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満ちてゆく月欠けてゆく月
02
フェルディナンドのアトリエは、中庭に面した一階の広い部屋で、いわゆる弟子達が仕事をする大工房とは反対側の建物にあった。高い場所にある小さな窓からの光だけで、室内は少し薄暗い。フェルディナンドは絵も描くが、今回のダヴィデは彫刻だった。メディチの分家からの注文だったのだが、自分のイメージに合うモデルがなかなか見つからなかったのだ。
「少し寒いかな。もう、秋だからね」
フェルディナンドはそう言いながら、動かす手を止めない。ルカは刃のこぼれた剣を右手に持ってポーズを取りながら、ときおりそのフェルディナンドの動く手を見ていた。ルカはこの一週間、工房の案内や使いをこなすための街の案内、絵の具の作り方などを教わっただけだった。それがようやく一段落ついたら、今度はフェルディナンドのモデルを頼まれた。はやく、自分も絵が描きたい。ジョルジョたちは今ごろ、あの大きなキリスト生誕の絵を描いているのだろう。そう思うと、ルカの表情も知らず暗くなった。
「どうした?疲れたか?」
そのルカの表情に気付いて、フェルディナンドが手を止めた。憂いに満ちた表情もいいが、ダヴィデには似合わない。
「いえ……」
「でも、元気がない。モデルはつまらない?」
「いえ、そうではないんです。でも、あの、私も早く絵が描きたいと……」
自然俯きそうになった顔を上げるようにフェルディナンドは言って、それなら、と微笑んだ。
「午後には私も絵を描かなければならない。東の工房のキリストの洗礼の絵は見たか?」
こくり、と頷いたルカに苦笑しながら、動かないように言って、フェルディナンドは続けた。
「あれには天使が一人まだ足りないんだ。それを描いてみるか?」
あまりにさらりと言われて、ルカは一瞬何を言われたのか分らなかった。だから一瞬の間の後に、思わず「えぇ?!」と声をあげてしまった。
「君が既に絵を描いていたことは聞いてるよ」
「あの、でも」
「まあ、実際絵の具を使うのはまた違うだろうが、だからきっといい勉強にもなるだろう。それに、ルカは絵が描きたいんだろう?」
「はい」
それなら描けばいい、と言ったフェルディナンドの言葉に、ルカはモデルをしていることも忘れて、思わず微笑んだ。
ようやく絵が描けるのだ。それも、地面や小さな紙切れに描いていた絵ではなく、大きな、色をつけた天使の絵を。
ルカのこの天使の絵は、少なくとも工房内に不穏な空気を生み出した。フェルディナンドのキリストの洗礼は、背景こそ弟子の手も入っていたが、人物は今まで全て彼の手でのみ描かれた絵だったのだ。それを、入ってきたばかりのルカが天使を描くなど、他の弟子の反感を買わないほうが不思議だった。
ルカはそんなことより絵を描くことに夢中で、毎日午前中はダヴィデのモデルを、午後は天使の絵に一人向かっていた。その絵がその天使が描ければ完成で、引渡し期日も迫っていたことから、フェルディナンドの命令もあって、ルカは工房内のほかの仕事は全くしていなかった。それもまた、年若い弟子達の不満を募らせていた。
「あーくそっ。なんで俺が二週続けて食事当番なんだよ」
空豆の皮をむきながらジョルジョが叫ぶと、隣でエドアルドが苦笑した。
「しかたないよ。ルカは先生のお気に入り、なんだから」
「だからって朝ぐらい起きて来いって言うんだ」
「まあねえ。でも、だからこそ、朝は起きられないかもしれないだろう?」
「でも、あいつ夕飯の後まで工房に行ってるぜ。財政担当のアレッシオが明かり油がもったいないってぼやいてた」
「ばかだな、そうやってさっさと先生のところに行かないから、朝までってことになるんじゃないの?」
エドアルドが器用に莢から空豆を出して近くのボールに投げ入れる。ジョルジョはなるほどねえ、とため息を吐いた。
「俺は間違ってもそういうお役目は回ってこないだろうし、その方が嬉しいけど、だからって食事当番が連続って言うのもなあ」
俺だって絵は描いてる、とジョルジョが吼えると、手を動かせ、とエドアルドに怒られた。そのエドアルドもまた、ジョルジョに付き合って街に買い物に行ったりしているのだ。知らずため息が出た。
