思う。
なんだろうなあ。
稜は思わず深々とため息を吐いた。自分まで、わからなくなってきた気がした。
つまり、雅道の言葉に智が翻弄されているようで、実際は智が雅道を振り回しているのだ。そして、さらには稜まで。
「わっかんねー」
ふらふらとドアに向かいながらそう呟いたら、後ろから雅道に呼び止められた。
「おまえ、一体何しに来たんだよ」
ぺらぺら、とノートの紙がその手の中で泳いでいた。何だといって結局は優しい友人に、稜は感謝しつつ、はやく幸せになってくれたらいいと心の底から思っていた。
おやおや、と圭(けい)が呟いたのが聞こえて、稜はいい匂いのするその圭の傍に近寄りながら、苦笑した。圭がくるくるとかき回している鍋からは、カレーの食欲をそそる匂いが立ち上っている。
「どうしたんだあれ」
目線だけで雅道を指した圭に、稜は鍋を覗き込んで「うまそー」と呟いた。
雅道と智のクラスメートで、料理研究会の会長をしている岡崎 圭は、こうしてときどき友人たちをお昼に招待する。前日に作った料理を温めて、ご馳走してくれるのだ。
「マサが悩んでるのは珍しいな」
「気にすんな。いつものごとく、智がらみだから」
「でも智は変わったところないじゃないか」
それもいつものことか、と二人でこそこそと話す。その雅道は窓際でぼんやりと外を眺めていた。それで悩んでいるとわかるあたり、さすが長いこと友人をしているだけある、と稜は思う。いや、長いこと、見つめているだけある、と言うべきか。
「わ、良い匂ーい。今日は何カレー?」
いつも食器の準備をする智が、皿を持ってやって来た。それを受け取りながら、ナスとひき肉のカレーだよ、と圭が答える。それから、くんくんと鼻を動かす智に、水とコップを用意するように頼んだ。
「で?何で悩んでるんだ?」
雅道には直接聞く気はないが、気にはなるのだろう。圭がまた、声のトーンを落としてにっこりと稜に聞く。笑っているのはほとんど脅しで、さっさと答えろと言うことだ。こういう素直ではない辺り、雅道の方が可愛げがあると稜は思った。
「いや、菖蒲湯に入るか入らないか悩んでるんだよ」
山から天然の温泉が湧いているために、九重のシャワーは温泉の水を使っている。幸いなことに温度も高めのため、機会があるとプールを温泉にするのだ。端午の節句には、それが菖蒲湯になる。
「だってマサは実家に帰るんだろ?どのみち、いつも入らないじゃないか」
「それがね、節句対決のことを聞いた智が、帰ってくるって言い出してさ。どうせなら、菖蒲湯にも入ろうかなってね」
雅道はあまり学校行事に積極的に参加しない。それとは反対に、好奇心の塊のような智は、面白そうだとすぐに首を突っ込むのだ。
九重では、五月五日の端午の節句に東西寮対決をするのが慣わしで、負けたほうの寮生がプール掃除をすることになっている。その節句対決が、今年は一年対三年の異例対決で、その上、総総代、運動部長が出ると言うから、楽しみにしている生徒が多かった。
カレーの火を止めて、ご飯を皿に盛り付け始めた圭は、小さく肩を諌めた。
「今年はそう言う生徒、多そうだよな」
「バスケのスリー・オン・スリーだろ?あと誰が出るの、先輩のとこ」
「ん?ああ、どうやらお姫さんらしいよ」
それはまた、と稜がその豪華メンバーに呆気にとられていると、圭がくすりと笑った。
「それで、マサは自分の独占欲と格闘中、ってことか」
菖蒲湯というだけあって、それはプールであっても温泉だ。山奥で人の目もないため、もちろんみんな裸ではいる。雅道はそこに智を入れるのが嫌で、でもそれを言うわけにはいかず、自分も入るかどうか、悩んでいるのだ。
「健気って言うか何と言うか……」
その圭の呟きに、人のこと言えないだろう、と稜は内心で思いながらも苦笑だけした。このポーカーフェイスを得意としている友人は、あまり自分の心内に入られることを良しとしない。稜が圭の気持ちに気付いているというのも、本当は面白くないのだ。
昼休みの教室の喧騒にはほど遠い家庭科室で、四人はのんびりと昼食を取った。最近カレーに凝っているというだけあって、圭のカレーはスパイスも効いていて美味しい。「辛いけど美味しい」を連発して顔を赤くして食べているのは智で、その智を雅道は視界の隅で眺めながら食べていた。
一番居たたまれないのは俺だよな、と稜が思ったところで、圭がふと顔を上げて雅道を見た。
「それで、マサはどうすることに決めたんだ?」
それが先ほどの菖蒲湯のことだとすぐにわかったのは稜だけで、カレーの辛さだけではない、冷や汗が額に浮かんだ。
「決めるって、何を」
雅道が剣呑な目をしているのに、圭は知らぬ顔で「菖蒲湯だよ」と笑う。こんな風にわざと地雷を踏むようなことを平気でしてのけるのが圭で、さらに悪いことに、それが地雷だとわかっていて踏むのだ。思わず出そうになったため息を無理やりご飯と共に飲み込んで、稜はなんとか関わらないで済むように考えた。
「え?なに?雅道も菖蒲湯に入るの?じゃあ帰ってくるんだ」
渦中の人物でありながら何もわかっていない智は、無邪気にそう言う。要は智さえ「菖蒲湯に入る」などと言わなければ良かったのに、マサも苦労するよな、と稜は思った。
「いや、入らないよ」
雅道はこくりと一口水を飲んで、そう答えた。この話題を打ち切りたいのは明白で、それなのに圭はそのことに気づかない振りをした。
「じゃあ何で悩んでるんだよ」
にやりと笑って言う圭に、稜は勘弁してくれよ、と思った。そう言うことは二人のときにやって欲しい。雅道は明らかに機嫌を損ねた顔をしているし、何もわからない智は首を傾げていた。
嫌な空気が流れて、稜はちらちらと雅道と圭を眺めながら、自分はどうするべきか考えていた。立ち上がって行ってしまうべきか、智にでも話し掛けてその場しのぎの逃げ道を作るか。自分が何とかしなければ、このまま嫌な空気が増大していくだろうことはわかる。でも、その空気を破ったのは智だった。
「何?雅道なんか悩んでたのか?」
ひー珍し、と言う智に、もう稜は何も言えなかった。雅道の目はどんどん険悪になっていくし、圭は面白そうに笑っている。でも、その圭の顔も、一瞬後には引き攣った。
「でもさあ、圭ってすごいよな。何で雅道が悩んでるってわかるわけ?俺なんかちっともわからなかった」
地雷を地雷とわかって踏むのが圭ならば、それをそれと知らずに踏むのが智なのだ。そしてそれは、最も威力が大きいのだと、稜は改めて思い知ったのだった。
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