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満ちてゆく月欠けてゆく月

01
 アルノー川にかかるベッキオ橋を渡ると見えた大聖堂に、ルカはとうとうフィレンチェに来たのだと荷馬車の中から身を乗り出した。不可能だと言われていた大聖堂の天井がついに覆われたと、遠い故郷の村でも話題になったと聞いた。円錐形のその屋根は、夏の終わりの夕日に照らされて、ルカの目に一際神々しく映った。それは、大聖堂だから、ではない。不可能と言われたその天井が、計算尽くされた形で崩れることなく、そこにあるからだ。
「シニョーレ広場でいいんだったね?」
 御者の男に言われて、ルカは「はい」と返事をして街に視線を戻した。村よりやはり大きく、建物に押し潰されるような圧迫感があった。
 広場からすぐの場所に、ルカがお世話になるフェルディナンドの工房があるはずだった。父親の友人である彫金師からの紹介状が確かに懐にあることを確認して、ルカは荷馬車を降りた。男に礼を言ってから、くるりと辺りを見回すと、麻の袋に入った荷物を背負いなおして、小さく深呼吸をした。フェルディナンドは、今ではフィレンチェのみならず、ミラノやベネチア、フェラーラやマントヴァにまで名の知れ渡る、工房の持ち主だった。あのメディチ家の覚えもめでたいと言う。その工房で、自分はこれから絵を描けるのだと思うと、ルカは自然と顔が綻ぶのだった。工房に入れば、いつかは大きな絵も描ける。材料も手本となるだろう絵も、たくさんあるに違いない。
 手紙の説明どおりに道を行くと、何やら騒がしい声が聞こえた。道の行き止まりで、けんかでもしているらしい。すらりとした体躯の背の高い男と、もう一人、屈強そうな筋肉が盛り上がった男とが、向かい合って睨み合っている。周りにははやし立てる仲間達がいて、ルカにはその男の表情は良く見えなかったが、どうやら背の高い男の方が有利のようだった。ひょうひょうとした感のあるその男とは反対に、筋肉男は完全に頭に血が上っている。
 けんかというよりまるで祭りのようにはやし立てて騒ぐ声を聞きながら、ルカは目の前の扉を開けた。説明どおりなら、そこがフェルディナンドの工房のはずだった。
「やあ、君がルカかな?」
 工房は思った通り広く、高い塀の中に入ると、庭が広がっていた。工房と言うより、まるでお屋敷だ、とルカは思った。その正面玄関から男が出てきて、ルカににっこり笑いかけた。
「はい、今日からお世話になります。よろしくお願いします」
 故郷で教わった通りに挨拶をすると、男はくすりと笑いながら、そんなに硬くならなくてもいいよ、と言った。
「私が工房主のフェルディナンドだ。長旅で疲れただろう?今日はゆっくり休みなさい。食事は部屋に持っていかせるから」
 フェルディナンドはそう言って、ルカの小さな肩をそっと押した。
 部屋へ案内しながら、頭一つ分は高いところから、そのルカを盗み見る。柔らかそうな茶色い髪がゆるくウエーブを描きながら、肩に落ちている。長いまつげも、白い肌も、柔らかそうな赤い唇も、そして何より、真っ直ぐな茶色い瞳がとても愛らしく、美しかった。フェルディナンドは、長らく手につかなかったダヴィデ像を、ルカをモデルにして作ってみようと思った。巨人ゴリアトの首を足元に、凛とした立ち姿のダヴィデのあの官能的姿は、ルカにぴったりだった。
 ついた部屋は小さいが清潔そうで、壁の小さな窓からは中庭の美しい緑が見下ろせた。
「工房の案内は明日しよう。それから、みんなにも私から明日紹介しよう」
 フェルディナンドがそう言って部屋を出て行くと、馬車に乗っていただけだから疲れていないなどと思っていたルカは、それでもやはり気が抜けて、どさりとベッドに横になった。
 とうとう、フィレンチェに来たのだ。華やかな、芸術の都と言われるこの街に。
 その静かな興奮を胸に、ルカは知らぬまに眠りについた。