ルカは知らないが、この工房では、先生のモデルをすることは先生の夜の相手をする、と同じ意味だった。実際、そうやって抱かれた相手は幾人もいるし、その上ダヴィデのモデルとなるほどの美少年のルカが、今はその相手なのだと疑わないものはいなかった。
だが、現実にはルカはそんなことを知らず、毎晩遅くまで工房に詰めては他人の絵を真似して見たり、彫像をじっくり眺めて見たり、さもなければ自室で遠近法や絵画技術の本を読んだりしていた。頭の中は絵のことやそこに描く人間の肉体のしくみ、新しい技術などのことで一杯で、自分が他人に仕事を押し付けているなどとは思ってもいなかった。それでも自分が多少疎まれているのだとわかったのは、もうすぐ天使の絵が完成するという頃のことだった。
季節は冬になり、明日には主の公現祭が行われる、という時だった。この公現祭は、フィレンチェで四、五年に一度行われているもので、キリストの誕生を礼拝する東方三博士とそのお供の行列の仮装をして、街を練り歩くというものだった。市の実力者も煌びやかな衣装で参加することもあり、実際仮装しない市民達も見物にでる、市民の楽しみの一つでもあった。それはもちろん、お祭り好きのフェルディナンド工房の弟子達も一緒で、工房中はその公現祭のことで盛り上がっていた。特に今年は、同じ工房のレオーネが仮装をするということで、前日の午後は仕事どころではなかった。
「うわあ、このトーガ、黒地に肩のところに赤の線が入ってるんだ。カッコイイね。レオーネにぴったりじゃないか」
出かけていたレオーネが戻ると、早速とばかりにその周りに人が集まり、いち早くジョルジョがその手に持っていた衣装を取り上げて広げた。
「それにしても手触りがいい。一体これ、いくらくらいするんでしょうねえ」
そう言って笑いを誘ったのは、つねに財政に頭を悩ませているアレッシオだ。
「ロレンツォの奴、もっと派手なのにしろってキラキラ光るようなの持ってきたんだ。これはまだ大人しい方だよ」
そうレオーネが言うと、周りからため息が漏れる。レオーネは画家などしているが、本当はメディチにも繋がる銀行家の次男だった。ただ本人にその仕事を手伝うつもりが毛頭なく、その奔放な性格ゆえに、今では家でも諦めているようだった。それでもときどき、その容姿のために、こうして祭りに引っ張りだされることはあった。
あれこれと騒いでいる輩を尻目に、ルカは一人絵を描いていた。本当は少しだけ、その衣装とやらに興味があったのだが、こういうときに自分から仲間に入っていけないのがルカだった。レオーネはいつもわりとだらしない格好をしているが、正装をしたらきっと惚れ惚れするような青年になることは、ルカにも想像ができた。それで、公現祭当日には、ルカも思い切ってジョルジョたちに声をかけ、一緒に見物に行きたいと言ったのだが、周りにいたほかの弟子達に、断られてしまった。曰く、絵を任されたといって工房の他の雑用を自分達に押し付けているのだから、祭りの見物などしていないで早くその絵を終わらせろ、ということだった。
ルカにとっては初耳で、フェルディナンドに確かに絵に専念しろとは言われていたが、朝食の仕事以外に雑用があることは知らなかったし、思いつかなかったのだ。その朝食には、いつも早く起きようと思うのに、前日に夜更かしをするために起きられず、それは反省すべきだと思ったが、押し付けているつもりは少しもなかった。
ルカは知らなかったとはいえ、自分のことばかりだった自分が恥ずかしく、そしてそう言われてしまうのも仕方がないと思った。でも、街中が楽しそうにしている中、自分だけがぽつりと残された寂しさに、泣きたくなってぐっと唇を噛んだ。思えば、家を出てきてから、もう随分経つ。母を知らず、父も特別優しかったわけではないが、急に故郷が恋しくなって、ルカはとうとう泣いてしまった。
その日は、フェルディナンドも祭りとその後の宴に招待を受けていて、工房には誰一人として残っていなかった。いつもは煩いくらい騒がしいのに、それが嘘のように静かで、ルカの淋しさを助長させる。いつもだったら、絵さえ描いていればまぎれる寂しさも、その日ばかりは絵筆を握る気にもならなかった。
突っ伏したテーブルからふっと顔を上げると、美しく、優美な聖母が目に入った。聖母なのにどこか艶かしさを感じさせるその目も口元も、微かに微笑んでいる。自分が描きたい聖母とは違うが、それでもその絵は美しいとルカは思っていた。あのレオーネが、どうしてこんな繊細な線で聖母を描けるのか不思議だった。出掛けにちらりと見えた着飾ったレオーネは、とても画家には見えなかった。