 フェルディナンドの工房は、常時二十人近い弟子を抱えており、いつも賑やかだった。村の家ではいつも大人しく絵ばかり描いていたルカは、その活気に呑まれそうになる。母を知らない、庶子の出のルカは、あの家ではいつも肩身の狭い思いをした。父も、絵ばかり描いて一向に懐こうとしない息子に、そのうち関心を抱かなくなっていった。それでも今回、工房への紹介をしてくれたのだから、それでいいのかもしれない、とルカは思っていた。
 工房に来て、一週間が経とうとしていた。元来人付き合いが苦手なルカは、いまだその仲間に入れていない。工房の仲間達は、田舎出の年若い新人を、興味深そうに見ているか、ときどきからかって遊ぶか、のどちらかだった。
「ルカ、遅いぞ。一番年下の下っ端のくせに、食卓が整ってから起きてくるなんていい度胸だな」
 ルカより二つ年上のジョルジョが台所のドアからひょいと顔を見せた。ルカはすみません、と頭を下げて、その手からパン籠を受け取った。
「野暮なこというなよ、ジョルジョ。ルカは夜のお仕事も忙しいのさ」
 厨房にいたエドアルドがそう下卑た笑いをした。ルカは意味がわからずに、微かに首を傾げた。ジョルジョはそれに「ああそう言えば、」とにやりと笑った。
「先生のモデルをするんだって?」
「ええ、でもそれは今日からで、それも午前中だけです」
 確かに、昨日フェルディナンドからダビデ像のモデルになって欲しいと頼まれた。工房主で大画家の先生に逆らえるはずがなく、ルカは頷いた。でも、ルカには、夜の仕事、と言われた意味がわからない。まだ慣れない工房の生活に、昨晩だって読みたい本があったにも関わらず、早々にベッドにもぐったのだ。
「ま、そのうちわかるよ」
 エドアルドとジョルジョはそう再び笑うと、早くしないとみんなが待っている、と食堂に走った。ルカも訳がわからないまま、その後をパンが落ちないようにしながら、ついていった。
「わぁ」
 食堂の入り口で、誰かにぶつかりそうになってルカは思わず叫び声を上げた。落ちそうになったパン籠を、慌てて抱えなおす。
「やあ、おちびちゃんじゃないか。おはよう」
 ふわりとあくびをしながらそう微笑んだのはレオーネで、あの、路地で喧嘩をしていた男の一人だった。また、この工房で今一番実力があるといえる男で、フェルディナンドとはほとんど友人のような関係だ。ここに来る前には、ジュリオという名の知れた画家の大工房で、やはり一番弟子のような立場だったとルカは聞いていた。確かにその美しく繊細な、優美な聖母は工房に置いてある絵の中でも目を惹いた。
「私はちびじゃありません」
 ルカはレオーネの馬鹿にしたような口調にむっとして、思わずその顔を睨んだ。それがどうしても下から見上げるようにしか睨めないところに、先刻のセリフの説得力がない。レオーネはそれがさらに可笑しくて、思わず声を立てて笑った。
「な、失礼な」
「いや、悪かったよ」
 君があまりに可愛くて、と言えばさらに怒らせるだけだとわかっていて、レオーネはその言葉は飲み込んだ。それから、もう一度大きくあくびをする。
「なんだレオーネ、今日も朝帰りか」
 入り口を塞いでいる二人の後ろから、フェルディナンドの声がした。ルカは慌てて道を開けると、おはようございます、と挨拶をした。
「今日も、とは失礼な。一昨日はこっちで寝ましたよ」
「でもその前は外泊だろう?おまえがここで寝るのなんて、一週間に一度がいい位じゃないのか」
 フェルディナンドはそう言いながら、レオーネの肩に肘をのせてその顔を覗き込んだ。ほとんど同じ背丈の二人は、そうしていると仲の良い兄弟のようだった。
「仕方ないでしょう?これでも誘いは断ってるほうなんです」
 レオーネのその言いように、フェルディナンドは肩を竦めた。それから、ルカのほうを向いて、食事の後すぐに始めてもいいかな、と言った。
「はい、でも後片付けが……」
「それはしばらく誰かに任せよう。私も忙しいから、集中してやってしまいたいんだ」
 フェルディナンドとルカのその会話に、レオーネが片眉を上げてにやりと笑った。
「ダヴィデのモデルはおちびちゃんがやるのか……」
「ちびじゃありません、ルカです」
 思わずとそう抗議したとき、「そんなのはどうでもいいですが」と部屋の中から声がした。
「君が来ないと食事が始まらないんだけどね」
 にっこりとそう笑ったのはジェレミアで、その指はルカの腕の中のパン籠を指していた。
「あ、すみません」
 ルカは慌てて部屋に入り、それをテーブルに置いた。途端に待ってましたとばかりに手が伸びてきて、その中のパンを掴んでいく。ルカなどは、その勢いに押されてついつい取り逃がしてしまうことが多かった。
「自分で持ってきて一つも取れないとはどう言うことなんだ?」
 仕方ないとばかりに牛乳を飲んでいたルカの目の前に、ぽんっとひとつパンが置かれた。顔を上げると、レオーネが呆れた顔をしていた。
「え、あの」
「モデルをするんだろう?それだけじゃぶっ倒れる」
 レオーネはそう言って、自分はぶどう酒を煽った。昨晩遅くまでの夜遊びが、まだ気だるく身体に残っている。ずいぶん久しぶりの相手で、昨夜はなかなか眠らせてもらえなかったのだ。
「あの、でもあなたの分は……」
「食欲がないんだ。それにどうせ午前中は寝て過ごすだけだから、必要ない」
 気だるげにそう言うレオーネのトーガは少し乱れており、細身でも筋肉質な美しい肌の胸元が見えた。ルカは思わず、それに見惚れそうになる。レオーネの体型では少年とはいかないが、モデルなら自分よりレオーネのほうが余程向いているんじゃないかとルカは思った。
「寝てないんですか?」
 先ほどからあくびばかりのレオーネにそう問うと、にやりと笑い返された。
「寝かせてもらえなかったのさ」
「え?誰に?」
「ルカちゃーん、何野暮なこと聞いてんの?」
 隣で街の女の噂話をしていたジョルジョとエドアルドが、身を乗り出してきた。
「昨晩はどちらにお泊りだったんですか?」
 にやにやしたままの顔で、エドアルドがレオーネに聞いた。レオーネはうるさいなあ、とばかりに「忘れたよ」などと言う。
「ひえ、やることやったらお終いなんて、カッコイイ」
 ジョルジョがそう言って、ルカは再び首を傾げた。
「やること?」
「ルカってば、本当にわからないんだ……ふーん」
「え?ジョルジョ、なに?」
 ルカがそう聞くと、レオーネがひらひらと振ってジョルジョをとめた。
「おちびちゃんには朝から刺激が強すぎるんじゃないか。そのへんで止めとけ」
 その言い方に、またルカはむっと頬を膨らませた。
「ちびではなくルカだと、何度言ったら分るんです?あなたには記憶力と言うものがないんですか?」
「うわ、レオーネに向かってなんてこと言うんだよ」
 レオーネは工房を移ってきたとは言え、その生来の明るさと機知に富んだ会話や整った外見、さらにはけんかに強いことなどから、フェルディナンドの工房でも一目置かれていた。若い弟子の中には、憧れているものさえいるのだ。そこまでとは言わなくても、少なくとも好感を持っているエドアルドは、思わずルカの口を押さえた。
 言われた本人のレオーネは、くすくすと笑っている。
「俺の記憶力はね、必要に応じてしか発揮されないんだ。たとえば昨晩の女はもう覚えていないが、今晩の女のことは覚えているように、ね」
 女、という言葉が出てきてようやく、ルカは「昨晩」だとか「やること」だとか言っていた意味がわかって、さっと白い肌を赤くした。
「ジョルジョを止めたまではあなたも大人になったものだと感心したのに、自分で言ってどうするんです?ルカ、朝食後に先生と約束があるのでは?」
 呆れた様子でその中に入ってきたのはジェレミアだった。ルカはそうだった、と慌てて席を立って食堂を走って出て行った。
「少なくとも俺は大人だと思ってるけど?」
 隣に立つジェレミアにレオーネがそう言うと、ふんっと笑われた。
「下半身だけはね」
「そんなこと言って、おまえはいいのか?」
「何がです?」
「ルカのモデル」
 簡潔にそれだけ言ったレオーネに、ジェレミアは微笑んで見せたが、それは少し淋しそうだった。
「先生は、モデルにって言ってるだけですよ?私もルカならダヴィデに合うと思いますしね」
「相変わらずの強がりだね、ジェレミアは。それに甘すぎるんだ。まあ、慰めて欲しいなら、俺はいつでも慰めるよ?」
 そうにっこりと笑ったレオーネに、ジェレミアは呆れたため息を吐いて見せたのだった。


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