今ごろ、みんなどこかで一緒に騒いでいるのだろう。昼間の行列の煌びやかな様子や、レオーネの雄姿を語り草に、楽しくやっているに違いない。辺りはもう暗く、そういえば今日はまったく食事をしていないことにルカは気付いたが、食欲などあるわけがなかった。
「なんだ、誰かいるのか」
がたっと音がして扉が開いて、ルカは眩しさに目を細めた。ランプが顔の近くにあるために、光に阻まれて顔が見えない。誰もいないと思っていたルカは驚いて、誰?と小さく震えるような声をあげた。
「ああ、おちびちゃんは行かなかったのか」
そう言って近づいてきたのはレオーネだった。朝と同じ衣装をつけたままで、かつかつと中に入ってきたレオーネに、思わずルカは見惚れた。いつものだらしなさとはまるで違う。
「どうした?」
ことり、とランプがテーブルに置かれて、ルカは自分が泣いていたことを思い出した。慌てて顔を背けると、くすりと笑う声が聞こえた。それにむっとして何か言おうと思ったが、目の前にどさりと大きなバスケットを置かれて、ルカはその中から漂う美味しそうな匂いに、鼻をひくりと動かした。
「飯、食ってないな?ちょうどいい。一緒に食べよう」
「え、あの、どうして?」
「堅苦しいのは嫌いなんだよ。特に今日は陰謀を感じたから逃げ出してきた」
レオーネは手際よく、バスケットからパンや生ハム、タルトやチーズを取り出してテーブルに並べた。籠の中からは、ワインも一本出てくる。
「陰謀?」
ルカはそう首を傾げたが、コップがない、ナイフもいる、と言いながら、レオーネは台所へ言ってしまった。それからすぐに戻ってくると、さあ食べよう、とルカにワインの並々と注がれたカップを渡した。
元来、レオーネは賑やかなところは好きだ。メディチのロレンツォもジュリアーノも気が合う友人のようだったし、久しぶりに兄弟達に会うのも、着飾った女も、レオーネは少しばかり楽しみにしていた。でも、どうやら今日はそうやって楽しめないらしい、とレオーネは勘付いて、食事係にこっそり耳打ちして食事を分けてもらうと、早々に逃げてきてしまったのだ。あのままいたら、どこぞの娘との結婚話を勧められたに違いない。父親がそう企んでいることをわかった時点で、レオーネは全部を諦めて帰ることにしたのだ。
工房に誰かがいるとは、考えていなかった。朝からみんな出かけると言っていたし、フェルディナンドも今日は帰りが遅くなることはわっていた。そういうときにこぞって羽目を外すのがこの工房の連中で、ひとりゆっくり食事をしようと思っていた。
「美味しい……」
生ハムをのせたパンを食べたルカが、ふわりと微笑んで、レオーネもつられたように微笑んだ。暗い工房で何をしていたのかと思ったが、ランプの明かりに泣いた跡がうっすらと見えて、レオーネは苦笑した。工房の仲間達がどうやらルカを良く思っていない、というのはレオーネも知っていて、でもだからと言ってどうしようとも思っていなかった。自分はあくまでもここでは客扱いに近く、気に入っているならフェルディナンドが何とかするだろう、とも思っていた。よく考えれば、ルカはまだ十四、五の子供だ。自分が銀細工の工房に入ったのもそれぐらいの年だったが、まだ早いとも言われたし、でも工房は家からそう遠いところではなかったから、淋しいとも感じなかった。それに、持ち前の要領の良さと愛想のよさで、可愛がられもした。
それに比べて、目の前の細く美しい少年は、めったに笑いもしない。さっきみたいに笑えば、少しはみんなも気を緩めるだろうに、とその不器用さにレオーネは苦笑せざるを得ない。それに、あの絵だ。工房に入ってきてまだ数週間で描きはじめたと言うのに、師匠のフェルディナンドに全く劣らない筆使いだった。それを見たフェルディナンドが、今後、彫刻に専念するかもしれないと言っていたのをレオーネは知っている。そうなったら、それはそれで一波乱が起きるだろう。
目の前で、目を輝かせてあれこれと物色しては美味しいと微笑む少年を、レオーネは幾分気の毒そうに眺めていた。
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